<自然学のメ>、でアリステレス先生は何を述べているのか。
「タ・メ・タ・タ・フィシカ」のことである。
形而上学と訳されているが、それは誤り訳である。
メ、という概念を無視して、メタに(超越)させてしまった宗教家たちの誤り。
タ・メタ・タ・フィシカと読んでしまっている。
アリストテレス先生に超越概念は、ない。
タ・メで、一くくり。
末尾のタ・フィシカで一くくり。
そのタ・フィシカ(自然学)を論議するひとくくりとして、タ・(タ・フィシカ)。
直訳すれば自然学のメ。
メというのは太古の言語。
アリステレス先生のテーマは今日では、科学と自然学のちがいから説明し述べるべきだろうが。
形而上学を基礎にした今日の科学は、先生の学問路線では、明快に誤りとなる。
なので厄介なのだ。
それで、まずアリステレス先生が何を述べているのか、を明確にすることが必要だろう。
先生は、ソクラテスによって生まれた新しい<哲学と、既存の自然学のちがい>を、主にこの図書で述べたのである。
先生が言ってることを曲解すれば。
つまり音楽のように聞くなら、こうなる。
<フィロソフォス>
哲学者は、フィロソフォスとして位置づけられる人々である。
フィリアというフェチシズムに突き動かされて、ソフィアという英知の女王様の足元のクツに、親しくかしづく下僕たちである。
ヘクバにかしずく、タルイシャ(トロイ)のプリアモス王みたいなもんなんである。
中には勘定をおろそかにする、極端な連中もいる。
人々の背後には無数の神々がいて、種族の生命が、神々に支えられて生きながらえている。
その力関係を、自然学でより分けることは容易ではないが。
下僕なので、整理整頓掃き清めは神ソフィアの業務の一部。
日夜の、彼らの、フィロソフォスの仕事なのである。
<ソフィスト>
自然学者は、彼ら下僕哲学者フィロソフォスとは異なり、ソフィストと呼ばれる。
知恵者なのだ。
大概が、特権を持つ高慢な種族である。
英知の女王様のクツなんぞはどうでもよくて、自分の持つ<感性は顧みることもすくない>、という特徴がある。
他者の生命や感情をもおろそかにすることが多く、大概は尊徳ならぬ損得に勘定高い。
心の内なる、経験を得るための純粋な魂を、感性ではなく光、ルシファーだと勘違いしてる、悪魔主義狂信徒の連中もいるのだ。
闇と光で一体なのだ、と自分では気が付けない、気の毒な人種。
自分の中にいる悪魔にすら、気が付いてない。
神の力の代行者だと、悪魔に魅入られてウソをつく詐欺師もいる。
絶対の英知のみを尊重するはずなのに、自らが神に匹敵する一意の英知者であるようにふるまって、破滅してしまうこともある。
そんな連中は、メシアと呼ばれる。
彼らは、英知が探り出した隠れ無きウーシアの様に、諸現象を置いて、出来事の本質を隠ぺいする。
そこにある諸々の神々相互の闘争にこそ、生きがいや実務をこそ見出す者たちなのである。
だから独占に走り、価値価値山の住人となることが、どうしても多くなる。
一意の英知者の背後には、神々はおろかソフィアもいなくて、実は一意には一意と言う感情があって。
そこには論理という、現実のねじれがある、わけなんだが。
ヴァーチャリター(現実の事)には、気が付いてない。
それ(現実)を勘定のみでカテゴリー胡麻化して切り捨てて扱うので、なんとデジタル認識してしまう、のだ。
特異点にしてしまって、永遠の特権「賢者の石」を求める、というか。
この賢者の石を求めるのは、超賢いソフィストたちの特徴である。
そないなもん、ないってのに。
いずれある、とか言うて。
このフィロソフォスとソフィスト両者の峻別こそが、自然学のメという、フィロソフォスの仕事中の仕事、だったのである。
この峻別が、要(カナ・メ)であると。
自然学の世界はもっぱら実務の世界であるが。
そちらは実務力のロクにないアリストテレス先生にとっても無視できない、謎の宝庫だったようだが。
その前に汝自身、つまり自分自身を知らねばならない。
自然学やってるから必ずソフィスト、というわけではないのだ。
(自然学は科学技術とは、ちがいま)。
しかも、しかし。
<科学技術者にフィロソフォスはありえない>、のである。
その理由もいずれ詳しく説明はしたい。
<メ>
このメについて、アリストテレス先生は具体的に述べているわけではない。
オイラが無学なので知らないだけかもしれんが。
ヘラス語においても、すでに死語に近い言葉だったのだろうか。
しかしヒントはいっぱい残されている。
オイラたちの言葉に要(カナ・メ)が残っているように、彼らの言葉にも多くのメ、が残されていた。
一例として、メー・オンという言葉を上げたい。
ヘラス語で「存在」はオン、であるが。
メー・オン、で「無」を意味する。
たぶん、冥オン、迷オン、謎オンの類だろうが、命オンや芽オンかもしれない。
「メ」というこの言葉は、オイラたちの、直系のご先祖たちの言語のひとつ。
シュメール語なので、日本語の基層に<明>快に横たわっているし、<冥>途にすらも見え隠れしている。
無、メーオンは、存在の反語というより、何か未知なるものの裏表表現。
それが、メとオンの重なりによって、何か見えているのである。
おいらたちは、冥途への途上にある。
まさしく途上に置かれた何者かであるが。
自分で自分の身体の一部は見えても、その全体や本質や魂の正体などは、見えない。
否定形になるしかない、のである。
メは、器官や機能、そして対象物としても、しぜんと与えられてはいる。
だが、その<知る事>を知力と感性として、別々に、個別に認識できるだけだ。
全体として掌握できないし、対象ブツとして確認もできない。
いわば心身を、相互に別物として認識しているのが、認識の認、知識の知。
これが決してベツモノではなく。
もともと一体で合一のものだ、としたのが、アリストテレス先生の哲学なのである。
心理学や自然学をも含む、学問がそれだ。
心と体は、別々に科に分けられるように、知だけで思い込んではいるが。
それは間違いなんだと。
心の伴わない知や知識は、うすっぺらい絵のような悪魔なんだと。
<オルガノン>
「ペリパトス(逍遥)学派の11代目学頭であるロドス島のアンドロニコスによって、紀元前30年頃に、アリストテレス全集が整理・編集された」そうだ。
「キケロらによれば、師プラトン同様、アリストテレスもいくつか対話篇を書いたようである」というが、実際には対話編の講義は無数にあったはずだ。
これは伝わってない。
逍遥学派は孤独に一人でブツブツ言いながらの、お散歩大好き人種なので、対話はしなかったんだろうか?
まさか。
対話は講義と微妙に違い個人間のもの。
なので、テオレインな知識になりにくく、残りにくかった。
実践(理念)や出来た(もの)は残った。
この膨大なアリストテレス全集をまとめ、つなげている、生きた理念がある。
それが<オルガノン>である。
論理学と訳されることが多いが、ヘーゲル論理学とは似て非なるもの。
論理学ではない。
アリストテレス先生のそれは必ず心身一体の人間の論理、つまりあえて言うなら<生き物の論理>、なのである。
しかし決して論理学ではない。
このオルガノンが、だからアリストテレス先生の体系の中心かというと、ぜんぜん違いまっせ。
論理、原理、原則みたいなもんじゃない。
体系全体といった構想はないし、合理的でも機械的でもない。
特異点じゃないし全体といったデ-ターベース的構想もない。。
外部から見て中心とみなしうるのは、これも過去に述べたと思うが。
ポエチカにあるトピカの小さな領域、しかし巨大な領野なのである。
トピック領域。
世界を要約し包摂してしまう一領野、というべきか。
このオルガノンやトピカの処理に困って、これを編纂した超賢い連中は、アホな連中との対話にかまける余裕がなくなったんじゃろうと思う。
つまり課題解決ができず、修辞する余裕すらもなくなってしまった。
結果的に彼らは哲学徒となった。
トピカは哲学となった。
オルガノンは、そもそもウイキが言うような道具ではなく。
機械と考えて想定した仮置きの純粋理論、なんぞでもない。
オルガノンは、生きた生体の一部、オルガンがあること、なのである。
倫理をもつ、もとのもの。
つまり哲学のアルケーの、提供者である。
感性をもつのだ。
なのに心身合一で、それを語らにゃならん。
つまり修辞しなくちゃいけない。
できんので困っただろう。
ウイキには、プラトン先生の始めた対話を、科学的知見のハシリが論理へと持って行った、というようなウソが整然と書いてあった。
これはウソである。
オルガノンをいくら純化したところで論理にはならんはずなんだから。
これは明白なウソ。
だからオイラも、対象命題論議の扱いに困る。
どうしても思惟がそこでねじれるので、十分説明しがたい。
が、これについては過去に書いているので、はしょりたいが、ちょっとだけ。
<トピカ>
アリストテレス先生は、学問体系をテオリア(理論)、プラクシス(実践)、ポイエーシス(出来)に、三分していた。
ポイエーシス(でき=しゅつらい)が特に要注意なのである。
これは詩ポエムの本質なんぞではない、というのも、過去に述べたはず。
ナチスのハイデガー先生の解釈に負っている。
テオリアもプラクシスも、哲学(無知の知)特有のものである。
ポイエーシスも同様。
実務中心の、つまり修辞学のものとは違うのである。
どこが違うのかと言うと、<心身合一である>点。
ましてや近代解釈された虚無主義の、論理中心のものではない、のである。
アリストテレス先生の学識はオルガノンに由来し。
あくまで<心身統一>が基本。
死後のことなどは当然、一切論じまへん。
このテオレインされた理論学を「自然学」とし。
「形而上学」を立て、実践学を「政治学」、「倫理学」、制作学を「詩学」に分類したというのは、後世の、誤り、うろたえた解釈ものだろう、とも思う次第。
うろたえた解釈ものに手を貸したのは、一神教が立てた<形而上学への問いと信仰>であって。
形而上学は一見重要に見えるが、先生の業績とは無縁なのである。
現代の科学技術にとっては重要だろうが。
科学技術という、修辞学的でかつ形而上学的な先験的誤謬の問いを持つ、空虚な合理主義論理信仰がある。
あくまで虚無的な信仰。
これが形而上学の諸々の問いを立てる。
回答がでない不毛の問なのである。
これを魂の中心に立てると、ウイキのような意見になっちまうのだろう。
アリストテレス先生の学問は、これで誤謬だらけの前科学的知識に分類される、ことになる。
しかし、決して、そうみなしてはならないのである。
間違い、だからだ。
先生の学問は、あくまで<心身一体の、オルガノンに由来>する。
<カテゴリーに明確に分類された、倫理上のもの>だからだ。
虚無には立脚してないし、生体は切り刻んで殺してない。
「アリストテレスは、倫理学を創始した」、のではない。
そんなことが言えるのは、倫理が見えてない証拠。
「倫理」とは、人が自分で、<自分のために>創り出す牢獄である。
必ず、享有のものの存在。
実在がもと。
共有記述できる「道徳」と、ここでごった煮するのが最悪な結果を招くことになる。
今の米国・フランス風世間は、それをやってしまった。
戦後に<倫理・道徳なる>わけのわからんものが入ってきて、日本の社会は大混乱した。
倫理は。
個々人が、自分用に創り出すのみの牢獄。
共有の学問には、ならない。
なのに、今の社会では、おかしくなってる。
言葉の定義を間違えているから、である。
また機械のデジタルでいじれない学問なので、誤った世間定義が混乱に拍車をかけている。
<倫理の定義>、を紐解くと。
「倫理とは、社会生活を送る上での一般的な決まりごとで、人の命を助けることを判断する基礎」、なんていう、へんなものがでてくる。
このへんなものが、社会を混乱させている元凶なのである。
アリストテレス先生の解釈の誤りがそうさせてんじゃなくて。
倫理を理解できない、反省できない人種、特に賢いはずの学者たちが、そうさせた。
倫理学は、<エチカ>の翻訳であるが。
これはユダヤ人やめた男の書いた共有道徳文書のことじゃないので、まちごうたらあかん。
エチカは道徳哲学だ、などというのが真っ赤なウソ。
ましてや「行動の規範となる物事の道徳的な評価を検討する哲学の一分野」、に至っては、なにおかいわんや。
無知の知と倫理は、ほとんど無関係といってもいいほどの、薄い関係なのである。
何度も何度も、しつこく言うが。
<倫理>というのは、アリストテレス先生の甥が書いた<エチカ>の翻訳、なんだが。
これがすでに怪しかったのだが。
後に、スピノザの手で、徹底して改変と言うか、改悪されてしまったのである。
では、正しい<エチカ>とは。
エチカは倫理と訳され、享有に対する牢獄を表現する中国思想の漢字が当てはめられていて、この中国思想には、まったく問題がない。
むしろここからわかるように、倫理というのは個人を縛る牢獄なのである。
それも公共の牢獄ではなくて、享有の感性のみをこそ縛るもの。
知性は、知性では縛れないのである。
だから倫理で縛る。
なぜかというと、公共の知性は、いくらでもコピーしてインスタンスできるからというか。
そのまねし機能が、知性だ、からだ。
享有の知性も、瞳着しちまえば、依り代という感性の形式を得た感性同然となる。
エチカの権能は、知性には、ないのだ。
まったくない。
ロゴスというカテゴリーを扱うのに、オルガノンは知性には一切関与させず。
もっぱら感性的図式を使って。
享有する個人認識を縛る。
自分で自分を縛らせるのである。
反省すれば、その仕組みは、だれにでもわかること。
普通の人なら、だれでも倫理観があるからなんだが。
エチケットだの倫理規則など決めなくても、しぜんと、生体が持っている権能のようなもんがあるので、言われなくてもわかるはずだが。
反省のできん、倫理を使えん人も多い。
特に知的な賢い人に多い。
権威や決まりごとの規則や、実務力やゲバルトで縛るんじゃなく。
享有者が、自分でやれんなる。
実践が不可能になるだけ、なんだが。
<隣人から盗むなかれ>、というのは道徳にも書かれてしまうが。
倫理無効のひとにいくら倫理だと騒ぎ立てても、ムダというもの。
倫理は本来は道徳ではなく、自分個人に対する戒めだからだ。
倫理が、こころの魂にささやく。
その魂が、もともと自分に対して持つ、縛りなのだ。
<隣人を殺すなかれ>、というのも、おんなじ。
ユダ族の間でも、これらは十戒としてまとめられていた。
だが、これを知的に理屈をつけて説明せんと理解できん人々も、いたのだ。
だから十戒ができた、とも考えられる。
これは旧約聖書の核にもなった。
あれは、魂が生体としてもともと持つ倫理の牢獄を、あえて道徳化し文章化したものだ。
倫理は決して道徳じゃない。
アリストテレス先生は、このエチカを騙りたかったんじゃなく、語れるとも思っていなかっただろう。
語りたかったのは、オルガノンの一権能としてのエステチカを論じる<学問>。
エチカは学問の対象となりうる道徳ではなく、人間の権能ともいえん権能。
オルガノン。
(アナログもデジタルもひっくるめた)学問>なのではあるが。
AIには決して近寄れない領域にあることが、これで理解できるはず。
悪魔に奉仕する図式操作のプログラム学問ではないし、虚無の信仰に堕ちた論理絶対信仰が生んだものでもない。
キリスト教徒も、へりくだる事なく、先生の学問に、みだりに近寄ってはならない。
この印籠が目にへえらぬか?
トピカのこと?
要約しようにも、トピカの領域は広大過ぎて、持ち歩けないのである。
「プラトンは「イデア」こそが真の実在であるとした(実在形相説)」というのはウイキの言うウソだが。
なんでウソかというと、これはアリストテレス後のキリスト教徒がアリストテレス風に考えるプラトン、なのだ。
イデアというのは当時のアテナイで流行ってた流行語で、そもそもプラトンの教説ではないし。
「感覚界を超越した」イデアなんて、超越すりゃ影すらも見えへんはずやろ?。
プラトンは人の認識はイデアの影だと、人為の感性がらみやと、ちゃんと認めてる。
この論議が、後世に作られたプラトン論議だとわかる。
「アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)」というのも同様。
「世界に生起する現象の原因には「質料因」と「形相因」があるとし、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けて、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした(四原因説)」??
これもなんとなく、一神教徒が、個物に対して抱くウソ臭さがある。
似たようなことは言うちょるだろうが。
アリストテレス先生では、<カテゴリーによる心身合一>が、あくまで学の基本。
形相が実在にどうのこうの言ってるんではなく、現象のファクトチェックしてんじゃない。
そもそも、自然学の対象に質料や原因を置いてるんじゃない。
修辞的に「一意に形容してる」だけである。
しかも修辞学を論じているのではない。
エネルゲイアの力がどうのこうの、言ってるんではなく。
ウーシアにおいて「力関係に置かれている」、ある、としてる、だけである。
エンペドクレスの自然学を持ち出したいのは、ウイキのへんな解説者のほうだろ。
アリストテレス先生の哲学には、科学のカの字もないし。
エイドスとエネルゲイアを個別に論じる意図もないはずだし。
エンペドクレスは、当時世間に人気のあった魔術詐欺師にすぎない。
ウイキの宇宙論では、まず物理学などの自然学が最初に論議されて。
<自然学の後の書、>つまりメタフィシカにおいて、その「第一動者」を論議させたい、そっちへの興味が科学を生んだんだ、としたいようだ、が。
ムリな相談。
先生の興味は宇宙集合論にはないし、物理学的合理主義にもないし、ましてや神学には一切ないのだ。
特に、絶対の神には、アリストテレス先生、まったく興味がない。
無数の神々の力や形容に、ただただ驚異させられているだけ。
ないない尽くしの自己享有に気が付いて、ずっと持っている命や感性や知的認識の諸々を、オルガノンを通じ、カテゴリーをキイにして、親しく(ソフィアと)対話したいだけなのである。
ここでアリストテレス先生の思惟の領域に、新プラトン派の抱くような一神教的知見を忍び込ませることは、これが極めて危険な行為なのである。
これも前に述べた記憶があるが、科学で神を論議するような、恐怖の出来事を招くことにもなる。
グノーシス主義や、フランキストのメシア主義と、モロに繋がってくるのだ。
その理由は単純。
連中に、モトの<心身合一>が認識されていないからである。
認識が暴走するのである。
カテゴリーが適用できなくなる。
だから心身合一とカテゴリーは、密接不可分な関係にあることがわかる。
ポエチカの小さな一領域のトピカでも、修辞学者たちは類似の大間違いをやらかした。 アリストテレス先生の膨大な講義録を、そこで要約しようとした。
できなかったのである。
論駁の論駁が論駁を生み。
トピックとして選び出された、どの領域もトピック要約ではなく哲学になってしまった。
むきになって、やればやるほど、広大なほころびのような、泥沼になった。
オイラも思い違いしてた。
泥沼があることは、オイラがあほ、なだけじゃない。
「哲学のあること」の証拠の一つなのである。
オルガノンで、すでに彼らは哲学に目覚めてたはずなのだが。
先生が当時の自然学と哲学を対比させて検討したように、今日の科学技術と哲学を対比させることは十分可能である。
その指標になりうるのが、心身合一の学問理念、カテゴリーや倫理観を伴うオルガノンの扱い、なのである。
哲学にないもので、科学技術の思惟の仕方にのみ不可欠である、というものも、ある。
<数学的な思惟で、宇宙の全体を企図すること>。
これにはデジタル的に、形而上学認識が要るのだ。
これは、何かの客観的認識の、全体への宇宙論的拡張だ。
手近な客観的事実を積み重ね、それを微分、積分的思惟で胡麻化して全体のものとする詐欺手法だが。
これらは心身合一でない、解剖的手法であるから、可能なのである。
宇宙論や神とつながってないと、そもそも科学技術は不可能、なんだが。
同時に、無神論者が科学者に多いことにも疑問を持たないだろうか。
彼らは、心と体を分離する。
その時同時に神も殺し、信仰と神をも分離したのである。
悪魔主義者となった。
(統一)論理、というものが手を貸して、そうなっているのである。
本来はオルガノン論理なのだが、カテゴリー捨てて、倫理観がなくなる。
人間で、有限な存在者であることを忘れ、眼前のファクトウムに瞳着、することになる。
感性的存在であることを忘れて、知性のみになってしまう。
単体の論理学などというものは、数学的論理学の事だろう(確かめてない)。
論理が論理で立つなんてのは多くの論理学者が陥る虚無主義なのだが。
落ちた本人は、気が付いてない。
ファクターに時空が絡んでる、なんて思ってないし、その時空が人の感性でできてるなんても、いっさら思ってない。
ウイキが、科学技術は正しくてアリストテレス先生が誤っていると述べるとき持ち出す事実、ファクトウムというものがあるが。
その、個々の事実を形成しているのは感性形式。
人の、オルガノンの感性的認識なのである。
機械による「絶対の客観」じゃない。
客観の客観などは、そもそも立てられない。
微細なファクターは、スキエンチアでチョンと殺して科に分類出来てるものであって、ファクターを組み合わせても現実は再現できないのである。
神を殺してるからだ。
微細なファクターの個々の事実を、個々の時空を立てるのが科学で、精密さを求め、確実な原理を求めるのが確かに科学だが。
殺した神は復活しない。
アリストテレス先生の哲学に、神殺しの科学の片りんを見よう、などという意図が間違い、なのである。
先生の哲学に帰納法論理多用の科学技術の片りんも、ない。
先生の哲学は親しみでできていて、心身合一、倫理観もカテゴリーもちゃんとあるオルガノン。
オルガノンは論理学ではなくむしろ生物学だろ?
「植物と動物の中間をも考えてる」そうである。
実務力はほとんどないが、単細胞ではない。
暮らしを立てる、すべてを包摂する修辞学を無視しない、演繹中心の人間の学問なのである。
人間活動は、基本が目的行動であるので、活動への満足を狙う。
そのため政治を実践し、魂の得た固有の形相、つまり理性を自身の目的と一致させたがる。
幸福に至ろうとする理性操作が必要なのだが。
倫理的な(享有倫理の)カテゴリー以外にも、共有の倫理に似たものをも考えているようだ。
それが中庸。
「恐怖と平然に関しては勇敢」。
「快楽と苦痛に関しては節制」。
「財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)」。
「名誉に関しては矜持」。
「怒りに関しては温和」。
「交際に関しては親愛と真実と機知」。
だと。
「羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした」そうだ。
また、「芸術創作活動の基本的原理はミメーシスである」。
「作品受容の目的は、心情の浄化としてのカタルシス」というのも。
これらも模倣や、生体における緩解、とは微妙に違う。
なお、カテゴリー論は(こだわってならない)命題論として扱われた。
また先生の、倫理学というものはないのである。
後のニコマコス倫理学、エウデモス倫理学がある、のみ。
「偽書及びその論争がある書」として
宇宙論 - 気息について
小品集 - 問題集
大道徳学 - 徳と悪徳について
経済学
アレクサンドロスに贈る弁論術
があがっていた。
おいらは、そのほとんどを疑問書にしてしまうわけである。