アリストテレス先生は奥が深く、まだまだ誤解もあるはず。
特に知性と感性の関係、倫理と道徳の関係など、やっとわかりかけて来た気がするんやけど、オイラの認識が万事、いいかげんなのだ。
自然学、哲学、修辞学、形而上学、などの現代学問問題との関係は、だいぶん整理できてきたとは思うが。
先生の哲学は特に、このトップの<自然学>が大きい、という特徴がある。
しかも自然学なのに、科学ではなく哲学なのだ。
ここはもちろん世間見解とまるで逆なんで、注意されたい。
修辞学が哲学をも含んでも哲学そのものではないように。
アリストテレス先生の自然学は、しかし絶対に科学ではない。
哲学、なんである。
そしてこの哲学というのは、学問の本質でもある。
先生の自然学は哲学を含むというより、修辞学と哲学の関係同様、自然学が、更に学問が深く関係している。
これらが哲学より先行する。
だが、現代の自然学なるものは、まったくの別物になってしまっている、という問題があるのだ。
今一度、哲学と科学、自然学や修辞学との関係等を整理して、そこから先生の哲学へ入っていきたい。
袋小路に入り込んでると思える現代の学問の状況を、まず徹底的に振り返って批判してみたい。
現代の学問には、大きく分けて二通りの道がついて来た。
<広義の修辞学>に属する、アリストテレス先生が付けたはずの<学問の道>と。
<広義の科学>に属する、客観合理志向で立てられた諸学の、<袋小路の知識体系>があるのだ。
この袋小路の知識体系も学問を、そして哲学を名乗っている。
心身・合一の、哲学の道と。
心・身、分離の、科学の道。
心身・合一のほうは、何の目的でそれやってるのか、はっきりしない。
おいらたちは自分の生の理由を誰も知らないからだ。
(哲学を捨てた宗教カルト者以外は)。
フィリアの正体も、当然不明。
知恵とか、知識とか、知る事とか言うが・・・。
心・身、分離のほうは、目的は明確だが誰がやってんのか、わからない。
享有心も不明。
(神がやってる、神の目的っつうのが宗教カルト)。
後者は特に哲学としての学問とは、まったく相互に相いれない道なのであるが。
今は、これが哲学を、そして学問を名乗っている、というへんな事態なのだ。
要はアリストテレス先生は遠ざけられ、バラされて利用されてるのだ。
前者の心身合一の道は、古典に属するはずなんだが。
広義の科学にも、じつは古典を主張する連中が、ちゃんと別にいる。
つまり哲学より古い、ピュタゴラスなどの宗教家がいた。
なので厄介なのだ。
もともとの自然学には、心身合一の自然学と、そうでない心身科分離を目座してたものも古くからあった、ということ。
アリストテレス先生は、これをきっぱり分離して、科分離を排除したはずなのだが。
全集を復興させた修辞学者たちが、再度混ぜ混ぜご飯にして、飯のタネにしてしまった。
もちろん、これらに属さない、<テクノロジー>や、<ヘーゲル論理学>というものが後世にはさらにできて、一層、厄介、厄災的なものとなったのは言うまでもない。
<テクノロジー>なども、そもそも、理論(テオレイン)の学ではなく。
発明的出ー来が優先、理論や実践はどうでもよく、<できりゃええ発明>を指す。
へーゲル論理学のほうは実際には数学論理を使うのだが、虚無的信仰に立つので同様に厄介なのである。
虚無主義は断罪済なので、これらは今回論議しない。
これらをなるべく除外し、心身合一の道をいく<哲学>と、心身相互に科分離の道をいく<科学>についてのみ、対比させて整理したい。
心身合一の<哲学>。
哲学は、広義の修辞学の、そして学問の一員である。
暮らしを立てることが生き物であるオイラたちには修辞学必須なのだから。
霞を食っては生きられないし、タル住まいでは捕まって奴隷に売られかねん。
そもそも修辞学を追い出すと単細胞になっちまうことを、身をもって証明した哲学者も居たことを、思い出していただきたい。
しかし修辞学が、イコール哲学であるかというと、もちろんぜんぜん違うんである。
ウソを平気でついたり、自分だけパーティーやって得た特権所得の税金払わんで済むように特権行使したりする政治家は、この現代風修辞学の、つまりレトリカの専門家だが。
彼らが哲学徒であるわけがない。
それにレトリカが現代のレトリックというわけじゃない。
哲学徒は修辞学に属しはするが。
つまり政治主張もするが、税金払わせられる今は庶民の共有ものだ。
過去には貴族の特権だったようだが。
哲学は特権持たない。
哲学というのは、自分自身の無知であることを確認しないと始まらないという、じつに特殊な学問なのだ。
その認識をもとにソクラテス教徒以外は哲学者ではない、とオイラは主張する。
だから哲学徒はカルトか?というと。
神々から「汝自身を知れ」という神託を受けて対話を重ね、自分自身に何にも知恵がないことを確かめていくだけなんやから、カルト(教義体系)にはなりようがないやろ。
知識を得たり、捨てていくんやない、んやから。
それは共有対話の結果にすぎん。
知識は逆に、積み重なって泥沼化してくるだけなんで、自分で理解して掃き清めていく必要がでてくる厄介者なだけ、なんやから。
使われない知識は厄介者。
しかもそれの整理が目的じゃなしに、それは下僕としての業務。
哲学者の仕事ではあるが。
最初に自分自身に知恵や知識の片鱗すらなくて。
それを恵んでもらうために、自分に光のかけらすらないことを確かめるだけが哲学の核心なんやから。
経験的知識がいっさら含まれてない、この純粋な自分自身のことを、<享有>という。
もちろん仮想のものなんやが、おいらたち多神教徒にはわかる、はずだ。
キリスト教プロテスタントたちが決して認めようとしない、有限な有である。
(カトリックは、自分がへりくだったり、悪人になったりして初めて認める)
享有の、世間一般的な意味は。
<生まれながらもっている、有していること>。
プロテスタントたちは、自分が魂としての光だ、といい、限りある命の有を認めようとしない。
つまり感性無視で英知に特化しているので、<享有を全否定>する。
個々人の、限りある命の有をまったく認めようとしないのである。
彼らには個々人の享有心がなく、永遠の共有のみ、がある。
つまり羊なんで、心は要らん。
フランス人の常識みたいに、病院の待ち合わせ同席は、全員と挨拶し共有しなくてはならん。
共有だから魂も永遠だ、と言うんだが。
共有も、神々が死に絶えたら消えるんだよ。
なのに、彼らの神は、造物主で永遠の牧場主なので、決して死に絶えないそうだ。
こういったカチンカチンの独断論を、カルト、というのである。
カルト者と哲学は無縁である。
哲学は、<有限な享有>の中で、<自分で知ることを欲して>生まれる、<有限な学問>。
生まれたときはすでに持たされてて、あったはずだが。
もとは何にも知識がないはずから、知識とは無縁なあり方だ、と言える。
これが哲学特有の<享有>きょうゆう。
<享>の字には。
語源的にも、<まつる・うける・もてなす>などの意味があるらしく、まさしく<神々相手の、他力の有>を表現していると思う。
基本が多神教なのである。
他力の有で、この<何にも自己知識がないことを、自分で確認するのが哲学>、ということ。
他力の多くは、親しい者同士の対話によって、はじめて得られる経験のもの。
これが共有論議の、<ディアレクチーク>、なのである。
言い訳やおまへんで。
ディアレクチークは親しい跡付け対話であって、しかも経験的演繹のためのもの。
言い訳の相い手ができても、絶対に論理学の言う弁証法ではない。
哲学は享有の無知を受けて、<祀って、もてなす>ことで始まり。
それはしかも<共有の対話>に至ることで、無知の知として<自己完結>する。
自分で解る、理をぶっ壊して理解すること、である。
この理屈において、ソクラテスープラトンーアリストテレス間の子弟間のブレは、ないのである。
共有対話における意見の違いがあるだけだ。
この<心身合一での自然学>が、アリストテレス先生の哲学、学問である。
心身合一の<自然学>。
アリストテレス先生の哲学は自然学である、といえる。
確かにフィシオロゴイ(自然学者たち)の諸論議の中の、一論議なのである。
しかし心身合一のオルガノンと一体のものなので、絶対に<科学ではない>。
そもそもソクラテスは、その師パルメニデスの、ヘン・カイ・パンの自然学に十分納得できずにいたため哲学を立てたのだし。
プラトンは、自然や世間に興味がなくて天上のイデアを考えたなんて言われているが。 ウソである。
<自然>、ということの意味がブレてしまっているのだ。
というより、根本から、自然ということばを読み間違えている。
自然は、これも、哲学では<心身合一の自然>。
かくれなきこと。
自然、フュシスは名詞やおまへん。
つまり、人が対象認識した自然物じゃない、んである。
対象的自然ブツとか、客観的現象とか、哲学では一切、そないなもん相手にしてない。
自然学はフュシカ、といい。
自然というのはフュシスという形容詞、あるいは動詞である。
大事な点なので、老人性繰り言に見られても、何度でも何度でも繰り返し言う。
名詞ではない。
哲学は、フュシカつまり自然学から、生まれてきたものだが。
この自然学は<心身合一の自然学>。
その学問対象の、先生の立て方に疑問を感じて、その基礎を、定まらない変容の様のフュシス現象にするのではなく。
認識済の自己の<無知の知>に置いたもの。
これのみが、自然学の中の哲学。
つまり自然学は、自然という学問対象があるのだが。
その自然はナチュラルとは無縁でモノではないし。
哲学は、その学問対象への知識が目的なんぞでもない。
そもそも、フェチなのだからだ。
自然側には、もともと対象ブツもなにんも、目的として置かれてないわけだ。
修辞学に属するが、肝心の修辞目的が見えてない。
これがアリストテレス先生があえて修辞学をどうのこうのいわなかった、理由だろう。
相互の<信頼関係が>、演繹できるあんよひもが、しぜんと、フィリアとして、あったのみ。
このフィリアに親愛奴隷となってスリスリしての、フェチ愛が、哲学なんやから。
対象物を科分類再現して見出して、奴隷にしていく科学技術とはまったくの別門。
自然、ということの認識、修辞学や自然学が出会うウーシアの認識が、科分離とは基礎から違う。
科分離が扱う自然は、ナチュラ・ナチュランス、あるいはナチュラ・シンプリケースといっていいのだろう。
ずっとのちの、中世の用語です。
それに対して、アリストテレス先生の自然は、あくまで<心身合一の、自然>。
このヘラス語の<自然>は、ナチュラルではないし、絶対に名詞ではない。
アリストテレス先生が明言しているこれを無視すれば、哲学の道とはあっさりオサラバになってしまうのだ。
自然(しぜん)、というのは、我が国の古典においても名詞であったことはない。
副詞だった。
動詞にくっついてそれを形容する、しぜんな様といった形容であったり、しぜんと思い至る、ふにおちる行動実践のことであったり。
自然ブツが言われ始めたのは最近のこと。
我が国では動詞部分は、じねん、といいい、別の動的な<変容物語>の言葉である。
自動の意味でもないので、要注意。
物語との関係で、考えてください。
それしか、今日では手立てがない。
じねんじょで、しぜんと、動詞化、副詞化される、その<変容>を。
これは現象やおまへん。
ともあれヘラスでは、この変身物語とも言われるタ・メ・タ・モルフォーゼが延々と続くさまを、「ウーシアにおける神々と巨人の戦い」に例えていた。
火をもらった恩義で巨人側に参戦した人間を、神々がぶっ殺す。
その様は、<あからさま>で、<隠されていない>。
この隠されていないことをこそ、<自然>、というのである。
オノズト、ゼンタリ。
<アリストテレス風の自然学>は、哲学は、だから、<地上の一切の事柄を対象に>する。
天空の物事は相手にしまへん。
見えてる遠い天空の星々も、天空の出来事ではなく、地上の、(見てる、見えてる)自分の出来事。
心理学や、天体の動きの不思議さから、神々の振舞の諸々、さらには気象の目に見えぬ風や雨の様や、市井の悲劇に観衆がウソと知ってて泣きわめく様までも、この自然学は相手にする。
物理現象を不思議と感じるのは人で、天候神が暴れて困惑するのも人であるからだ。
生き物としての人が関わらんものは、無関係。
人が関わるのでローマ時代の変身物語も題材の内だが、これは後のローマ時代、神々だけの分離世界だと無縁にされた時代のもの。
自然物を相手にする学問が自然学、じゃないよ。
かくれなきさまの学問が自然学で修辞学で哲学で、これが学問。
これを間違えると全部間違う。
生命を持つ、人が、心身合一で関わる学問。
だから生物学みたいな、機械工学みたいなオルガノンに始まり、カテゴリーを駆使して人の倫理や更には道徳にも訴えてくるわけだ。
修辞学の中で自然学が立ち、それが同時に哲学であり学問、なのである。
心身分離の<自然学>。
科学的合理主義の自然学、というのは、まったくそういういうわけにはいかないようだ。
ハシリの時期は哲学より古いが、宗教と一体だった。
それを少しずつ脱ぎ棄てていった。
現代に至って、形而上学を脱ぎ棄てようとして神を殺し、無神論となって虚無主義に陥っている。
アリストテレス先生の哲学に、この傾向があるかというと。
皆無なのである。
アリストテレス先生の哲学は、科学技術ではないからだ。
ハシリのようなものがあるか、というと。
それも一切ない。
アリストテレス全集には、至るところにそれが、科学の片鱗が見られるのに?
どこにあんねん、あほちゃうか。
心身合一では、科学の片鱗すら、ない。
全集や第一哲学に見られるのは、<心身分離の立場で書き換えられているため>である。
哲学者でない多くの自然学者や修辞学者が関与して、この著作体系をつくり上げてきたからだ。
アリストテレス先生は心身合一の哲学者なのに、哲学無視で加筆してきた自然学者や修辞学者が居たため、である。
後の時代には、なんと形而上学者すら参加していた。
だから先生の第一哲学は、形而上学になってしまっていた。
おいらの持ってるボロボロの文庫本にもそう書いてある。
これはプラトンの「哲学」著作が、イデアの「文学」になってしまったと理解されるのと同じ。
アリストテレス全集には、いたるところに非哲学者による加筆があるのだ。
加筆しないと、心身分離の立場では、意味が通らんからである。
誤りにみえてしまう。
だから、アリストテレス全集読む際には、心身合一の哲学でない部分は、無視すべきなのである。
これはナチスのハイデガー先生に教えてもらった、特殊な読み方である。
アリストテレス先生には、そもそも哲学に、科学技術のハシリのような部分は<ない>と断言していい。
実は学問その分野にも、(科学技術のハシリのような部分は)ないのでは?
「アリストテレスの哲学は誤りが多い」、とするのが。
心身分離主義者の科学技術者たち、である。
心身分離の自然学者は、確かに科学技術のハシリではあったが。
そのすべてが宗教家だった。
自然学者も、もちろんその中にいた。
心身分離を主張する自然学者たちも、いたのである。
彼らは、心と身体を区分できる<一意の信仰を、持って>いた。
これはじつは哲学より古いんだが。
逆に言って、科学技術者に心身合一の哲学を持ちなはれ、というのは、ムリな相談なのである。
なぜそう言えるのか。
科学技術が、<合目的な、科分離、再現、技術だ>、からだ。
目的に合致させて、こころが一意に統一されてないと、つまり信仰でカルト化してないと、対象を偶像化できない。
つまり、知的に対象認識できない。
科が細分化して分かれてないと、再現素材として個別認識できない。
技術の意味はテクネーではない、んで、ここも、要注意点である。
マシーナリー・テクニークの意味なんだが。
その、基礎にあるのは、もちろん、こころ。
心身一体のはずの。
これを科学技術は、むりやり引き裂いてチョン切るのだ。
これがサイエンスする、ということ。
語源は、ラテン語のスキエンチア。
はさみでチョンと、ちょん切る。
チョン切って殺して細分化し知識にして、惜しみなく奪うため、なのだ。
こころに、魂のもとに奪いつくす。
微細な科に切り分け分類して、素材仕立てて再現するためだ。
科学分類するのは<再現が目的>なのである。
知力がそれを担い、自然を素材化する。
このこころ、つまり魂に瞳着させうるのは、なんとテクネー(心構え)の、権能のみが使われる。
心身合一では、こういった知的な瞳着は、おこらないというか、むりでしょ。
これをやるのは(虚無主義の)論理がやれる。
カテゴリーの制限無視で、じっさいやれてる。
カテゴリーの倫理的束縛を解き放って、オッカムのあの暴挙で、数学は自在に科学で使えるようになり、原爆ができたのである。
(虚無主義の)論理が導き、感性を奴隷にして道具的に使って。
純粋悟性概念の図式が、瞳着させられて絡む、のである。
カテゴリーは排除されていても、つまりカテゴリー本来の権能は知りぞけられていても、その範疇的な働きのみが見えてるわけだが。
見る、写す、インスタンスコピーの権能が働かされて、使われる。
瞳着させ。
知識にして、科分類のファクターに分け。
これで科分類した個別のファクターの再現を目指すのである。
目的に合致する、ナチュラルな素材が、求められる。
これを帰納させれば、目的達成。
これが合目的技術達成、というわけだ。
知的に、瞳着優先でのみ、試験を経て物事がすすみ。
テクネーの権能はここで、瞳着のための奴隷と化すのだ。
これらは文学でないのはもちろん、そもそも学問ではないのである。
あえて言うなら神話の実践再現だ。
今日的な意味での(製作)技術のさま、なのであるが。
科学技術の要点を、オイラ神話的に述べてるつもりである。
科学技術は学問に背乗りして、数学とほとんど一体化してるが。
数学などの理論ではないし。
そもそも理論体系の学問でもない。
哲学に背乗りして学問という権威を奪い、利用できてるだけだ。
これらが完璧な修辞学ではない、からなのだ。
修辞要素を持つ、科分離された技術体系。
これを修正して一部を合一に戻し、<科学哲学>なる修辞学を立てようとしたようだが、モトが学問ではないので、無理だ。
<自然哲学>なるものも、同様である。
そんな些細な事情はさておいて、この節の結論。
心身合一の自然学は哲学で。
心身分離の自然学は科学であり。
アリストテレス先生の自然学は前者、なのである。
後者はまた科学技術と正しく呼ばれることが多いように、技術、マシーナリーテクニークなのである。
アリストテレス先生の時代のテクネーではない。
学問であることすらそこから遠ざけたテクノロジー、と呼ばれることが、一般的になってきた。
現実は科学技術が実現した現代技術、ではなくて。
テクノロジーが生んだ魔法の数々がオイラたちを脅かしてる時代、なのである。
テクネー(心構え)と技術の違いがわかるだろうか。
次回はここらあたりから、もっとフィシカを掘り下げていってみたい。