先に中途半端だったルヌーヴィエ見て、オカルトとか超常現象問題も考え、その後にゲシュタルトに入りたい。
<シャルル・ベルナール・ルヌーヴィエ> 1815年 - 1903年
フランス人のようだ。
生涯一度も公職についてないという。
ひたすら執筆に力を注いだという人らしい。
それで食えたってのは、親譲りの大金持ちの証拠。
<新批判主義>を自称した、という。
大きな特徴が二つあるそうだ。
「不可知」に対する「嫌悪」と、「個人的経験の妥当性」に対する「信頼」だそうで。 わからん、は許さんのと、オレの経験は絶対正しい。
カント哲学から独自の道へというが、ウイキの説は怪しい、というか、ダメ。
カント哲学は批判<主義>ではないし、現象主義でもない。
そもそも主義主張じゃない。
現象から自分の無知の知へと、対話し、認識し、批判していく哲学であっただけ。
ルヌーヴィエが、<世に諸々の現象があることは認めるが、カント先生のモノ自体論議をハナから拒否するがゆえに>、独自の道だ、と言いたいようだが。
それってハナからムリな道でしょ、が。
モノ自体は、それを(うふぉ的に)想定して現象を論議するわけだ。
だが、現象のモノ自体などは、もともとないってハッキリしてるし。
カント先生も、「モノ自体はない」とハッキリ言い切ったのである。
モノは現象という、感性の時空<表現>にすぎんと。
ルヌーヴィエは、この論議自体を拒否。
空気の輝き(エア・シャイヌング)は一見「ある」かのように見えている。
それはオイラたちの経験に、拠り処、<観察時空>、があるためで。
見る者は見られるものというバーチャリターがあるためで。
つまり人に<感性的認識>の、「ある」ためで。
その原理を先験的に演繹しつつ、弁証しつつ、批判していったのがカント哲学。
現象の背後に「空気の輝き」というモノ自体想定があるわけではない。
カント哲学に、モノ自体はない。
この論議自体を、ルヌーヴィエはハナから拒否するのである。
だからカント哲学の拒否であって。
基礎の基礎が違うんやから、カントからの出発なんてのはウソだとわかる。
つまり<物事に対する、享有からの客観化論議や共有論議を、全部拒否する>わけだから話にならんわけである。
まるでこの世に享有以外はないんだ、オレ以外に思惟は許さん、といわんばかり。
おいらが享有する(オイラへと見つめてくる力の存在)は認める。
しかし現象は、そのような共有論議できるもんじゃない、というのだ。
お前、メシアのつもりか?
これが、「自然主義的一元論が非神秘的な物体や動的な基体によって世界を説明することにも」「反体」、っつう態度、ということだろう。
無知の知話の相互共有どころか。
共有知を享有知が認め「ない」、というからだ。
だからディアレクチークもないわけで。
ディアレクチークなければ、これは絶対に哲学じゃない。
当然ながら「一元論が非神秘的な物体や動的な基体によって世界を説明すること」、もできんわけで、現象も説明不能のはずだからだ。
現象はしかし「単に感覚的であるだけでなく、主観的側面と同じ程度に客観的な側面も持ち合わせている」んだと、へんなこと言う。
<現象自体の存在のほうを、暗に認めている>かのようだ。
素朴的現象実在論というべきか?。
自分の享有認識以前の、現象自体の存在のほうを、しかし、どうやって認める???
なんか、共有の共有認めてんのと、おんなじ手の思惟のような気がする。
こんなエゴイスチックな思惟だと、カテゴリーは当然ながら書き替わる。
人の知性は、自分の身体からも自由、とはなるのかも。
つまり人の、感性という拠り処がなくなる、てえこと。
早い話、魂だけの、<幽霊>になるんですなあ。
空気の輝きという認識、それだけがあるような世界に、魂魄となった人間の自由って?。
意志がすべて?
もう、仮にもついていけんがやき。
演繹の導きの糸が一切、どこにも、ないからだ。
<人間の不死性>を肯定、立憲君主たる<有限な神の存在を肯定>?
合理的に正当化?
まあ普通の思惟じゃなくて、これらは狂気にも似たカルト信仰がもたらしたものだ。
「無限の和とは不完全な名であるはずだ」、という考えはデジタル的でもなくて。
ライプニッツの楽観的形而上学認識とも、かなり程遠いものだろう。
ウイキが「近い」というライプニッツの神は、造物神絶対のカーネル神みたいなもんだった。
ライプニッツの微分積分は、無限へと至る過程に到達点があるのだが。
それを天上の神が見守るのだが。
彼ルヌーヴィエには、ない。
新批判主義的という彼の立場だと、魂投企アジェンダの到達点なども、なくなる。
時空もなくなる、からである。
これが最大の特徴だとオイラ思う、<時空なし>。
つまり、生きてない死霊の存在。
人には、死と言う享有の時空到達点があるのだが、これを認めたくないだけなのだろうかにゃー。
魂だけになって、時空も捨てて、どこに存在するつもりなんかはしらんが。
次元てえのは時空のことだよ。
存在できる次元などはどこにもない。
一元論的な迷信からは、確かに自由になった。
しかし獣の心の奥底に享有する、光の悪魔に(彼の信仰が)捕まっただけなんでは?
モロに、フランキストの悪魔が、そこから見え始めるような気がしてしまう。
しかし闇がないと、光も見えんはずなんすよ。
形而上学問題のシステム論議や、歴史分析を通じての哲学論も彼の論議にはあるみたいなのに、どうして共有論議に道を閉ざすのか。
これがわからん。
まあ、カント先生の論義のほうは、アホなおいらには難しすぎて、最後の方はついていけんなるのも確かなんだが。
この人の論議は、一見数学的に考えるようなのに、対話事態を拒絶される。
なので、ついていけん。
一見数学的に厳密に理論化していくのではなく。
論議のもとなる<享有を多重人格化して>目くらませていくから、そうなるというべきか。
おいらがやる孤立したパースペクチズム風の多元論、とは、明らかにちがう。
彼らは組織的集団なのだ。
そのルヌーヴィエは、スウェーデンボルグと特殊な関係にあったらしい。
ずっと引用先明記してないので、手がかりがネット上から消えちまってたが。
たぶん、おんなじ組織。
みんなの好きな<天界の秘密>が、信仰に、此処で、からんでいるのだ。
感性的時空で、じゃなく。
組織がらみで<めまい>させる、知性のみの眩惑で<絡む組織>。
スウェーデンボルグは1688年-1772年の人なので、1815年生まれのルヌーヴィエから見ても大昔の人。
しかし彼は<スウェーデンボルグの心理学論議の継承者らしい>のである。
<再生の心理学>、という代物が、それだ。
ルヌーヴィエは、これの継承者なのである。
心理学というより、<多重人格分裂症的な思想一致の継承>というか。
<旧約聖書解釈の絡む、信仰の一致>とでもいうべきもの。
カント先生をこの世に送り出してくれた、フリーメ-ソンという組織が、深く絡らみ。
その地域のグランドマスターであったらしいスウェーデンボルグという新貴族が、<めまい>、させる、知的な眩惑の提供者。
おいら、この組織にも、知的な瞳着的「めまい」にも、興味はない。
なので素通りしたいが。
おいらに興味があるのは、天界の秘密ではなくて。
生きている、この自分の、享有し共有する<現実の不可思議>のほうだ。
享有認識が感じていいる、形而上学的問いの、共有解消要求のほう。
但し、これには先験的誤謬がつきまとうので、極めて危険なのだ。
みんなの好きな<天界の秘密>とやらは。
説明のつかん、生きているこの現実の不思議さ使った<カルト組織の布教宣伝に外ならん>、と思うからだ。
不死だとか言うが。
それも<生きている時空の、経験的な知識で>生きている間に言っているにすぎんのやけど。
天界には秘密がある、んではなくて。
自然という、<隠れない状態がある>だけなんだが。
人の感性的認識には、時空という限界が必ずあって。
その表現のカテゴリーの様すらも、未だまったく明確ではない。
これを明晰判明にするべきなのが哲学なんだが、隠ぺい組織にばかり、邪魔される。
現実をカルト化したって、先験的誤謬からは逃れられんのに。
形而上学を持ちあげて、哲学だと言って見たり。
信仰で心だけ分離させて心理学だとか・・・。
再生の心理学のほうは、カルト化を通り越して、オカルトものらしいのだ。
過去に書いた気もするが、もう一度。
<オカルト>
オカルトという言葉は、「隠されたもの」や「秘密にされたもの」といった意味を表す。
「隠された真理や知識を明らかにする」という意図もあるようである。
またこの言葉は、カルトの暴露や反語であり、カルト抜きに騙れる用語ではない。
必ず、カルト組織が絡む。
カルトは、「崇拝」「礼拝」を意味するラテン語cultusが語源。
フランス語カルトが<宗教の宗旨別を意味する>ように、<一神教宗教の教え>のこと。
神道や仏教は関係おまへん、必ず一神教宗教の教え。
これがカルト。
これを<秘密にして隠ぺいする、あるいは暴露する、のがオカルト>、なのである。
隠蔽にも暴露にも関与し操作する。
オカルトとカルトは、実にややこしくねじれた反語関係にある。
だから、オカルトと相反するように見える科学も、実はカルトの一種、なのであると、これでわかる。
科学は、その科に一神教宗教の教えが秘密になって、隠ぺいされている。
その科に分類することで、目的に至る純粋素材、つまり人工の自然ブツが暴露され得られている。
科学はその基礎に、キリスト教やユダヤ教といった一神教の教義理論が居座り、科に微細分化しての教義を施しているのだ。
目的物への、<反復再現>を目指す、実務ものなのだ。
合目的な、対象化認識技術による、目的物再現の知識体系が科学技術である。
素材確保という、修辞目的を持っている。
理論的に正しく再現可能なものもののみが科学となるのであり、ノート(指示書)は欠かせない。
ポイと偶然出来たものや、発明品などは、科学ではなく、まったく別のカテゴリーとなり、<テクノロジー製品>と呼ぶ。
この現実は、常にカルト宗教に隠ぺいされているのだが。
つまりオカルトは、一神教宗教の教えの<邪魔者>なのであるように一見、見える。
宗教の教えの常識化を超えて、人の認識を、空想や虚無の世界に自由に、一瞬で衆愚にして連れてってしまうからだ。
科学は逆に、聡明にして立たせてくれるように一見、見える。
これらはあくまで、見かけにすぎんのである。
オカルトのいう現象も、人に、日常の確認をさせる感性的な時空のことだが。
超常識的な現象相手、つまり認識しがたい現象相手なので。
その感性的な時空の制限を、新次元だ、なんていって無視する。
それだけでなく、宗教的日常の常識を超えさせて、宗教教義を見えなくさせ。
覆い隠す。
これを、常識を飛び超える<うふぉ現象>にするから超常現象という。
UFOだとか、ユーマだとか、幽霊だとか。
プラズマだとか、やっと最近騒がれ始めた電磁波だとか、さらに重力とか、電気などの見えんもんもこの類なんだが、最近わからんままに半常識化してきた。
これらを操作する人の狙いや目的は、大衆扇動なのである。
個々人相手のことではない。
必ず宗教組織が絡んでいるのだ。
オカルトは、一神教宗教のカルトの教えの、一見<邪魔者>なのだが。
裏では宗教組織が手を引いていて。
他の一神教宗教の教えの邪魔、暴露、常識破壊や情報開示をもやってるわけだ。
だから、こういった組織に共通して、目ざめだとか、団結だとか、自覚だとか。
個々人の倫理観を台無しにしようと、あれこれ画策してくるわけだ。
しつこく言うけど、<倫理は個人享有>のもの。
絶対に共有できまへん。
記述されて<共有される道徳>と、まぜまぜしてはいけまへん。
<再生の心理学>
創世記や出エジプト記をも、「人間の再生に関わる最古の心理学だ」と見るカルトたち。
これは一神教徒の旧約聖書解釈、というより。
メシアによる自己オカルト化、の宣言だろう。
オカルト者は暴露者であるがゆえに、該に、カルトの全貌も知っている。
目覚めた人間だ、というわけだ。
カント先生に見られるような敬虔主義論者の片鱗も、スウェーデンンボルグやルヌーヴィエには一切ない。
教義に述べているのは、カルト化された、うまれ替わり信仰のこと。
というより。
共有の理念として告げているのが、人間が人間になってゆく<神界の過程>だからだ。
無知が知識を得て人間になってゆく、んじゃなしに。
<すべてお見通しの享有者、メシアであるオレが言うように、精神的・霊的(現象)世界の複製として自然界が、共有世界があるんや>、と考えるようだ。
「もし何らかの精神的-霊的な真理が存在するなら、その真理は自然界の事物をとおして表象されるであろう」。
といったような、横柄な意見になるしかない。
「小さな光体」である「信仰の核」があって、ヘルメス主義組織という組織の核と繋がっていて、組織のそれが言わせてんだと。
そして<めまい>はまるで、ヴァーチャリターやコペルニク的転回なのだが。
その享有認識者が、有限な死すべき個人ではなく、心理学継承した組織にすり替わってしまっている。
パスカルから得たらしい、小さな光体である信仰の核が、心理学組織に背乗りするのだ。
ここんとこが、ようわからんが。
スウェーデンボルグは晩年科学を捨て、オカルトに熱中。
ルヌーヴィエも同様らしい。
しかし彼らは、めまいして失われた自分の時間を探し求めたりは決して、しないのだ。
ルヌーヴィエによると、身体的「眩暈」と心的「眩暈」がある。
かれは心に拠りかかり、身体的めまいは無視する、みたいだが。
「ある人物のめまいが「奇蹟」とみなされたりもする」、と言ってる。
「それがガブリエル・タルドの言う模倣によって伝播するとき、めまいは<社会心理学的眩暈>となる」、と。
<ジャン=ガブリエル・ド・タルド>1843 - 1904年
裁判所に勤務のかたわら多くの著作や論文を発表し、1894年には司法省統計局長に就任。
レジョン・ドヌール勲章もらってる。
「犯罪は遺伝的なものであると考えるイタリアのロンブローゾの犯罪学に対し関心をもって研究し、犯罪は伝播や伝染といった観点から<模倣的な事実>であるという視点で批判も行っている」そうだ。
「1890年に(模倣の法則――社会学的研究)を発表し、社会学を一般に受容させた人物の一人である」
「後に社会学の父と称されることとなるデュルケムに対して、分業が道徳的な事実であるか否か、犯罪が正常であるか否か、社会が実在するのか否か(社会実在論)といった多岐にわたる論点をめぐって論争を繰り広げた」、という。
ルヌーヴィエは、<まねし>、という心の<めまい>を奇跡に変えようとしたのだろうか?
逆に、めまいを治癒に導くことが、教育への関心となったのだろうか?
どちらも違うように思う。
「現勢的無限のごときものを実体とみなす形而上学的眩暈もある」と、ちゃんと実在世間を理解してるのに、原因が判明した後も、めまいは止まらない。
心だけで立って身体無視なので、当然なのだが。
めまいを治癒させることが、「ルヌヴィエにとっては教育」だったというのもありえること。
メシアや予言者として、享有のみを自己主張する者には狂気しかないのだが。
心理学上、ルヌーヴィエはフロイトの敵対者である。
「無意識は言葉の綾にすぎない」、と、フロイト心理学の核を、綾表現で片付ける。
ここに<解離性多重人格の理論>が潜んでると、指摘する向きもある。
人の人格にはこころの秘密が潜んでいて、狂気の本質すら、定かではない。
心理学は、ルヌーヴィエからジェームズに継承されたが、めまいは収まらない。
まずアリストテレスの修辞学に立ち返り、オカルトちっくなメシアの狂気を追い出さないと、どうしようもないのでは?
そして無意識を見出したフロイトも、ノイローゼにならない、めまいもしない、ガチの現実主義者(ユダヤ人のこと)、つまりカルトなのである。
組織が庇護できない超常現象に出会ったら、彼らどういう反応するんだろう。
**次回はゲシュタルト。