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2024年03月02日
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カテゴリ:哲学研究室

 アカデメイア追放後にマケドニアの王室に拾われていなかったら、アリストテレス先生の業績は散逸していただろう。
 デオゲネス・ラエルティオスの古典文献修辞学が伝わってなかったら、西洋の学問の基礎はまた違ったものだったのかもしれない。

 イスカンダルの名声のおかげで先生の学問は世界に伝わり、韋駄天の、その先生かあ、で片付くわけだ。
 オイラたちの極東にも韋駄天は伝わっている。
 さらにヘラスを飲み込み殺したローマ帝国が深く、のちに関与した。
 謹厳、実直、陰険なローマ人の横暴により危惧した後世のギリシャ人のおかげで、古典の文献学となった。
 (ヘラス人と後のギリシャ人は、すでに違う人種になっている)

 いろんな人の講義録や解釈がいっぱい残って編纂されて、ヘラス人アリストテレス全集が作り上げられ。
 それが今日の西洋の、科学技術や諸学問の本当の意味での基礎とはなったのである。

 但し、まっとうには伝わらなかった。
 ギリシャ人はすでにヘラス人ではなかった。
 哲学は滅んで修辞学化してたし。
 科学も、アリストテレス先生の自然学とは、その基礎がズレて別ものとなった。
 この事情については、哲学史上でずっと述べてきたつもりである。

 学問の理念は、ほぼ受け継いでいるのだが、かなり異なって歪んでいるのだ。
 特にアリストテレス風の科学技術は、基礎のカケ違いでコケて死んでいる。
 どういう風にゆがんだか、どういう風に殺したか、それを中心に、これまでどおりダメなウイキをテキストにして、今一度、先生の哲学を中心にしながら見ていきたいわけだ。

  <万学の祖>

 アリストテレス先生は、ソクラテスの孫弟子。
 師プラトンの教えを受け、今日の西洋哲学を確固たる学問とした人物。
 ウイキが言うとおり、「万学の祖」である。

 とにかく<人は知りたがる>。
 この事情を整理し、学問というものに築き上げていったヘラス(古代ギリシャ)のマケドニア人なのである。
 ヘラス文化は、ヘラスの土地に完全には生き残れなかった。
 その間の事情については自分で歴史を紐解かれたい。

 アリストテレス先生の父はマケドニア王の侍医だったそうなので、庶民じゃなかった。
 オイラ、親は商人だと思い違いしてたので、ここで訂正。
 ダメなウイキが、オイラの誤りを正してくれた。

 幼少にして孤児となり、義兄の後見人がついて。
 後見人は小アジアのアタルネウスにいたようだが、詳細不明だと。
 とにかくアテナイのアカデメイアに、無事留学できたのは確かなようだ。

 親の遺産を食い潰すだけで、軍隊にも向いてないし商売根性もない。
 それでアテナイに流れ出るに任せた、という説もある。
 おらあ、東京さ、いくだ。
 田舎もんだった先生の場合、これがよかった。

 プラトンからは「学校の精神」と評されたほどの高評価を受け。
 師の死去するまでの20年近くをアカデメイアで研究生活したが。
 プラトンの甥が学頭に選ばれてのち、追い出される。
 
 その後は、アカデメイアでの名声をもとに、あちこちからお声がかかり。
 小アジアのアッソスの僭主ヘルミアスの招きに応じて、アッソスへ。
 僭主の姪にあたるピュティアスと結婚できたという。
 しかし紀元前345年に、アッソスがペルシア帝国にヤラレてしまい。
 アッソスの対岸に位置するレスボス島のミュティレネに逃げて。

 その後、紀元前342年42歳頃に、今度はマケドニア王室に拾ってもらうわけである。
 ミエザの学園というのを作らせてもらって。
 マケドニアの貴族の子弟がこぞって、彼のもとで学んだ。
 プラトン仕込みの格闘術を始めとする、諸学問。
 貴族だけだろうが、教育が国を強大に、コスモポリタンにした典型だったと言える。

 のちに、アテナイに舞い戻ってリュケイオンを立てる。
 アカデメイアとは方針の違う、青少年の基礎学力からの育成に努めたわけである。 


  <フィレイン・ト・ソフォン>

 さて、思い違いも解消してくれて役に立った、そのウイキのダメな点を見ていこう。
 「人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた」。
 という、この誤りが、さらなる誤りを生んでいると思える。
 知を愛する、なんてウソだろ、とオイラ言ってるわけだ。

 そのウソが。
 「「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり」、という誤解につながり。
 さらに「現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている」、という誤解ともなった、と。

 「現在の学問のほとんどが、彼の「哲学」の<範疇>に含まれる」ようになったのは、もちろんアリストテレス全集がローマ帝国によって作られたため、であって。
 特にそれは、優れたギリシャやローマの修辞学者たちに負うことが、おおきいのであるが。
 修辞学の功罪はいずれ述べるとして。
 <範疇>という、翻訳の誤りあたりも指摘しておきたいのである。
 これは些細な問題ではなく、哲学の根幹にかかわる事。


 とにかく人は知りたがる、とアリストテス先生は述べるのだが。
 それは確かにフィレイン・ト・ソフォン、ということなんだが。
 これは、「知を愛する」ということではないのである。

 フィリアは、知りたがることや知ることへの、<執着的な親しみ>の意味である。
 それは確かなことなんだが、これは「愛する」こととは違う。
 ソフィアも、知恵とか、知る、ことなんだが。

 これは知識を「得る、獲得する」こと、ではないのだ。
 一般にそうしている、得ている、奪っているのは事実だろうが。
 それはフィレイン・ト・ソフォンにおいてではなく、修辞学においてそうしているのだ。

 古典文献学に通じたニーチェが、ヒントを語ってくれる。
 彼は愛を、「惜しみなく奪うことだ」、と述べた。
 知識や愛を簒奪できて奪えても、親しみは奪えないはず。
 しかし愛は惜しみなく奪う。

 このニーチェの意見は古典文献学的に正しいんだ、と思うし、(ニーチェは古典文献学の第一任者)。
 ローマ帝国時代の文献メ・タ・モルフォーゼなどを読んでも、奪う愛や与える神の愛はいっぱい出て来るが、親しみは稀で、貴重だし。
 兄弟愛や草木の変容として、命の源の扱いではあっても。
 フィリアのこれは愛ではないとして、分類不能。

 もともとフィリアに、<惜しみなく奪う愛の意味などは、一切、ない>のだ。
 ニーチェはルサンチマン的態度を批判して、不可解な古典文献学における現実をのみ語る。
 古典と哲学との、ねじれのようなものを指摘して、表現して、その態度をけなして、(批判して)いるわけだ。
 惜しみない簒奪が愛やでえ、知識は奪うことなんやでえ、と。
 つまり哲学が馬鹿にされているわけなんだが、誰も気にせん?。
 
 アリストテス先生が述べた<フィリア>の意味だけでなく、実は、<ソフィア>のほうも誤解されている。
 まったくの別もの、になってしまってしまっているのである。
 その理由が、自分なりの哲学史を書いてきて、オイラかなり、わかってきた。

 フィリアは、エロースでもアガペーで、もない。
 ニーチェが言う、奪う愛では絶対にないのだ。
 ソフィアもまた、絶対の知恵、なんぞではない。
 <ない>、が絡んでいる。

 アリストテス先生は特定宗教は持たないのだが、神秘的なものの否定もしない。
 自分が英知を持つとは思っていないし、無神教ではないから、なのだ。
 先生は多神教徒の一人である、し。
 神の愛とも、唯一の知恵とも、まったくの無縁である。

 まず<フィリア>というのは。
 <エロースを伴う、親しみ的な親愛、>のこと。
 奪う愛でも、与える愛でもない。
 プラトン先生が公然と「男色家」であったような、性的エロース倒錯のことではないのだ。

 フェチシズム的な、ごくありふれた原初的な。
 <親しみ愛>。
 つまり信頼を寄せること、なのだ。
 これについては先の章で、これを述べている哲学者ド・ブロスを見つけて確信できた。
 オイラだけの、独断偏見の思い込みではなかった。

 <ソフィア>についてもまた、認識が根本的に間違っている。

 ソフィアは、知恵として<恵まれるナニカ>ではあっても、知識そのものではないし。
 そもそも、人の力では獲得できない、<神々の、その一柱>、なもの。
 変身現象ではなく、変容の「物語」の諸々。
 純粋な力、ゲバルトではない。
 必ず、依り代を伴って論述できるもの。

 変貌、変身ではなく、変容の<物語的なもの>、なのだ。 
 絶対の知恵なんぞではないし、唯一の神や造物神とは一切、無関係。
 ロ-マ帝国における、メ・タ・モルフォーゼ神話を思い浮かべてください。
 同時に、否定形の認識が必要なので、ネガチブなこころを持ってください。


  <無知の知>

 この、・・・でない、という否定形が重要なのである。

 これが理解されないと、そもそも<哲学的認識>自体が、認識不可能なのである。
 オイラも多用する、否定形的変容物語、というべきか。

 フィロ・ソフィアは無意味な命題陳述ではなく。
 その<否定形の神々の変容物語>。
 享有と同時に、必ず共有のディアレクチーク(対話)なのだ。

 人が自分のネガチブな「無知」を知らないことには、この対話は始まらない。
 そして哲学は、ネガチブなものの享有認識の上にこそ、対話されて共有として成り立つのだ。
 言い訳(弁証)で成り立つんじゃない。
 否定されて、自己の無知確認で、成り立つ。

 だから、無知を憎悪し締め出そうとする宗教的な輩は、哲学にあらかじめ自分から拒否されてしまう。
 プロテスタント諸派は享有を認めず締め出すし。
 彼らはポシティブ志向オンリーであって、そもそもネガチブなものを一切、こころから締め出そうとする。
 だから彼らは、哲学を自分から締め出す、と言っていい。
 ニーチェは、これで狂ったのである。

 特に親しみの変身物語やってたら、すぐに彼らに悪魔のほうに分類されちまうだろう。
 哲学はしかし、「無知の知」である。
 自分で享有する知の誤りを捨て、自分で自分の無知を知る事、だからだ。

 知識や、知恵への簒奪愛、などではないのである。
 惜しみなく奪うべきものも、得る実務のものも、実は何もない。
 無知ゆえに生じる、未知の知恵への<執着的な親しみ>があるだけ。
 知りたいだけ、なのだ。

 つまり、自分が(享有が)頼る、<感性がある>だけだ。
 その感性は外部から来る。
 必ず他力から恵まれる、のである。

 こころの内なる光、なんぞではない。
  人のこころはむしろ、いつもからっぽ。
 「知的欲求を満たす知的行為と、その行為の結果全体」、光が奪うエネルギーなんぞではないのだ。

 ウイキのこの表現も、プロテスタント特有の誤りを示している。
 こころの内なる光はむしろ、ルシファーの印?。
 フランキストたちの悪魔だろ?
 親しみを拒絶せしめ、「惜しみなくすべてを奪おうとする」、悪魔。

 そんな悪魔とは無縁に。 
 無知が要求する、とにかく「知りたいがやき」、という、不可解なフェチシズム的な<知る事への親しみ>がある。
 いやおうもなく、親しくある。
 それがフィレイン・ト・ソフォンである。

 これは、不可思議なんだが、他力とともにある。
 阿弥陀如来みたいに、よそからやってくる。
 その共有がなければ、実は享有の生もいまだ、ない。
 よそこからくるあることの不思議さ、なんだが。
 それが哲学、フィロソフィアである。

 だからオイラみたいなアホでも、末席でも、哲学徒になれる。
 じつは誰でも、自分の無知にさえ気が付けば、哲学できる。

 選ばれし者である必要なんか、一切ない。
 おいらはこれを、享有と共有の感性にやっとのことで見出してるが。
 アリストテレス先生などでは、至るところに見られるのだ。

 「現在の学問のほとんどが彼の哲学の範疇に含まれている」、というウイキの表現も、共有認識をひっくり返した、ちゃぶだい返しのような大ウソ。
 「現在の学問」のほとんどすべては、「先生の学問」とは、袂を大きく分かったのである。
 別門となり、まったくの別の道となった。

 特に科学技術は、自分の基礎をすら胡麻化している。
 スキエンチアで、チョン、とやって、生き物を殺してきた。
 その基礎が、形而上学という<非実務の問い>なのに。
 これを誤魔化して。

 基礎は「錬金術」だと、実務になりかけた「魔術」に豹変させてみたり。
 非実務の、実務的なものへのすり替えも、じつは顕著なのである。
 その理由の一つに、アリストテレス全集そのものが、アリストテレス作の著作ではないからである、という取り消し難い「事実」がある。

 これは修辞学を哲学だと述べて、わざと誤認させた。
 さらに宗教家たちが形而上学を、自分たちの組織の<信仰確保のために>導入した。
 つまり宗教に利用された。
 そのことで、哲学が決定的に怪しくなったように見えているのだ。

 その、形而上学の基礎の上に、科学技術が成立してた。
 そのためなんだが。
 目的は、科学技術が立つ目的、なんだが。
 そしてこれらは哲学とは無縁、なんだが。
 同じにされた。

 これについては過去にも何度も述べて来た。


  <カテゴリーの問題、範疇はダメ>

 アリストテレス先生は、他人の書いた自分の全集を「哲学の範疇に含まれている」などとは思えないだろうし。
 特に、この<範疇>という訳語が、まるでダメなのである。
 無理に翻訳せず、カテゴリー、と書くべきなのである。
 倫理的なロゴスのカタログなんだと。

 これも、書いたようには思うが、超重要なので今一度やる。
 このカテゴリーの意味自体も、世界規模で書きかえられてしまったからだ。
 日本だけの特殊事情ではないのだ。


 範疇というのは、優れた中国思想の<洪範九疇>利用の略語。
 修辞的な世界を採り込んでカルトに固めてしまいたい、<政治思想>なのである。
 九は九州のこと、世界を意味する。
 端的に言って、知的に超優秀なユダヤ人たちがおもにやってきたことだ。
 中国人も取り組んでた。

 そのカテゴリーとは確かに似てるし、思想の性能的にも、すぐれた思想ものかもしれんが。
 全くの別門。

 なので、カテゴリーの代わりに、哲学では範疇を使ってはならない。
 範囲を全世界取り込むように定め世界として鋳造利用可能にするのは、政治思想ゆえのこと。
 感性の時間手順が、哲学とは逆のモーメントなのだ。

 カテゴリーは、政治思想用語ではなく哲学思想用語だ、というのが、範疇つかってダメな理由の一点。
 今一つの理由は。
 共有論議に使うのだが、カテゴリーのその範疇にあたる疇の範囲は、共有に働くのではなく、<享有>にのみ働くもの、だからである。
 使い方が、その根本から間違っている。

 カテゴリーは共有世界ものではなくて、享有のもの、倫理的なもの、なのだ。
 個人享有に対してのみ働くもの。
 ものともいえん、力ともいえん、変容ともいえん、領域のエトヴァスだ。
 これはオイラだけの意見ではなく、オッカムのやったメタバシスを批判するすべての人と共有できる、政治的意見といっていい。

 倫理は、享有のみに課す、牢獄の縛りなのである。
 牢獄を見ることのない、いわゆる倫理観のない人、享有観の持てない人には。
 無縁な問題。

 倫理観がないから、オッカムは政治思想だけのカミソリで、バッサバッサやれたのである。
 カテゴリーを切り捨てていった。

 しかしこれらも、最近は悪い方に書き換えられはじめているようだが。
 カテゴリーネットに尋ねても、アリストテレス先生やプラトンのそれが、容易に出てこないことで、わかるんだが。
 現代思想を主張するんならともかく、古典を書き換えちゃダメ。


  <カテゴリーの定義>

 アリストテレス先生は、カテゴリーを、<実在の証(あかし)>、としていた。
 
 実体、分量、性質、関係、場所、時間、位置、状態、能動、所動の10個をあげていた。 何度でも上げておきたい。
 人の生きている<実在の証>、これが、<カテゴリーの倫理的定義>。
 感性持たないAIには、絶対に操れない領域にある。

 感性持てば、自分の感性倫理で哲学するかも?

 プラトンは、カテゴリーを、<魂の証>、としてた。
 こちらも人の魂の証であって、死者の魂なんて考えてない。
 生きている魂の証。

 ついでに。
 カント先生は、<純粋悟性概念の図式>として、4つのカテゴリーを挙げた。
 原料は感性、人の構想力、なのである。

 3人の誰もが、享有のもの、感性ものであることを強調していた、のだ。
 共有だけのものではなく、同時に必ず<享有のもの>なんだと。
 カテゴリー論議のさいには、この定義が真っ先にくるべきなのだが。
 昔はそうだったが。
 今は享有を認めたくないプロテスタントたちが、これらを消しにかかっている。

 それを許してはならない。
 自分がカテゴリーの意味をつかめないからといって、哲学者たちの意見を書き替えてはいけない。

 特にアリストテレス先生も、「実在」を出すことで。
 これが単なる鋳造された用語、つまり無意味な単なる命題ではなく。
 証(あかし)である、倫理に働く鍵なのである、と。
 そのことを明記してるわけである。
 カテゴリーは、人の享有する感性や人倫をつなぐ、キイである。
 範疇ではない。


  <心理学の問題、現代の心理学は全くの別門>

 ほかにもウソがあった。
 「現在でいう心理学なども含まれており」、とあったが。
 これがウソ。

 現代の心理学が<全くの別門>であることは、前節で確認した。
 アリストテレス先生の心理学は<心身合一>のもに論議されており。
 現代の心理学の立つ<心身分離>機械構造とは、まったく違うカテゴリーの学問なのである。

 
 <自然学の問題、自然学は物理学とは無関係>

 また「自然学(物理学)」とあるが、何じゃのコレハ?
 自然学は物理学とは一切関係ない。
 これでは<自然学の意味>すらも、おかしくなるやんけ。

 自然学には、星々や気象や生命、生物、地質の諸々や、さらには社会や人間界の諸々の博物誌学的な興味などもまた、含まれる。
 それは修辞学者の編纂したアリストテレス先生の自然学を読んでも、わかる、はず。

 およそ対象認識は、すべて自然学領域のものなのだ。
 しかし共有、享有の区別なしのもの、ではある。
 物理や化学といった概念は、未だない、というより、それらは自然学に含まれる。
 科学の概念が、基礎から違うのであるが。

 アリストテレス先生の場合は、心身合一。
 死んで切り分けられた科なんぞは、相手にせえへん。

 数学はもちろんあったが、数学的にその論理によって扱う、方程式で扱う、といった、つまり「客観的に扱うことなどは」考えてない。
 実は、数学論理に客観性を与えてはいるんだが。

 が、その数学論理に、基礎がないことを認めている。
 数学は身体に仮置きした分数式の学だ。
 だから、人倫のカテゴリーが絶対に必要、かつ重要だったのである。

 物理学は、対象ブツの認識と、それを数学的に科分類し、実務的に操作しようという意図がなければ、成立しえない。
 この成果は、アリストテレス先生の学問理念に負うもの、ではない。

 自然学者にはもともと、この筋の怪しげな人は多かったのだ。
 ピタゴラスがそうだし、エンペドクレスなど、最右翼だ。
 彼らはソフィストであって、哲学者ではない。

 先生は、自然を対象ブツとして数学的に、正確に客観的に扱いたかったんではなく。

 身の回りのウーシアに一意に、カテゴリーのよって見出される隠れ無き様、つまり「人為の一意の興味対象があるんや」、と見ていた。
 ウーシアにおいて立てて、身を守る、それくらいのことは考えてただろうが。
 実務に利用する意図もなければ、物理現象として原理を探る、なんて一切考えていないのである。

 物理実験みたいなこともいっぱいやってるようだが、意図が、ぜんせん違う。
 エイドス・エネルゲイア利用して、人殺せるモノの再現、なんていっさら考えてない。

 自然学を物理学的に考える、それをやったんは、修辞学者たち。
 修辞学の成果を先生の業績に載せようと言うのは。
 まるでポエチカを詩学と訳しポエムの学問だ、とするような横暴、というべき。
 

  <ポエチカは詩論ではない>

 ポエチカは、市井の非劇と観衆の(感情の)諸関係を論じた講義録である。
 これをもとにした「哲学」であったし。
 公共の意味で叙事詩の分析にはあたるかもだが。
 いわゆる詩論文学書ではなく「哲学書」。
 詩の論理、ではなく、共有享有の心理の「理論」書。

 カント先生などもニーチェ同様、この学問上の、古典的な世間の扱いにおける、詩学と哲学のしげな関係には、かなり戸惑わされてたようである。

 先生の暮らしの窮状を見かねて、その業績を評価する当局から、当座哲学教授の空きがなかったので、急きょあてがわれた大学での教授職が詩学だった。
 その詩学の教授の空きを、ちゃんと先生は辞退しているのだ。
 暮らしが維持できなくて困ってたのに。
 なので、怪しげな関係に近寄ってない、とわかる。

 古典文献の詩には先生、深く通じてたと思う。
 が、哲学で、詩学という文学は、倫理的に論じられん、のである。
 そもそも詩人は、哲学者の敵なのであるからだ。
 批判はできるが、哲学が出てくると詩には、ならんなる。

 詩は歌って感情を流浪させ、ミソもクソもごった煮にして命を高揚させる「文学」だが。
 哲学は、より分け批判し、基礎すらもブチ壊して、掃き清め整地するのが目的の「学問」なのである。
 文学は学問とは少し違う。
 西洋での古典の扱いがおかしいだけだ。

 今日のウイキの扱い見てると、学問諸学の掃き清めが必要なほどだ。
 だから太古のアリストテレス先生に舞い戻ったんやけど。

 先生の諸学の体系観は、全集の表題で、そこそこ、わかる。
 しかしローマ帝国の一流の修辞学者たちの多くはすでにキリスト教に毒されており、カルトに洗脳されてすっかりヤラレていたのである。
 だから以下は、オイラの独断と偏見に満ちた分類となる。

 哲学は、ヘラスの自然学の盛んな伝統の中で生まれてきたのだが。
 自然学というこれは物理現象を含む考察だとしても、修辞科学における物理学とは全くの無縁なものだ。
 自然学と物理も、すでに別門であったし。


  <自然学の裏表>

 どういうことか、というと。
 その自然学自体の認識が、もともとヘラスでは二分されていた。

 これは<自然>と言う言葉が、<こころのかくれない実在の様をいうもの>なので、そのありかたの裏表だった、のである。
 「自然」と言う言葉は、ヘラス語で「フュシス」という。
 ヒュシスかも。
 但しこのフュシスの学問が自然学、ではないので、まちがわんように。

 フュシスは、対象ブツとして科認識されたモノ自体ではない、からだ。
 フュシスは単なる現象のことでもない。
 そもそも名詞ではない。
 ヘラスにおいてはア・レ-テイア(隠れなきこと)を意味したと、これはハイデガー先生に教えてもらった。

 もともと形容詞や動詞など、なのである。
 我が国においては、なんと、もとは副詞だった。
 自然という言葉はもともとあったが、副詞。
 
 名詞となったのは、現代近くに至ってはじめて、西洋にかぶれて、そうなっちまったのである。
 自然は、名詞にはなりえないもの。
 メ・タ・モルフォーゼの神話世界のものなのだ。

 その表裏の、形容詞や動詞、副詞で表現できる命題は、ヘラスで。
 <一にしてすべてだ>、ヘン・カイ・パンだと説く、パルメニデス系統の思想と。
 <万物は流れる>パン・タ・ライと説く、ヘラクレイトス系統の思想に、見分けられてた。

 知的で時空間を気にしない、表しか見ないポシティブ人たちと。
 背後の時空ばかりを気にする、ネガチブな傾向の人々がいたのだ。
 どちらも自然学者ソフィストである。 

 ソクラテスが出て。
 これら自然学とはまったく別に、表裏一体の哲学なるものを立てた。
 無知の知の、ディアレクチークにした。

 名詞を立てたんじゃないし、無意味な命題を立てたんでもない。
 おいらが、なんにもしらん、ネガチブな無知であることを知ることを基礎にして、<学問を立てた>ということ。

 そしてポシティブを見る自然学の方ではまた逆にそこから、無知の知からの、論議研究が進んだんやろ。
 人は生きもの、<心身自然で合一体>なので。
 有効なポシティヴ面もある。
 物理現象などの様は、こちら側だ。

 しかし太古からの自然学も、なんと哲学の一分野にすぎないことが、だんだんとみんなにもわかってきた。
 そういった人々の中から、<(感性論を伴う)唯物論>がうまれ。
 (これは異論もあるだろうが、感性論を導いたのは哲学である)。

 おいらたちの扱うモノが、時空という、単なる外面の問題ではないと、感性の形式も、問題なんだと。
 それに気づいた人々の中からは、<倫理>や<道徳>重視の、哲学そっちのけの見解も生まれたし。

 哲学にまい進するあまり、すべての修辞学的要素を取り去ってしまい、単細胞になってしまった人すらも出た。


  <修辞学>

 しかしほかならぬその哲学なるものが。
 未定義ではあるが、広義の<修辞学>に属すること。
 そのことに気が付いていた、アリストテレス先生のような人物もいたのである。

 先生自身は実務力が欠けていてほとんどなかったらしいので、むしろそれで気がついたようなのだが。
 だからアリストテレス先生は、哲学を際立たせるために、諸学や伝統の自然学と峻別したのだが。
 修辞部分は、常に曖昧に残していた。

 これが、哲学を理解できないバルバロイ野蛮人に悪用されてしまったのだが。
 伝承、継承のためには、それでいい方に働いたとも考えらる。

 一神教徒のキリスト教徒たちが、ローマ帝国での哲学の継承者となった。
 最初はストア派が。
 のちにはカトリックが受けつぎ。
 プロテスタントの社会となって、連中に都合悪いので書き換えられているわけだ。

 修辞部分と言うのは、<実務、実用の学のこと>、である。
 人が生きていく上で欠かせない、最も重要な学問のことである。
 儲け話なんぞや、おまへんよ。
 あれは取らぬ狸の妄想。

 哲学は、実務関係の知識も心構えも一切ふくまないので、あえて区別は不要、とアリストテレス先生は考えたのだろう。
 先生は、よもや<享有を理解しない人たちがいるとは>考えてないようだ。

 ローマ人やヴァイキングは野蛮人なので、ぜんぜん気にもしてなかったのだろう。
 しかしそんな連中は、現実に、いたのだし、力を持った。
 サイコパスまるだしのやつらさえゴロゴロいた。
 そういった連中のほうが多く、僭主にもなっていた事実もある。

 後にローマで大いに興隆したこの修辞学のことは、今日、レトリカという。
 が。
 いわゆる英語のレトリックとは無縁なので、この点を特に注意されたい。

 英語のレトリックでは、どうしても、小手先のご都合主義のように見えてしまう。
 特に詐欺師が、実際の儲け話に多用するので、こうなったんやろけど。
 そうではなくて。

 修辞学レトリカというのは。
 <人の日常の暮らしを背負った、生きるための最重要な学問分野のこと>なのである。
 共有(道徳)も享有(倫理)も大いに関係する。
 今日では、政治家センセエの、カネ集めのネタになってしまっているんやけど。
 自民党のキックバックも、脱税の温床になってしもうてるようやけど。

 ウソが積み重なって、レトリカの、本来の言葉の意味が変わってしまったのである。
 修辞とは、命題を飾り修飾して賛辞する、それだけのことのように見えているのだが。
 詐欺師がウソを積みかさねることではなく。
 <修辞して実務の暮らしを立てる>ことなのである。


  <形而上学の問題>

 われながらシツコくて嫌になるが。
 アリストテス先生に形而上学は、<ない>。
 これを言うのはたぶん、今ではもうオイラだけ。
 先生の著作<タ・メ・タ・タ・フィシカ>は、形而上学と訳してはならないと思うからだ。

 これは自然学におけるメ(~の付け所=神々の力)、つまり第一の哲学であって。
 哲学の最重要要点図書でもある。
 繰り返すが、<神々の>力や形容への論述であって、一神教のカルト的形而上学などではない。

 神の力、ではない。
 神々の力。

 しかしアリストテレス全集が組まれた当初から、この第一哲学はすでに形而上学だった。
 そう認識されていたし、古典的にもそう扱われて来た。
 ローマ人に、修辞学上で誤って認識されてきたのだが。
 その編纂を担った人々が一神教のカルトたちだったから、特に、おかしくなったのだ。 

 キリスト教徒たちの形而上学の中身のほうは。
 なんのことはない、信仰心がどうしても納得しえない、「心理学」、「宇宙論」、「神学」、など、全貌が不明瞭な、しかし全体論議のできる未解明の分野。
 これらへの、<根源的な疑問>の集大成、なのである。
 それらが形而上学と呼ばれた。

 これを明確に示してくれたのは、カント先生である。
 心や、モノ、とはナニカ?、宇宙はどうなっているのか?、神はいずこに?、社会の成り立ちは?、不死はいかに得られるか?・・・などという、(先験的に誤った)問いの諸々のことである。

 突き詰めれば<時空>という、人の<感性の形式への問いの誤体系>になる、のだが。
 形而上学論議上では必ず、破綻する運命にあるのだが。
 必ず先験的誤謬があるからなんだが。

 アリストテレス先生自身も、「命題には拘ってはならない」と、一応はちゃんと自ら戒めてある。
 あれこれ、自分なりには、宇宙論や物質世界なども考えてはいたようである。
 エンテレケイアがどうのこうの・・・。
 しかし、それをもとにカルトなマトリクス世界なんか、一切仕立ててはいない。

 この、命題と・・・である、という実在との関係を、明晰判明に示してくれたのが。
 カント先生の前の、デカルトなのである。
 しかもその問いが立つ様は、破綻せざるをえない。
 そのことも、自身の形而上学で同時に明晰判明に示してくれていた。

 そしてこの形而上学が立てる問いの命題が、先験的誤謬に陥らざるを得ないこと。
 そのことを、その根源から明快に、純粋悟性概念の図式等から示ししてくれたのが、カント先生。
 カテゴリー付きで。

 つまり西洋の形而上学は、その基礎から破綻し、先験的に誤謬しており。
 さらにハイデガー先生に言わせると、特有のゲシックを背負って病んでいるのだが。

 おいらは、その根本原因が。
 <形而上学という病んだ命題>にあり。
 その<核は、信仰である>こと。
 しかも<カルトの一神教的信仰ゆえの、哲学史が抱えてしまった病人だ>と思うのである。

 学問が、責任とらにゃならん。

 ヘーゲル論理学は、虚無主義に立つ一神教カルトが核。
 なので、この病の真っただ中にあるが。
 つまりヘーゲル哲学に負うハイデガー先生なども、渦中にあるのだが。
 哲学には、実は、この病気は、ない。

 形而上学はキリスト教特有のものであって、<自然学のメ>の読み違えにすぎない、と思う。
 だから、こんなことが言えてるわけである。
 ハイデガー先生、逆らってごめんなさい。
 哲学は終焉しとりまへんで。

 










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最終更新日  2024年03月02日 21時02分00秒
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