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2024年03月17日
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カテゴリ:哲学研究室

  <テクネ->

  アリストテレス先生の自然学は、対象認識する客観素材の科分類技術学、なんぞではない。
 技術学ではないから、その学問は技術学とはまったく基礎の異なる哲学となった。
 無知の知と、講義録という師ー弟子間の対話禄、となっていた。
 
 テクネー(心構え的実践術)と。
 技術(マシーナリー・テクニーク)の。
 この両者の違いをきっちり押さえることが、まず重要である。

 先生の第一哲学の第1巻、第一章の表題から、つまり対話禄のしょっぱなのハナから、この問題は出されてきている。
 最も重要かつ基本的な論議なのだ。
 そのことをまず認識されたい。

 「すべての人は知りたがる。人の知ることは感覚から始まり、記憶、経験知、テクネーを経て知恵となる」。
 「知恵(ソフィア)の学は、第一の原因や原理を論議対象にする棟梁的な学である」。

 テクネーが、棟梁的な指揮者の学である、そのことに問題はほとんどないだろう。
 問題は、ここにでてくる「知恵」と「原因」、そして「原理」であり、さらには「対象」である。

 原因、という訳なんぞも、じつは若干怪しいのだ。
 なんしか科に細分化した要素ではなく、すべてが一体の、<心身合一の演繹的思惟のはず>だから、なんである。

 原理へと、演繹できそうに思える知恵や原因がある。
 この「原因」は、やはり原因と言うより、原理となるべき修辞問題を控えたものだから。
 因子というより、「理由」に近い意味合いなのだ。
 目的を見据えての、仮説立てての帰納的思惟なんぞ、先生はやってないはずなのだし。
 演繹的に、より感覚に身近な、原初へと思惟が導かれなくては、意味がない。
 知ることは、感覚から始まるからだ。
 その感覚の理由が導かれなくてはならない。

 <知恵は>だから、(心身一体の)、つまり人の<感覚からできている>と言える。
 看ることが絡むのだが、モトは感覚なのである。
 プロテスタントが言う、質量ゼロの光ではない。
 ましてや、宇宙の真理や神の永遠などとは無縁な、人の感覚。

 知恵も知識も人のものである。
 内なる(享有)認識じゃないし、外部から来る阿弥陀如来の光の知恵でもない。
 そもそも知識・理解には、光ルシファーの瞳着インスタンスコピーなんて、いらない。
 自分で対象化した感覚ものをぶっ壊せば理解できる。
 そうやって、経験で得た知の織物を、手放していけば解ってくるだけ。

 記憶や経験知であるテクネーは、その「感覚に奉仕し知恵へと導く」立場である。
 人の感覚に奉仕するが、同時にソフィアという知恵にも使えている。
 奉仕人なので、それが棟梁となって指図や命令を出しては<ならない>のである。
 むしろ常に、演繹へと導く<黒子役だ>ということ。
 ネガチブなものだということ。

 ところが今日の技術、マシーナリー・テクニークは。
 これをポシティブなものに仕立ててしまった。
 目的を明確に打ち出しているがゆえに、合理化や中間省略がなされ。
 人の感覚には、もはや奉仕しないのである。

 感覚方向に向くのではなく、それは無視している。
 しかも本人が立たずに表象が立つ。
 表象された代理人の図式や数式が、身体や統覚に、直接指図や命令をするのだ。
 それらは棟梁として振る舞うどころか、オーナーをも支配しにかかる。

 設計図や、手を加える時間手順、空間看取り図が提供される、のだが。
 その手順や看取り図の、もとの<目的が、主人代理となってしまっている>。
 つまりテクネーが、心身合一の演繹的思惟ではなくなってしまってるから、そうなってしまっているのだ。

 この事情を導く理由が。
 テクネーという言葉の<解釈間違い>にあったと思う。
 そこから来ている。

 ローマ帝国は、テクネーを<技術>と訳した。
 そのことで、心身合一のものではなくなり、すべて心身分離してしまっていくのだ。
 心身分離で科学が成立できた。
 しかし棟梁は目的の表象に奉仕する代理人に過ぎなくなった。

 心身分離して、科学的に「技術」を、<目的にあわせて使おう>としているのが現代。
 それはアリストテレス先生の意図する学問の道ではないのだ。
 学び、マネして問い、道を作る意味がなくなってしまっている。
 
 知恵は、感覚からできているのであるから。
 分離して途切れたはずの時間手順、空間への、演繹可能な看取り図を常に持つ。
 つまり図式的に働く力なんぞではない、はず、なのだ。
 むしろ図式全体が、こころを示すもののはず。

 しかしおいらたちの世間常識技術では、カテゴリーも見えなくさせられた。
 今は無視された盲目の図式が、棟梁となっている。
 こころが目的によって切り離され。
 みえてないもんが、ナニカが、勝手に人の感性を導こうとする。
 それを芸術だと言ってる有様だ。

 目の見えない図式が、魔法陣立てて、時間手順や空間看取り図を提供しているのだ。
 これは心身分離認識で生じた、テクネーの誤解事態の結果。
 その結末なのである。
 
 ハイデガー先生なんかも、このテクネーの誤解に気が付いてて。
 これを「機械技術」ではなく、<クンスト>、と独自のドイツ語に訳していた。
 若干、集団技芸的な意味がある。
 徒弟制度として西洋の社会制度に受け継がれる、共有の<心構えを含んだ>言葉だ。
 但し共有用語なのである。
 テクネーは享有用語でもなければ、心身一体とはならない。


 第一哲学の筆頭に出てくるのは、このテクネ-論議である。
 心身合一の立場で、この論議を正しく身構えさせる、そのことが、哲学への第一歩となる。
 アリストテレス先生はテクネーを、あらゆる論議の真っ先に立てた。
 なのに。
 これが誤解されてたんでは話にならんのである。

 歴史は訂正されねばならない。
 「技術」と訳すのは間違いである。
 アリストテレス先生にはありえん、心身分離の立場の言葉なのだ。

 時間手順、空間看取り図といった意味をも含む、つまり感性の意味をも含む、心身合一の立場での正しいテクネー訳は、まったく別の言葉となるべき。
 それは享有の方から、感覚的に思惟される。
 心構え的なクンスト(技芸)の術であるはずなのだ。

 但しクンストでは技芸的過ぎるし共有特化してしまう。
 なので、アリストテレス先生の意図からは遠ざかると思う。
 だから、おいらはこれを簡略化して、より日本的に<心構え>としてきた。
 個人享有の言葉である。
 テクネーは以後、<心構え>と訳すべし。


 <見ることの認知は、(論理的)瞳着ではなく、瞳心>

 アリストテレス先生はまた、次に見ることの優先を語る。
 だが。
 これも心身合一の立場での「視覚」についての言葉。

 感覚と一体で、述べているはずなのである。
 見るという権能のみ分離して、科学をやってるんじゃないのである。
 修辞者・訳者がことごとく、科学をやってるつもりで訳してるからおかしくなるが、これに引きずられてはならない。

 先生は、最も好まれる親愛フィリアの、享有・共有された感覚を、心身一体に向けて演繹する。
 見るという、享有<感覚から演繹すべき何か>を探って、対話に共有提供している、のである。

 決して<見る、という権能の力を探っているのではない>。
 ましてや、知能の本質を科分離しているのではない。
 ここでもネガチブな思惟が重要な役割を果たす。

 見ることの認知の<感覚を、心身合一で>示している。
 演繹先を手繰ってみせている。

 講義している、だけなのだが。
 自分の感覚とのつながりを決して忘れてはいけない、ということ。
 享有を忘れたら、これも間違う。
 ネガチブな思惟を無視したら、事態が見えなくなる。

 実際、目の見えない人でも、心眼で見て見られて、普通の人として世間で生きることができる。
 だからここで述べられているのは視覚であっても、瞳着などと言った論理ものや器官の権能、などではないのだ。

 つまりここでは、知力単独のことを述べているのではない、のである。
 ましてや図式、数式の、言語的権能なんぞでもない。

 むしろ「言霊」のような心眼ものを、ここでも考え導入するべきだろう。
 純粋化した瞳着ではなく。
 心眼による差異認識に近い、しかし親しみのもの。

 ムリヤリ「瞳心」ひとみごころ、はどうか。

 これは若干ムリかも、とも思うとったんやが、オイラの新造語三号にしたい。
 (1号が論理学の撞着を瞳着と、知に特化して変えたことだった)
 (2号が、テクネー(心構え))

 見ることは同時に、見られるもののことでもあるし。
 視覚への心構えは、今日の科分離に馴染んだオイラたちには本当に難しい。
 反省を伴う、困難な有様だ。

 先生は、こういう。
 (瞳心で見ることは)「物事を認知させ、様々な差別の様相を(こそ)明らかにする」。 
 差別を見出すための、認識のもとのものだ、というのだ。

 明らかになるよう区分するそれがゆえの、瞳心(ひとみごころ)で見ることの優先だ、というのである。
 心眼利用がいいのかもしれんが。
 見る心は単に主体者ではなく、引きずられる者でもあるので、目の権能出すより、やはり瞳心が座りがいいように感じた。


 つまり見ることの認知というのは、今日、科学的に言うなら。
 ある波長での光を切り出して感知し、<知的>な物事として差別の様相を探ることだ。
 科学ではしかし、差別が感覚とは切り離され<知的に特化>してしまう。
 論理的に言うなら、瞳着してしまうのである。
 メ、が<未知の神々の力と化す>のだ。
 メ、の持つ本来の意味を受け取れなくなるのである。

 科学では、エネルゲイアが、一意に操れる対象であるかのように思ってしまう。
 これは実はエンペドクレスの魔術の世界なのだ。
 アリストテレス先生の世界では、エネルゲイアは、必ずエイドス(形容)感覚とも切り離せない。

 科学では、エネルゲイア処理目的のため、振動に見立ててのエイドス処理を行おうとする。
 エイドスもエネルゲイアも一体のものだが、科分離して考ええるので目的が主人公で立ってしまう。
 エイドス・エネルゲイア的な波長的関与による、実は目的持った再現の行為になりきってしまう。

 これらの常識から竿さして、潰していかんならん、と思うわけだ。
 瞳着ではないんや、「瞳心」、ひとみごころなんやと。
 聞くことや触れることでも、あるいは客観的に計測することでも、等しく「瞳心」は働く。
 同じ、感性ものだからである。

 科学でもやっと、感性ものという認識の導入もあるようになってきた。
 人が見ること聞くこと、機械が見えない電波や放射線で探る事も、同じ波長読み取り、とみなされるようになってきたが。
 未だ、「波長」と言う誤認瞳着が、その科学の基礎に座っている。
 科学、ということの意味が少しは明るくなってきただろうか?

 ここでの見ること重視の目的は、物事の差別の様相を確認すること。
 その<差異性>を(感覚で)認識することにある。
 この科分離、強調なのだ。

 但しというか、だから、というか科学では。
 瞳着でなく、<瞳心(ひとみごころ)>で認識することにのみフィリアがあるのだが。 そのことが、忘れ去られてしまう。
 目的に瞳着してしまうのだ。
 目的がなければ、虚無が居座る。

 差別がどうしても表に出て瞳着を導き、目的が主人化して命令してしまうのである。
 しかも瞳心は主人ではなく、ここでもわき役なのであるから。
 人の認知力は、常に脇役、ということになってしまう。







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最終更新日  2024年03月17日 09時15分56秒
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