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2024年02月07日
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カテゴリ:哲学研究室

 1842-1910年
 ブントみたいに実験操作で人のこころを操る、<優先>の心理学、ではなくて。
 心の機能的<意味>のほうを分析しようとした人だ、とウイキはいうけど。
 共有心の機能探査なんで。
 おんなじ意味やんけ?と思うけど?。

 「人間の行動は環境に対する適応の問題であり、意識は新しい環境に対する調整作用である」(心理学原理)、としたのがジェームズ。
 環境に対する調整作用のほうから適応の問題を優勢学的にとらえ、それを人間の行動にあてはめているわけだ。

 この人の命題は、わかりづらいというか、パッと見て難しい。
  何をいいたいのか明晰判明でないから、わからんように思ってしまう。
 論議対象の命題が、「環境」とか、「適応」、「調整作用」といった、全貌のわからん用語ばかりだからだ。
 しかしその基礎にあるのは<優勢学的目的思想>なのだが。

 ともあれ、これから見ていきたい。
 <意識の流れの理論>というものらしいんやが。


 1842年、ジェームズは裕福な神学者の息子としてニューヨークに生まれ。
 画家を志すが断念、は、演説の天才ヒトラーに似てる。

 ハーバード大の理学部で、化学から比較解剖学および生理学に移り、医学部へ。
 ヘルムホルツやヴントを知り、「心理学が一つの科学になりつつある」ことを感じたのでその道へ逸れた。
 彼も憂うつ症だったらしいが、身替わりすばやいというか、環境適応優勢能力ありそう。

 1875年「生理学と心理学の関係」という題で講義。
 心理学の実験所を設立し、知力と(お金の力で)米国心理学の祖となっていく。
 
 「ジェームズはやがて、スペンサーの哲学?(社会進化論)や、シャルル・ルヌーヴィエの<自由意志説思想>に興味を抱き」。
 「生理学だけでは人間の精神状態を説くのに十分でないと疑問を抱きはじめ、哲学の道を歩むことになる」。
 というが。

 「哲学」のこれは、疑問というより、ウソである。
 というより、なんかおかしい、と言うべきか。
 そのおかしさを表に引きずり出していきたい。

 ジェームズが先生にした<ハーバート・スペンサー>は、博識なクエーカー教徒の社会学者。
 優れた修辞学者だが、哲学者ではないし。

 <シャルル・ルヌーヴィエ>
 も哲学者ではない。
 「不可知なるものに対する嫌悪を抱く」というほどの知識人なのである。

 多元論者なんだが。
 つまり形而上学者ではあるが、なんと「不可知に道を閉ざした人」として知られる。
 なので、自分の無知を無知だと知ってない。
 有限な限界やヴァーチャリターを知るような哲学者では、ありえない。

 哲学者は、認識の手がかりがないものは、見えない、とあっさりいうはずだが。
 無知なものが、未だ感性だけの判断つきかねるものが、誰にも先天的にあるのだろうことくらいは知っている。
 そこから先は、うふぉ、だと、薄々わかっている。

 そのためカント先生みたいに、超常現象にも興味は示すが批判的に扱うはずだ。
 不可知への、自分の有限さや形而上学認識の破綻も感じているだし。
 予言などには、一切関わらないはずなのだ。

 それに対し、この人物は自ら「歴史のスヴェーデンボルグ」と称した人物。
 歴史っつうのがわからんが、再生の予言者???
 この二人は結構面白いので、じっくり見ていきたいが、そんなヒマないかも。
 ここでいうおかしげな哲学なるものは、無知の知ではなく。
 「知識修辞学」の間違い、なんだろうと思う。
 
 ジェームズには、このルヌーヴィエの<自由意志説>なるものが、クエーカー教徒らしく、「光明だったんだ」という。
 (クエーカー教団は、内なる光をいう光の教団)。

 「多元主義の見事な提唱によって」、その「印象のために、私は自分が育った一元論的迷信から自由になることは決してなかったかもしれない」。
 ともジェームズは言うのだ。
 自分が一元論的迷信のカルトだと、ちゃんと自己認識してるのだ。

 しかし多元論で自己破綻するのではなくて、一元論的に多元認める主義のほうを採用してしまう。
 主義主張なので、こんなんは哲学ではありえないのである。 
 そしてこの一元論というのが、先にオイラが、誤ってはいけない、としたその誤り臭いのである。

 アリストテレスの心理学からの、基礎の基礎部分の、踏み間違い。

 修辞学が扱う、<身体と精神の合一>の、この理解の誤りだ。
 肉体と魂の分離。
 その、<体と精神の合一否定>の方からジェームズは出発してる?
 と思えるのである。

 体は体、こころはまったく時空の異なる、こころっつう名の魂?
 現実には、そないなこと、ありえへんことなんやが。
 多元一元の扱い、が、哲学の多神や、宗教の一神とも混ざってしまってるようにも感じる。
 そういう類の違和感がある。

 これはウイキの評論も、どこかへんなのだ。
 評論は<学問のありかた>と、<人の心のありかたを>、一意に、ごった煮にする。
 だからおかしくなると思う。

 学問は確かに一意を目ざす、が。
 完成はありえない。
 一意化の完成などは、ありえない。
 学者の意見は継承される。

 心身合一として、享有と対象認識の時空をも享有させることで、その心理の享有も認識可能となるはずなんだが。
 享有と共有が学問上で折り合うこと、すら困難だ。
 科学的にスキエンチアすることではなく、心身合一という仮の命題立てることで、学がめざせるはずなのであるが。
 それとは違う。

 心身分離しちまえば、科に切り分けちまえば、事が簡単になるのは確か。
  理解しやすくんなったように思ってしまう。
 但し、享有の時空と、目指す一意とのつながりが、途切れてしまう。
 演繹できなくなる。
 学問の目的のあり方に従って、ちょん、と特定の科へスキエンチアしちまえば。
 人の心のありかたは、まずその目的を、どっかから持ってきて据えざるをえなくなるし。
 (そうしないと虚無に堕ちる)。
 それが学問の目的にもすり替わっていって、一意のうふぉ目的に、なりきってしまう。

 アリストテレス先生は哲学者なので。
 必ず、多神教徒。
 しかしその<修辞学では>心身合一の立場を、仮想で置いていた。

 それは学問上では必要なことだ。
 一意なオブジェクトをこそ、研究対象にできるんやが。
 しかしこれが一元論などではありえない、のは、先に述べた通り。

 別の理由探すと、哲学が、知恵の主義主張などではないから、なのだ。
 修辞学は長いモンにまかれて主義主張の側に最初から立つが。
 哲学は現実のバーチャリターを認めるから、ねじれを認めるから、知恵の主義主張にはなりえへん。
 場合によったら、最後まで立ち尽くす。

 ジェームズは、これを誤解したようだ。
  最近の日本人の多くも、彼に従って誤解していて。
 「霊が先で身は借り物だ」、なんて言ってる人いた。
 気に入ってる日本人の歴史ユーチュウブなので、衝撃受けた。

 両方揃わないと、霊だけでは人間にはならないのに。
 米国心理学は確かに霊優先、かつ心理優先。
 そっちに影響されているのだ。

 ルヌーヴィエの<自由意志説>でもって、ジェームズは一元論的迷信から自由になったと考え。
 <宗教カルトから出られた>、ということにしたのだが。
 しかし同時に、アリストテレス修辞学からも出てしまった。

 修辞学で生まれたアリストテレス心理学を捨てて、このとき倫理カテゴリーの諸々も同時に捨てた。
 ということになっちまった、のである。

 ジェームズはまた、教科書にスペンサーの「心理学原理」を用いてた。
 幅や奥行きの広いアリストテレス修辞学ではなく。
 狭量なスペンサー独自の修辞学的心理学こそが大先生、だったのである。

 スペンサーは、修辞学者だと言っても、「科学の申し子のような」、と言うべき様なスキエンチア人だ。
 今で言う、ガチのサイエンチスト。

 だからジェームズは、スペンサー見ならったので、<科学的心理学を志向した>、だとは確かに言える。
 良い意味では、ない。

 このスペンサー先生を先にちょっと、見ていく。


 <ハーバート・スペンサー>1820 - 1903年

 英国人。
 ダーウィン読んで影響された進化論を<自然選択説>と言い替え、さらに<適者生存>と言い換えたような、かなり身勝手な人のようだ。
 適者生存を、「社会学や倫理学にも応用して議論を展開」した、優生学丸出しの人というべきか。

 かなり変なダーウイン解釈の人なので、興味を引く。
 (解説がそうなのかもしれんが)
 あとでダーウインも見ていきたい。

 イングランドの、<クエーカー教徒>の家庭に生まれた人であるらしい。
 宗教上の繋がりが、その身勝手さの基礎にあるのだ。
 (クエーカー教徒は個々人<享有の心の光>を持つ。)
 (だから個々人は結構身勝手なんである)。

 プロテスタントには、英国国教会だけでなくて、非国教徒教会等もあった。
 非国教徒は、再洗礼派、ジャコバイト、清教徒にわかれたようだが。
 その後さらに、バプテスト、長老派、メソジスト、クエーカー、救世軍、などの無数の派閥にもわかれていくようだ。
 いずれも身勝手で、お互いの関係もはっきりさせん敵同士。

 スペンサーの父は、ペスタロッチ信奉の学校経営者だという。
 その父の方針で、学校教育を受けられなかった。
 叔父の経営する寄宿学校では、ラテン語、数学、物理学などは学んだようだが。

 最初は鉄道技師で売り出し。
 ラマルクを知り、<定向進化>と<用不用説>を学び、骨相学に入れ込み。
 心の機能と脳神経生理が対応すること、「機能の局在は、局在する場所や仕様が違うのではないかと」思い始めたそうだ。
 最初から、生体の機能的側面にしか興味持ってない。
 つまり科学的、ということなのだ。

 「ゾイスト誌」という雑誌上に1844年に「驚きの器官に関する一理論」という論文を投稿しているらしい。
 この雑誌は、「<人間の精神構造を支配する法則を少なからず理解するための実践的な科学との接続と調和>をテーマ」にして売ってたという。
 経済誌「エコノミスト」誌の副編集長を務めることもあったようだ。

 そのころから百花繚乱。
 いろんな分野に、彼独特の天才的科学的洞察が花開くわけである。

 ミルの「論理学体系」にも影響され。
 コントの向こうをも張って「社会静学」を出し。
 「権利提綱」、「婦人の権利」、「干渉論」、
 1854年には「科学の起源」出した。

 彼はまた「立法干渉の当否に疑問を抱」いていて。
 日常の帰納的推理が前提だが、「予想された現象と現実の現象との間には完全な一致がある」という身勝手さを常に持つので。
 長いモンには巻かれない。
 「そしてこれ以上のことは、科学の最高の業績についても期待しない」、と。
 不可知には一切関わらん態度なのである。

 1855年に「心理学原理」を出した。

 哲学が存在を定式化できないのであれば、(つまり修辞不可能であれば、()=オイラの意見)、そんなもんに意味はない、というのがスペンサー。
 (だから無知の知なんぞに、もともと意味はない、わけだ)。

 しかし本質についての「過去及び現在の考えはそのいづれをとってもすべてが誤りではなく、そこに見られる真理は一致するとそれとなく示している」。
 歴史上の修辞経過は認める。
 スペンサーにとっての哲学は、修辞されて不可知を持たない<知識体系>なのである。
 水、空気、火、などの(オブジェクト)存在を定式化する科学知識の、再現技術認識体系が、彼の言う哲学にあたる、のである。
 (そんなもん、ないが)。
 「哲学は単なる経験知よりもあらゆる点において事物を認識しうるとの信念を含んでいる」。

 つまり対象認識の修辞的態度が哲学であり、背後に(不可知でない、いずれ判明する)科学体系があるんや、と言いたいわけだ。
 (これはトンデモ論議なわけだが、わかるやろか)。
 不可知への道閉ざすのに、アジェンダ的な科学が、ある?ケ?
 
 彼の哲学史では、<自然哲学>がうまれ、それが<実証主義>となり。
 やがて「科学の最高の一般原則を包括して統合するということ」に至るんだと。
 哲学は、曖昧さを失って科学になっていくんだと。
 その過程が、流れが評価されている。

 一意信仰に拠ってて、こんなアジェンダ背負って考えてる科学者センセエは、しかし多いはずである。
 (それらが、現在の共有世界を破滅へと導いていってるわけだが、それが、わかるやろか)。

 そのことに気が付かない人には。
 つまりこれがトンデモ心理学だと気が付かない人には、何言ってもムダだろうという気はしてる。
 そもそもスキエンチアやることに<倫理的制約がまったくない>んだから。
 人間じゃないんである。

 倫理の意身からして、彼らの場合は違ってしまう、のである。
 倫理は享有者が自分に制約を課すこと。
 倫理規制委員会作る事じゃないんやが。
 彼らの場合は、なんんと共有で倫理をいじろうとする。
 その米国風常識が日本にも押し付けられている。

 全体の真理体系なんやから、個々のオブジェクトは科に分離させたのに。
 対象認識のモンは、彼らにとって粒子か波かの「明確な」オブジェクトとなるんやろ。 (目的やアジェンダ持たされたオブジェが)。

 スペンサーの面白い点は、ここにある。
 明確さを得るために、特に<運動の律動性>を言う点に。
 それがトンデモ理論に助け船出してる。

 「軌道を回る惑星の運動やエーテル粒子の波動であれ、演説の抑揚や物価の高下であれ、運動の律動性がみられる」、と。
 人間の精神活動にも、この波動の律動性は影響するっつうわけだ。



 さて、スペンサーという優勢学者は、ここらでほっといて、ジェームズに戻りたい。

 彼ジェームズは、内なる無知にではなく。
 予言者めいた<内なる光>に導かれて信仰を再確認し。
 その光知識が指し示す、科学的体系のアジェンダに導かれて。
 トンデモ論議のスペンサー心理学を深化させた人物。

 米国に根付かせたのである。

 これは明白に、<優生学や心理操作技術を含んだ科学的なもの>である。
 背後に宗教が潜んで、隠れているが、そこへの理解は閉ざされている。
 その科学はアリストテレス先生の心理学否定どころか。
 哲学にも背乗りし、その皮むき処刑にすら、かかったのである。

 「哲学の真理は従って」、「科学の最高の一般原則を包括して統合するということである」といったようなことすら、彼の師のように語っていたのかも。
 基礎がスペンサーなのだから、というより。
 これはスペンサーから継承した<科学>なのだから、だ。

 科学技術の非人間性については、今更語る必要はないと思う。
 原爆が証明している。
 科学技術は<合目的対象化認識の技術>、実務技術の知識体系であるからだ。

 ジェームスが、それを心理学として、哲学に代わるべき共有の知識体系への、アジェンダ科学にして。
 発展させていったのだ。
 実験心理学を打ち立てたヴントと、競いあうかのように影響しあって。

 心身個別の、科学で切り刻む、プロテスタント・キリスト教の光を求めて。
 心理学の<実験所を設立>て。
 そこでどんな悪行実験をやったのか。
 これを表に出すべきだが、資料がことごとく隠ぺいされるので、見えん。

 まず、生理学的心理学から、意識状態の原理掌握を目指し。
 実務知識を網羅できる体系的知識学をもくろんで。
 この成果でもって、小うるさい哲学をも乗っ取った、と思ったことだろうが。

 彼らの考える哲学の真理は、科学の最高の一般原則を包括統合するということである、からだ。
 「心理学の目的は、意識状態(心的状態)そのものを記述し説明すること」である。
 こっちが優勢、となる?

 ここで述べている目的などは、ささやかな敬虔論者の、享有認識のそれではないのである。
 内なる光で共有世界を牛耳りたい、と、<科学で共有意識をちょんぎっていきたい>といっちょる、わけだ。
 彼らはまるで、<フランキストのように考える>んである。

 こころの内で、享有の光が、ルシファーが導く、と考える。
 これはフランキストの特徴である。
 善悪の葛藤があるとはまったく考えない。

 この連中は、こころに<ポシティブな合理性>のみを見るのだ。
 ネガチブな不合理や未知なものは見ないで、方途を閉ざしてしまう。
 「心の状態は単なる考えや感じでさえも、その結果的においては運動的である」と考えてもいるようだ。

 佇みのこころとか、敬虔さを言うへり下りや、怯むこころ、などは持ちあわせないわけだ。
 いわば、弱いこころは、ルサンチマンは持たないニーチェを考えてもいい。
 地蔵菩薩の持つ理念の、その真逆を考えればいい。

 最強のもののみ、絶対優先。
 力信仰なわけである。
 死にかけた者はほっとけ、助かるやつから助けろ、という共有思想。
 そこには生物の、神による約束されえらばれし人の進化という(誤った)優勢学命題が寝ている。

 ここで進化論を見ていきたいと思う。


 <進化論>

 進化論は、フランキストたちが共通して持つ宗教理念である。
 もちろん、コレはオイラだけが言う極論命題で(無意味)。
 コレには拘らず、まず世間常識から入りたい。


 <チャールズ・ロバート・ダーウィン>1809 - 1882年

 エディンバラ大学で医学と地質学を学んだが。
 血を見ることが嫌で学位も取らずに1827年に大学を去る。
 奴隷ジョン・エドモンストーンから動物の剥製製作術を学んだ。

 急進的な唯物論プリニー協会に所属し、海生生物の観察などに従事してたそうだ。
 ロバート・グラントの海洋無脊椎動物の研究手伝い。
 大学の博物学の授業は退屈だったという。

 植物の分類も学び、当時ヨーロッパで最大のコレクションを誇ったエディンバラ大学博物館でも、お手伝い。
 ケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入学、博物学や昆虫採集に傾倒。
 このころ聖職者・博物学者のジョン・スティーブンス・ヘンズローと出会う。

 音楽や狩猟が趣味だったようで。
 恩師ヘンズローの紹介で、ビーグル号に乗っての研究生活が始まる。
 博物学者だった艦医マコーミックが途中で下船したため、ダーウィンがその後任を務めることになったそうだ。

 そして5年もの大航海。
 「サロウェイは、ダーウィンがこの航海で得た物は「進化の証拠」ではなく、「科学的探求の方法」だったと述べている」らしい。
 ダーウィンは、「ラマルクと同じように獲得形質の遺伝を支持していた」という。

 さて「進化論」であるが、これがウイキなどでは理解しづらい。
 というか、ウイキはもうダメなんである。
 へんな泥沼に引き込まれる。

 「種の起源」という著作こそが、当時のダーウィン人気のモトであって、世間もコレに反応したのである。
 それが、無視されている。
 ウイキがくどくど書いてた自然選択説なんて、先生のスペンサーの説なんで、無関係じゃなくても違うやろが!。
 ネット上のウイキ書いた敵は、どうやら進化論そのもんを消して、自然選択説へと誘導したい人らしい。

 別のサイトのMINDSET SARON.というのに進化論、出てた。

 「全ての生物はいまの種族として地球に突如発生したのではなく、<進化した結果>である、という主張をする」命題論議。

 これで、いいと思う。
 これが進化論。
 単細胞から<進化して、こうなったんや>という、生命に関する独特の跡付けの考え方。
 そういう論説であって、それが正しいとか間違ってるとか言ってんじゃない。
 
 当時主流の考え方は「神の創造説」であったそうで。
 それも正しいとか間違ってるとか言えん論説。
 信仰なんで。
 ダーウインの方も信仰説。

 ダーウインの説は、当時の科学(信仰)を標榜する人たちの喝さいを浴びた。
 帰納的に動植物の変異を見ていて、進化した結果、種の進化と言うものが見えてんだ、と。
 それは種の変異の優勢的なモノが生き残って、新たな種が形成されたんだ、と思うしかなかったんであるが、そこまで言ってるわけじゃない。
 当時の知識の幅が信仰カルトを形成し、その論議を正当化しただけ。
 ここにはもちろん、オイラの大きらいな優勢学が潜んでいるわけである。

 その優生学擁護を、オイラ、しとるんじゃない。
 優生学についてはラッセルの項目で扱った。
 優生学が心理学の基礎にどっぷりあるそれを隠したいグループが、進化論思想圧殺にかかっているようだが。
 そっちがもっと怖いから、オイラ、ウダウダ言ってるわけだ。

 「進化とは優れた存在になるのではなく、変化に適応するために変化するだけである、ということです」。
 と、このサイトにも言い訳がましく書いてあったが。
 これこそがダーウイン思想への、ねじ曲げ冒涜意見なのである。
 <環境適応>言ってるわけじゃない、進化を述べたのがダーウイン。

 ダーウインは、その一門で優勢学も気にしてたし、もともと白豪主義の差別主義者。
 今さら胡麻化そうったって、そういうわけにはいかない。
 しかし優勢的にそうなった、言うてるんじゃなくて。
 集団が全体で進化しちょるとしか言いようがない、と観察を根拠にして彼は言ってるわけだ。


 ジェームズの心理学は、進化論のこれを科学的知見として採用した。
 「人の能力のみならず情動や本能も、生存を助ける形で準備されている」。
 「この順応は」、「心と外界が相たずさえて進化した」「ことの結果である」、とみなし。
 心的活動が常に「脳の活動の関数である」とする。

 これが世間に常識化されていったわけだ。
 それまで心身合一であったアリストテレス風の見解を、<心的活動として分離した>ことは先に述べたが。
 「生理心理学的作業仮説の上に立っている」以上、当然の帰結として身体は無視で脳のみの進化論議になる。

 さらに、「役立つから進化したんや」、と、修辞学礼賛する一方で。
 「動作が心的だと認められる基準は、その<目的追求性と選択制にあるんや>」として。
 人の行動の<原理を、心理学で、進化論的に目的追求のお手つだい>、までしていって考える始末。
 「心的生活の有目的性が大事なんや」と、果ては道徳内容にまで口出ししていた。

 心的と認められる基準も制限して、その<目的追求性と選択制>に限定。
 同じ目的を達成するために、異なる手段を柔軟に用いるところに心の表現を見る、という徹底ぶり。
 無目的行動や、偶発的態度などは、心的活動にはないんだ、とするわけかも。
 「習慣はわれわれの運動を単純化し、これを正確にし、かつ疲労を減ずる」そうだ。
 まるでロボット制御の法則つくり?、と思ってしまいうのはオイラだけか?

 構成主義者のように要素を見だすことを前提とした内省ではなく、あるがままを見る自然な自己観察である、というが。
 信仰や目的が仮想の享有自己を観察させているとは、一切考えてないようだ。
 光は、それ自身を見られない。

 信仰も目的も隠すのだから、この心的意識の特徴は「意識の流れ」であることになる
 「意識を要素に分かたず、まとまりのある全体としてとらえる」そうだ。
 後のゲシュタルト心理学ジェームズ・ランゲなどでは「泣くから悲しい」「逃げるから恐い」のであって、その逆でない、ことになるんだそうだ。???

 1902年に「宗教的経験の諸相」を刊行したことでわかるように、彼は宗教家である。
 この宗教の常識に、心理学信奉信者がつかまっていったのである。
 この信者たちは、教祖の言う通り無名で出てきたパースを後押しし、プラグマチズムを米大陸に広めていったのは、ウイキの言う通りだろう。
 1904年に「純粋経験の世界」、1907年に「プラグマティズム」、「根本的経験主義」「哲学の諸問題」刊行。

 米国では、心理学が哲学界を事実上、乗っ取ったのである。

 
 *次回はゲシュタルト見てから、ルヌーヴィエ関係とか、超常現象、オカルトにも少し踏み込んでみたい。







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最終更新日  2024年02月07日 12時32分24秒
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