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2024年03月13日
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カテゴリ:哲学研究室

 アリストテレス先生は奥が深く、まだまだ誤解もあるはず。
 本稿をもって、過去の自然学に関する諸論議を放棄したい。
 特に知性と感性の関係、倫理と道徳の関係など、やっとわかりかけて来た気がするんやけど、オイラの認識が万事、いいかげんなのだ。
 自然学、哲学、修辞学、形而上学、などの現代学問問題との関係は、だいぶん整理できてきたとは思うが。

 先生の哲学は特に、このトップの<自然学>が大きい、という特徴がある。

 しかも自然学なのに、科学ではなく哲学なのだ。
 ここはもちろん世間見解とはまるで逆なんで、注意されたい。
  世間は先生を科学のハシリとしたがる。
 しかしそれは、お門違い、なのだ。

 修辞学が哲学をも含んでも哲学そのものではないように。
 アリストテレス先生の自然学は絶対に科学ではない。
 哲学、つまり無知の知、なんである。

  そしてこの哲学というのは、学問の本質でもある。
  信仰とは違って、カルト化しない。
 科学は容易にカルト化して袋小路に入り込むが。
 哲学にカルトはありえない。

 先生の自然学は哲学を含むというより、修辞学と哲学の関係同様、自然学と学問が深く関係している。
 これらが哲学より先行するものだからだ。
 だが、現代の自然学なるものは、まったくの別物になってしまっている、科学化している、という問題があるのだ。

 今一度、哲学と科学、自然学や修辞学との関係等を整理して、そこから先生の哲学へ入っていきたい。
  袋小路に入り込んでると思える現代の学問の状況を、まず徹底的に振り返って批判してみたい。


 <学問> 

 現代の学問には、大きく分けて二通りの道がついて来たと思う。

 <広義の修辞学>に属する、アリストテレス先生が付けたはずの<学問の道>と。
 <広義の科学>に属する、客観合理志向で立てられた<諸科学の道>がある。

 後者のこれは袋小路の技術、狙いの、知識体系なのだ。
 学問を、そして背乗りした前者の哲学を名乗っている。

 心身・合一の、哲学の道と。
 心・身、分離の、科学の道。

 心身・合一のほうは、何の目的でそれやってるのか、はっきりしない。
 おいらたちは自分の生の理由を誰も知らないからだ。
 (哲学を捨てた宗教カルト者以外は)。
 フィリアの正体も、当然不明なのである。
 知恵とか、知識とか、知る事とか言うし信頼してるが・・・。

 心・身、分離のほうは、目的は明確(で不純)だ。
 だが誰がやってんのか、わからない。
 享有目的、法人人物不明のまま、共有組織が深く絡んでくる。
 享有部分には悪魔のような光が潜むが、光についても一切不明。
 (神がやってる、神の目的だっつうのが宗教カルト)。


 後者は特に。
 哲学としての学問とは、まったく相互に相いれない道なのであるが。
 今は、これが世間で哲学を、そして学問を名乗っている、というへんな事態なのだ。
 要はアリストテレス先生は、著作講義録を利用され、遠ざけられた。
 科にバラされて利用されてるだけなのだ。

 前者の心身合一の道は、古典に属するはずなんだが。
 広義の科学にも、じつは古典を主張する連中が、ちゃんと別にいた。
 しかも哲学より古い。
 ピュタゴラス、エンペドクレスなどの、宗教家がいた。
 なので厄介なのだ。

 アリストテレス先生以前のもともとの自然学には、心身合一の自然学はあっただろうが、そうでない心身の科分離を目座してたものも、古くからあったということ。
 アリストテレス先生は、これをきっぱり分離した。
 そして科分離を排除した、はずなのだが。

 全集を復興させた修辞学者たちが、再度、混ぜ混ぜご飯にして自分たちの飯のタネにしてしまった。
 哲学では食えないので、食える哲学にしようとしたのだ。

 もちろん、これらに属さない自然学もある。
 <テクノロジー>や、<ヘーゲル論理学>というものが後世にはさらにできて、一層、厄介、厄災的な世界的なものとなったのは、言うまでもない。
 <テクノロジー>など、そもそも、理論(テオレイン)の学ではない。
 発明的な「出ー来」が優先。
 理論や実践はどうでもよく、<できりゃええ発明>を指す。

 テクノロジーのこれは実は、おいらの言い出したことじゃなくて。
 お月さんを研究してた本物科学者で、宇宙物理学の博士であった上の兄に、米国のへんな科学の動向として教えてもらった記憶がある。
 兄はへんな科学だと言っていたが、科学ではないテクノロジー。

 へーゲル論理学のほうは、実際には数学論理を使うのだが、虚無的信仰に立つのでそんな事情も見えてない。
 科分離自然学同様に厄介なのである。

 虚無主義は断罪済。
 これらは今回論議しない。
 これらをなるべく除外し、心身合一の道をいく<哲学>と、心身相互に科分離の道をいく<科学>についてのみ、対比させて整理していきたい。


 心身合一の<哲学>。
 
 哲学は、広義の修辞学の、そして学問の一員である。
 学び、問うものである。
 特に暮らしを立てることが、生き物であるオイラたちには必須なのだから。
 修辞学はここに必須。

 霞を食っては生きられないし、タル住まいでは捕まって奴隷に売られかねん。
 そもそも修辞学を追い出すと単細胞になっちまうことを、身をもって証明した哲学者も居たことを、思い出していただきたい。
 しかし修辞学が、イコール哲学であるかというと、もちろん、ぜんぜん違うんである。
 ウソを平気でついたり、自分だけパーティーやって得た特権所得の税金払わんで済むように特権行使したりする政治家は、この現代風修辞学の、つまりレトリカの専門家だが。
 彼らが哲学徒であるわけがない。
 それに、当時のレトリカが現代のレトリックというわけじゃない。
 現代のレトリックは政治使っての詐欺だ。
 
 哲学徒は修辞学に属しはするが。
 つまり政治主張もするが、税金払わせられる今は庶民の共有もの、学問のはずだ。
 過去には貴族の特権だったようだが。
 哲学は特権など持たない。
 つまり選ばれし者には、哲学も学問も関係持てない。

 哲学というのは、自分自身の無知であることを確認しないと始まらないという、じつに特殊な、人に普遍的にある学問なのだ。
 その認識をもとに、ソクラテス教徒以外は哲学者ではないとオイラは主張する。

 だから哲学徒はカルトか?というと。
 神々から「汝自身を知れ」という神託を受けて対話を重ね、自分自身に何にも知恵がないことを確かめていくだけなんやから。
 カルト(教義体系)なんぞには、なりようがないやろ。
 知識を得たり、捨てていくんや、<ない>、んやから。

 それは共有対話の結果、泥沼が積みかさなったにすぎん。
 知識は哲学と逆に、積み重なって泥沼化してくるだけなんで、自分で理解して掃き清めていく必要がでてくる。
 厄介者になってくるだけ、なんやから。
 使われない知識は特に、厄介者扱いされる。

 しかもそれの整理が目的じゃなしに、(それは下僕としての業務)。
 (哲学者の仕事ではあるが)。
 最初に、自分自身に、知恵や知識の片鱗すらなくて。
 それを恵んでもらうために、自分に光のかけらすらないことを確かめるだけが哲学の核心なんやから。

 経験的知識がいっさら含まれてない、この純粋で無知な自分自身のこと。
 これを、<享有>という。

 もちろん仮想のものなんやが、おいらたち多神教徒には、わかる、はずだ。
 キリスト教プロテスタントたちが決して認めようとしない、有限な有である。
 (カトリックは、自分がへりくだったり悪人になったりして初めて認める)
 
 享有の、世間一般的な意味は。
 <生まれながらもっている、有していること>である。

 プロテスタントたちは、自分が魂としての光だ、といい。
 不滅の神的な光を主張して、限りある命の有を認めようとしない。
 つまり、感性無視で英知に特化しているわけだ。
 その英知知識の光で、<享有を全否定>しようとする。
 個々人の、限りある命の有をまったく認めようとしないのである。

 彼らには個々人の享有心がなくて、永遠の共有のみ、があるらしい。
 つまり羊なんで、心なんかは要らん、というわけだ。
 フランス人の常識みたいに、病院の待ち合わせ同席は、全員と挨拶し共有しなくてはならん。
 挨拶無視すると変な目で見られる。

 共有だから魂も永遠だ、と言うんだが。
 共有も、神々が死に絶えたら消えるんだよ。
 なのに、彼らの神は、造物主で永遠の牧場主なので、決して死に絶えないそうだ。
 こういったカチンカチンの独断論を、カルト、というのである。
 カルト者と哲学は無縁である。

 哲学は、<有限な享有>の中で、<自分で知ることを欲して>生まれる<有限な学問>だ。
 生まれたときはすでに享有持たされてて、あった、はずだが。
 もとは何にも知識がないはずから、<知恵や知識とは、それへの信頼以外に無縁なあり方だ>、と言える。
 ある、けれど知識ではない。
 これが、哲学特有の<享有>きょうゆう。

 <享>の字には。

 語源的にも、<まつる・うける・もてなす>などの意味があるらしく、まさしく<神々相手の、他力の有>を表現していると思う。
 基本が、多神教なのである。
 他力の神々の有である。

 この<何にも自己知識がないことを自分で確認し、共有対話を始めるのが哲学>、ということ。

 他力の多くは、親しい者同士の対話によって、はじめて得られる経験のもので表に出てくるのでわかる。
 これが共有論議の、<ディアレクチーク>、なのである。

 言い訳やおまへんで。
 ディアレクチークは親しい者同士の跡付け対話であって、しかも経験的<演繹>のためのものだ。
 言い訳として相手立てることが可能でも、絶対に論理学の言う弁証法ではない。

 哲学は、享有の無知を他力として受けて、<祀って、もてなす>ことで始まり。
 それはしかも<共有の対話>に至ることで、無知の知として<自己完結>する。
 自分で解る、理(ことわり)をぶっ壊して理解すること、なのである。

 この理屈において、ソクラテスープラトンーアリストテレス間の子弟間のブレは、ないのである。
 共有対話における、相互の意見の違いがあるだけだ。
 この<心身合一での自然学>が、アリストテレス先生の哲学、学問である。
 

 心身合一の<自然学>。

 アリストテレス先生の哲学は自然学である、といえる。
 確かにフィシオロゴイ(自然学者たち)の、諸論議の中の一論議なのである。
 しかし心身合一のオルガノンと一体のものなので、絶対にこれは<科学ではない>。

 そもそもソクラテスは、その師パルメニデスの、ヘン・カイ・パン(一にしてすべて)の自然学に十分納得できずにいたため哲学を立てたのだし。
 プラトンは、「自然や世間に興味がなくて天上のイデアを考えた」なんて言われているが。
 ウソである。
 プラトンは隠されてないことにも目を留めてたし、格闘術でも政治的にも大家だった。

 <自然>、ということの意味がブレて、別門になってしまっているのだ。
 というより、今の世間は根本から、自然ということばを読み間違えている。

 自然は、これも、哲学では<心身合一の自然>。
 かくれなきこと。
 自然、フュシスというのは名詞やおまへん。

 つまり、人が対象認識した自然物なんぞじゃない、んである。
 対象的自然ブツとか、客観的現象とか、哲学では一切、そないなもん相手にしてない。
 それ相手するのは現実主義者のユダヤ人だ。

 自然学は、古代ヘラスでフュシカ、といい。
 自然というのは、フュシスという形容詞、あるいは動詞である。
 大事な点なので、老人性繰り言に見られても、何度でも何度でも繰り返し言う。
 名詞ではないし、 対象認識できるものではない。

 哲学は、フュシカつまり自然学から、生まれてきたものだが。
 この自然学は<心身合一の自然学>。

 ソクラテスは、その学問対象の自分の先生の学的問いの立て方に疑問を感じて。
 その基礎を、定まらない変容の様のフュシス現象にするのではなく、認識済の自己の<無知の知>のほうに置いた。
 これのみが、自然学の中の、哲学ということだ。
 だから哲学は、学問的には、問いの立て方にも一定のこだわりは持つ。

 つまり自然学は、自然という学問対象がある、のだが。
 その自然は、ナチュラルとは無縁であって、モノではないし。
 哲学は、その学問対象への知識が目的なんぞでも、ない。
 かくれてない、あらわな、つかめんものをつかみたいだけ。

 問いの、疑問の、解消が目的。
 そもそも、フェチなのだからだ。
 疑問はツブシて理解していきたい。

 自然の側には、もともと対象ブツもなにんも、目的としては置かれてないわけだ。
 瞳着してない。
 修辞学には属するが、肝心の修辞目的が、哲学にはそもそも見えてない。
 これがアリストテレス先生があえて修辞学をどうのこうのいわなかった、理由だろう。
 相互の<信頼関係が>、演繹できるあんよひもが、しぜんと、フィリアとしてあったのみ、だからだ。
 このフィリアに親愛奴隷となってスリスリしての、<フェチ愛が、哲学>なんやから。
 対象物を科分類再現して見出して、奴隷にして目的物再現に使う科学の技術とは、まったくの別門。

 自然、ということの認識が違うのはもちろん。
 修辞学や自然学が出会うウーシア(実有?)の認識も、科分離とは基礎から違う。

 科分離が扱う自然は、ナチュラ・ナチュランス、あるいはナチュラ・シンプリケースといっていいのだろう。
 これはずっとのちの、中世の用語だ。
 それに対して、アリストテレス先生の自然は、あくまで<心身合一の、自然>。

 このヘラス語の<自然>は、ナチュラルではないし、絶対にシンプルな名詞ではない。 アリストテレス先生が明言しているこれを無視すれば、哲学の道とはあっさりオサラバになってしまうのだ。

 自然(しぜん)、というのは、我が国の古典においても、ヘラスの事情と似ていた。
 名詞であったことはない。
 副詞というもの、つまり、わき役だった。

 動詞にくっついてそれを形容する、しぜんな様といった形容であったり、しぜんと思い至る、ふにおちる行動実践のことであったり。
 自然ブツが言われ始めたのは、科学者が世間で認められた明治以降のことだ。

 我が国では動詞部分は、じねん、といいう。
 別の動的な<変容物語>の言葉である。
 自動の意味でもないので、要注意。
 マシーナリー・テクニークとは馴染まない。

 常に、物語との関係で、考えてください。
 それしか、今日では、しぜんと接する手立てがなくなってる。
 自然に対して接するんではなく、しぜんと向こうから親しんできて、結果として接する。

 じねんじょで、勝手に生えたイモ。
 「しぜんと」、動詞化、副詞化される、その<変容>を考えるしかない。
 物語を導入するしかない。
 これは、対象認識できる現象みたいなもんや、おまへん。
 ローマ帝国時代の「神話物語」考えるとわかりやすい。

 ともあれヘラスでは、この「変身物語」とも言われるタ・メ・タ・モルフォーゼが延々と続くさまを、「ウーシアにおける神々と巨人の戦い」に例えていた。
 火をもらった恩義で巨人側に参戦した人間を、神々がぶっ殺す。
 その様は、<あからさま>で、<隠されていない>。

 この隠されていないことをこそ、<自然>、というのである。
 オノズト、ゼンタリの表現補助。

 <アリストテレス風の自然学>は、つまり哲学は、だから、<地上の一切の事柄を対象に>する。
 天空の秘めた物事なんぞは相手にしてまへん。
 ウーシアは地上の出来事だ。
 見えてる遠い天空の星々も天空の出来事ではなく、地上の、(見てる、見えてる、見られてる)自分の身近な出来事。

 心理学や、天体の動きの不思議さから、神々の振舞の諸々、さらには気象の目に見えぬ風や雨の様や、市井の悲劇に観衆がウソと知ってて泣きわめく様までも、この自然学は相手にする。

 物理現象を不思議と感じるのは人で、天候神が暴れて困惑するのも、演劇見に行って泣きわめくのも人であるからだ。
 人の感性が不思議なんであって、物理現象が不思議なんじゃない。
 生き物としての人が関わらんものは、そもそも無関係。
 人が関わるのでローマ時代の変容物語(世間的には変身物語とされている)も題材の内だが。

 これ、メタモルフォーゼは後のローマ時代、神々だけの分離世界だと、おとぎ話だと、人と無縁にされようとした時代に、オヴィディウスという人が書いた。
 世相反乱、文化クーデターもの文学。

 自然物を相手にする学問が自然学、じゃないよ。
 かくれなきさまの学問が自然学で、同時に修辞学で哲学でもある、これが学問。
 これを間違えると全部間違う。

 生命を持つ、ウーシアに関わる人が、心身合一で関わる学問。
 だから生物学みたいな、機械工学みたいな、へんなオルガノンに始まることになる。
 カテゴリーを駆使して、人の倫理や更には道徳にも直接訴えてくるわけだ。
 修辞学の中で自然学が立ち、それが同時に哲学であり学問、なのである。

 
 心身分離の<自然学>。

 科学的合理主義の自然学、というのは、まったくそういういうわけにはいかないようだ。
 ハシリの時期は哲学より古い。
 だが、常に宗教と一体だった。
 それを少しずつ脱ぎ棄てていったのも事実。
 しかし。
 現代に至って、形而上学を脱ぎ棄てようとして神を殺し、無神論となって虚無主義に陥っているのが現実。

 信仰は持つのに、神がいない。
 この手で殺めたからだ。

 アリストテレス先生の哲学に、この手の傾向があるかというと。
 皆無なのである。
 アリストテレス先生の哲学は、科学技術ではないからだ。
 ハシリのようなものがあるか、というと。
 それも一切ない。

 アリストテレス全集には、至るところにそれが、科学の片鱗が見られるのに?
 どこにあんねん、あほちゃうか。
 心身合一では、科学の片鱗すらありえないはず。
 全集や第一哲学に、科学の片鱗のようなものがふんだんに見られるのは、<心身分離の立場で書き換えられているため>である。

 哲学者でない多くの自然学者や修辞学者が関与して、この著作体系をつくり上げてきたからだ。
 アリストテレス先生は心身合一の哲学者なのに、哲学無視で加筆してきた自然学者や修辞学者が居たため、なのである。
 後の時代には、なんと形而上学者すら参加していた。

 だから先生の第一哲学は、その後、形而上学になってしまっていた。
 おいらの持ってるボロボロの文庫本にも、そう書いてある。
 形而上学と、ウソが堂々と書いてある。
 これはプラトン享有の「哲学」著作が、共有イデアの「文学」になってしまったと理解されるのと同じ。

 アリストテレス全集には、いたるところに非哲学者による加筆があるのだ。
 加筆しないと、心身分離の立場では、意味が通らんかったからである。
 誤りにみえてしまう。

 だから逆に、アリストテレス全集読む際には、心身合一の哲学でない部分は、無視すべきなのである。
 これはナチスのハイデガー先生に教えてもらった困難な読み方である。
 アリストテレス先生には、そもそも哲学に、科学技術のハシリのような部分は<ない>と断言していい。
 実は学問という分野にも、(科学技術のハシリのような部分は)ないのでは?
 
 ウイキのように「アリストテレスの哲学は誤りが多い」、とするのが。
 心身分離主義者の科学技術者たち、なのである。
 心身分離の自然学者は、確かに科学技術のハシリではあったが。
 そのすべてが<宗教家の信仰物語>だった。

 世間的信仰のタ・メタモルフォーゼではなかった。
 彼ら科学技術者たちは哲学者ではなく、ソフィストである。
 自然学者が、その中に大勢いた。
 心身分離を主張する、合理主義に踊らされた自然学者たちである。
 彼らは、<心と身体を区分できるように一意の信仰を、持って>いた。

 信仰というこれは、じつは哲学より古いんだが。
 逆に言って、科学技術者に心身合一の哲学を持ちなはれ、というのは、ムリな相談なのである。
 なぜそう言えるのか。
 科学技術者は信仰に囚われたカルトだからである。
 ハッキリ言う、彼らはカルトである。

 言い替えれば、科学技術が<合目的な、科分離、再現、技術だ>、からだ。
 レ・リジョンへの信仰を、こころに持っているからカルトなのだ。
 目的に合致させて、こころが一意に統一されてないと、つまり信仰でカルト化してないと、対象を偶像化できない。
 つまり、知的に瞳着しての対象認識ができない。
 そして科が細分化して分かれてないと、再現素材として個別認識はできない。

 おいらは子供の頃は科学少年に近かったと思うが、どうしても自分で科学の意味がわからなかった。
 それで夏休みの研究発表に「ツマグロヒョウモンの飼育記録」なんてのを出して入選しても、特賞は取れそうになかった。
 どこか、いい成績のみんなと、ズレてたのを感じていたからだ。
 今思うに、再現素材としてレ・リジョンさせようという<信仰心が欠けていた>のだ。
 つまり合理化技術が、いいかげんだったと言える。
 科学的技術の技術の意味はテクネーではない、んで、ここも、要注意点なのである。

 マシーナリー・テクニークの意味なんだが。
 その、基礎にあるのは、もちろん、こころ。
 心身一体のはずのものなんやが。
 レリジョンに特化した、へんな科分離のこころなのだ。

 こころを科学技術は、むりやり引き裂いてチョン切るのだ。
 これがサイエンスする、ということ。
 これ、やらなければ科学技術に、ならない。
 だから、オイラはそれできてなかった、と言える。

 サイエンスの語源は、ラテン語のスキエンチアである。
 はさみでチョンと、ちょん切ること。
 チョン切って殺して細分化し知識にして、惜しみなく奪う。

 そのための科学技術、なのだ。
 こころに、魂のもとに、奪いつくす。
 微細な科に切り分け分類して、素材仕立てて再現する、そのためだ。
 科学分類するのは、必ず<再現が目的>なのである。

 つまりレ・リジョン。
 再度、結合させる目的を持つ。
 それが宗教である。

 知力がそれを担い、自然を<素材化>する。
 この設計図は、こころに焼き付けられてある。
 つまり魂に瞳着させうる。
 これは、なんとテクネー(心構え)の、権能知識。
 これのみが奴隷化されて、取り出され使われる。

 心身合一では、こういった知的な瞳着は、おこらないというか、むりだろう。
 これをやるのは(虚無主義の)論理がやるのだ。
 カテゴリーの制限無視で、じっさいにやれてる。
 カテゴリーの倫理的束縛を解き放って、オッカムのあの暴挙で。
 数学は自在に科学で使えるようになり、大量殺人道具の原爆ができたのである。

 作った連中は「本物の悪魔」である。
 数十万人を焼き殺した悪魔。
 これが認識できない人が今でも多い。
 科学技術で悪魔が呼び出されて、何十万もの人を焼き殺したのに、認識できてない。

 (虚無主義の)論理が導き、感性を奴隷にして道具的に使って。
 純粋悟性概念の図式が、瞳着させられて従属的に絡んだ、のである。

 カテゴリーは排除されていても、つまりカテゴリー本来の権能は知りぞけられていても、その範疇的な働きのみが、科分離で見えてるわけだが。
 見る、写す、インスタンスコピーの権能に特化させられ。
 それが知識として働かされて、使われる。

 瞳着させ。
 知識にして、科分類のファクターに分け。
 これで、科分類した個別のファクターの、再現を目指すのである。
 目的に合致するナチュラルな素材こそが、求められる。

 これを帰納させれば、目的達成となる。
 ファクターはファクトウムとなる。

 これで「合目的技術達成」、というわけだ。
 知的に、瞳着優先でのみ、試験を経て、企画の物事がすすみ。
 テクネーの権能はここで、瞳着のための奴隷と化したのである。

 これらは文学でないのはもちろん、そもそも学問ではないのである。
 あえて言うなら「神話の実践的再現」だ。
 今日的な意味での(製作)技術のさま、なのであるが。
 <科学技術の要点>を、オイラ神話的に述べてるつもりである。

 科学技術は学問に背乗りして、数学とほとんど一体化してる。
 だがそもそも、数学などの学問理論ではないし。
 理論体系の学問でもない。

 数学や哲学に背乗りして学問という権威を奪い、学や問いを利用できてる、だけだ。
 これらが完璧な修辞学ではない、からなのだ。
 修辞要素を持つ、科分離された技術体系にすぎない。

 だから、これを修正して一部を合一に戻し。
 <科学哲学>なる修辞学を立てようとしたようだが。
 モトが学問、エピステーメー・テオレーチーケーではないので、無理だ。
 <自然哲学>なるものも、同様なのである。


 そんな、どうでもよい些細な事情はさておいて、この節の結論を述べたい。

 心身合一の自然学は「哲学」であるが。
 それと異なる、心身分離の自然学は「科学」であり。
 アリストテレス先生の自然学は、前者の方、なのである。
 つまり科学ではない。

 後者はまた科学技術と、正しく技術を付けて呼ばれることが多いように。
 マシーナリー・テクニークが、その本質なのである。
 これもハイデガー先生が明白に述べた。

 これらはアリストテレス先生の時代のテクネーでは、ないのである。
 テクネー自体が、ぜんぜんちがうものを指すのだ。
 今日では、学問であることすら、そこから遠ざけたテクノロジー、と呼ばれることが、一般的になってきたが。
 テクネー・ロジックと、その言葉でわかるが、科学よりテクノロジーのそっちが、テクネーに若干近い。

 現実は、科学技術が実現した現代技術が支配しているのではなくて。
 テクノロジーが生んだ魔法の数々が、オイラたちを脅かしてる。
 そんな時代、なのである。
 テクネー(心構え的な実践術)と、現代技術やテクノロジーの違いがわかるだろうか。
 次回はここらあたりから、もっとフィシカを掘り下げていってみたい。

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最終更新日  2024年03月13日 08時36分40秒
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