<ファンタシア>
差別の様相を探る学問行為は、フィリアにあるはずの親しみへの、スリスリしての恋着行為だ。
恩寵のモトにある、それがモトなのである。
瞳心(ひとみごころ)へと、「演繹して」、その出どころを確認するためやってる、実践の時空からきたものである。
自分自身を知ろうとしない学問など、此処にはないはずだと思うかも知れないが。
実は、現代の科学技術は汝自身を知ろうとはしてない。
絶対の信仰があるので、神も自分自身をも、一切問わないのである。
学問は、それを許さない、そのはずなんだが。
別門立てて、科に分類して、対象に選んだそのものに注視するのみ。
真似し(ミメーシス)て、問い立てる(形而上学)ことはやるので、だまされる。
哲学では逆に、学問行為の<モト(アルケー)>が重要。
人の知りたがりで、その理由が<感覚>にあるんだ、とするからだ。
これが<演繹>するということの<理由>であり、感覚の享有・理解なんだということでもある。
原理・原則も、此処に、あるのだ。
アリストテレス先生は享有・共有も一体の、きょうゆう、なので難しいが。
それで<享有・共有も一体のきょうゆうで>、哲学という学問になっている。
立てた目的の投機的予定先が、未来にあるんじゃなくて。
原因のモトのアルケーは、その理由は、過去の「親しみ愛」的フェチ行為にこそ、あるわけだ。
知識確保にあるんじゃなくて、知識の破壊・解体理解・解消(カタルーシス)にある。
破壊して人生終わって初めて、すべてが解る。
これが学問、ということだと思う。
もちろん先生は、そんなことは言うとりまへんが。
感覚の享有から、共有論議に持ち出してる、そのことは間違いない。
享有は、まるで無知で子供であるはずなのに、女王様のクツにスリスリと恋着してる。 差異確認を通じての、そのことの再確認だ。
形而上学的な問(心理学・宇宙論・神学などの問い)や、永遠で未知なる力への誤謬信仰(エンテレケイアはあからさまな十全英知なので、若干違う)などとは無縁なテーマが、ここにある。
形而上学的な未知への問や、永遠で未知なる力への誤謬信仰などとは、無縁。
それで哲学という学問。
それが、視覚という感覚ものの原因というか、存在理由でもあるはずなのだ。
これを<原理や原則>と言う。
学問、ということに、どこか先験的な恋着認識があるのだ。
そういった<ようなこと>をアリストテレス先生は言ってるのだが。
そこで働く瞳心が見ている<知力>というものは。
瞳着した一過性の、その場限りのものではなくて。
<理由あるもの>なのである、と言ってる。
これを聞き逃してはならんと思うんだが。
科学はわざ(技術)と聞き逃して利用するのみだ。
なので、学問世界と科学は別門、なのだ。
アリストテレス先生は、哲学について述べているのであり、科学の門は一切気にしてない。
原理や原則と言った、論理用語から逆に騙されてはいけない。
先生の自然学(哲学)では、ここで動物一般が出てくる。
さらに「記憶力」や「音」を聞く能、として語られる、のである。
しかし先生が語りたいのは、科学観察し見出した動物一般の能では<ないん>である。
<人の、エンペイリア(経験)、という仮想ものの、原理原則の立つ時空>のほう。
つまりファンタシアのほうだ。
これは誰でもわかるだろうが。
ここの部分の記述は、かなりいじられてる様子があり、若干怪しい論議もでてくる。
先生は、生物の持つ能を科学しているのではない。
知力の力を語りたい、利用したいわけではない、のである。
経験という先験的なナニカを見据え理解したい、それだけなのだ。
科学したい、再現利用したいわけじゃない。
過去においら、この手の認識違い、してた。
経験が浅かった。
その、経験のモトとなるのが、瞳心で見た、<ファンタシア>や<記憶>だと言ってる。
ファンタシアや記憶を、科分離して論議したいんじゃなく。
哲学論議に載せたいだけ、なのである。
記憶は、プラトンでもしつこく論議されているので、この訳のままでいいだろう。
ファンタシアや記憶は、動物一般にみられるが、(動物が)「経験を具有するのは稀だ」とする。
これは先生の観察的憶見だろうか?
かなり疑わしいと思う。
が、そんなオクケンなんてどうでもよくて。
先生は、<経験>という用語命題をここで取り出し、ディアレクチーク論議にしたいんである。
命題にこだわってんじゃないのである。
「命題に拘ってはならない」。
(アリストテレス先生の戒めのこれ、結構困難です)
心身同体なのに、命題中に特定の用語取り出すって、本当に大変というか。
ほとんどムリやと思う。
だんぜん、科学的手法に軍配が上がって当然。
エンペイリアは、ほぼ「経験」で、これでもいいだろう(若干怪しいが)。
しかしここででてきた<ファンタシア>が、こっちがモロに問題なんである。
これについて、これはオイラが特に採り上げ、論議に持ち出ししたい。
ファンタシアは、普通に世間で「表象」と訳されてきた。
これにイチャモンつけたいわけだ。
これはまったく「駄・メ」な訳であるようにオイラ思うからだ。
知に瞳着して映し、確保済の表の象、というのは。
これは極めて科分離的な考え方だからダメだと、これはあえてオイラが言うのだ。
先生が言ってんじゃない。
先生の時代には、未だファンタシアは表象じゃ、なかったからだ。
しかも現代では、裏の像も実質の像も無視されてしまってる。
実にうすっぺらい、うふぉの、中性概念になっちょる。
瞳心による感覚優先路線だと、瞳心が形容した瞳着の再現目的などではない、ので。
ここは、しぜんと見えてる表の象じゃなく。
瞳心が<写す心の像>と、心をも採り入れるべきだろう。
この権能(そんなものあったら、だが)は、権能心を鏡に写さないからなのだ。
都市伝説のレッド・マーキュリーみたいに。
(鏡に映らない赤い水銀?)
しかし心象では、明らかに具合が悪い。
ヘラス語では、また別の言葉が当てはまるらしいからである。
翻訳機いじってたら、ノエティケーが絡む言葉でてきた。
実践知としてのディア・ノエティケーや、ケアの倫理という、過去にちょっと通り過ぎた、へんな論議も絡んでくる。
この分野は、オイラ語学力ないので、オイラがダメなんで、心象表現はダメ。
ムリヤリ中性的用語の心象とみなす、そういう手もあるようだが。
心の像、つまり心象は、現代では普通は、世間でいうイメージ・ピクチャーのことにされてるからダメだ、とでも言っとこう。
だが、ファンタシアは、ピクチャーやイメージなんぞとはぜんぜん違う、心の物なのだ。
そもそも知のものじゃなくて、魂のもの。
そんなんで、心象は、ここでのテーマではないので、ほっといて。
<表象>を論議中なんで。
オイラの持つ文庫本形而上学でも、ファンタシアを「形象」と訳してあったんやけど。 これらぜんぶ、ダメな翻訳だと思う。
ファンタシアは「表象」でも「形象」でも「象力」でもないと思う。
これらでは、心身一体でなくなる、対象に見出す<一般命題になってしまう>、からだ。
ファンタシアは、心身一体、享有の、確かにかくれなく表に見えてる像の事ではある。
しかし同時に、<心の掴んでる像のこと>でも、あって。
必ず、これこれの<時空が絡む>のだ。
これを形而上学命題が絡む、と間違えんように。
医者が、人一般を治療するんではなくて、ソクラテスさんだとか、プラトンさんを治療する、ようにせんと間違えるように。
ファンタシアは一般命題ではない。
中性の、単なる(無意味な)形象命題ではない。
むしろ、<これこれの実在の形象命題>。
しかも一体のもんだから。
宇宙全体を表現するような意味のある、魂が学んで寫した像のはず。
曼荼羅、のような、<魂の写し絵>を考えるべきだろうと思った次第。
日本人が使う心像(ナゼカオイラたちはこれをイメージという)に近い意味であって、決して具体的な心像ではない。
うふぉもの、だ。
経験、と言う言葉も、ファンタシア同様、具体物を表さない類似品である。
ファンタシアというここには。
イコン(魂の写し絵)という中世用語が世間にもあるので、若干ギリシャ正教風にはなるが、それを使いたいと考える。
アイコンじゃない、イコン(享有魂の写し絵)。
共有無関係だが、それこそ表象された共有物をも示す。
世間様は、ファンタシアを「表象」と訳すが。
オイラは、ファンタシアを「イコン」風に訳して理解したい、ということ。
魂を此処に入れたかった。
これやると、じつは類似の言葉が全部、軒並み変わっていってしまうのである。
イメージ・ピクチャー=心象という、世間に流布している中性的な訳自体も、誤りとなる。
早い話、絵画芸術が、この世に成立しなくなる。
イコンは宗教用語であって、西洋が布教的共有論議に使う道具ものの一つだが。
中性的な天使のもたらす力のことなんぞでは決してない。
もっと具体的な、<これこれの魂の力や場>だ。
むしろ、<享有する魂の写し絵>といった意味が生まれるのである。
表象とは全然、遠くなる。
イコンに、ファンタシアの本来の持ってた意味相があるんだ、とオイラは思い込んでいる。
瞳心で見た、<ファンタシア=イコン>や<記憶>が、経験のモトである。
死すべき有限性や性差といった、経験的な引っかかりもの。
これらは、ファンタシア(イコン)や記憶がテクネー(心構え)させた、時空ものの別名だ。
経験は、その時空の享有的な(具体的な個々人)のサガである、差別である、と言える。
つまり経験的に、享有者は<必ず性を持つ>のである。
これを無くしたい、へんなサガ反対者も大勢いるんやが。
科に切り分けても、それを捨てることはできない。
享有だと中性は認められないので、享有自体を無くして胡麻化してきた。
共有者の<サガ>を、中性化をしようとするLGBT法案化なんてのがあったが。
この法律案持ち出した人なんかソレで、あほちゃう?、と思う。
性を持つ生命のカテゴリーが、そんなの許すはずないやんけ。
ちょっと、そこへの寄り道をしてみたい。
北欧神話のsaーgaにではなく、ばかばかしいLGBT法案のほうに寄り道である。
男女の優劣差なんぞという、ばかばかしい差別論議がある。
性差を差異認識できない人が持つ、おかしな「差別主義者の意見」だが。
プロテスタントが、カトリックを追い込むためにこれを利用してるようだ。
現実社会では、カトリックにもプロテスタントにも、選ばれし者が神の代理人を主張してる。
そのために、差異ではなく、差別ができる。
慈善団体だと言う有名某組織なども、男以外は入れない。
性差は現実には共有されて、厳然と差別もあるのだが。
性差とアイデンチチイの差を、つまり享有差を認めず。
人の享有を認識できないへんな連中が、自分たちの特権維持のためにやっている差別なんだが。
これを利用して敵対組織を混乱させたいと考えた連中もいたようだ。
家畜的な共有視点に中性のイコンものがムリヤリ絡まさせられて、このLGBT問題は出来ているのだ。
特に、人の性差を認めず、ごった煮にして中性化させる。
そういった動きが見える。
図式魔法陣がありそうである。
LGBTの法案化なんて、生命の営みが許さんと思うんやが。
つまり、人の社会的中性化を図ろう、合理的な機械にしちまおう、っていう意図が見え見え。
人と性差を区分して科学して、殺戮しようという、ありえん修辞やってる。
共有社会に許されざる法律だから、おかしさが目立つのでもある。
じつは世界を支配すると思い込んでいるへんな連中が持ち出してきたものだが。
<心象とイコン(魂の写し絵)>の問題含んでるので、脱線した。
法令問題のほうは。
法令化を求めてきたのは(被差別者への)「性差別禁止法」の制定狙いが根にあったらしい。
その一歩なんだと、選ばれし差別主義者たちがへんなウソをぬかした。
だから、ハナから紛糾した。
享有論議に関わるつもりはなく、<性差別禁止法の制定をしたい準備なんや>と。
これがハナからウソ。
性差別はハナから、しぜんとあるもの、だからだ。
なくせない。
共有社会からのみ、なくすつもり?やったらまず、実践的に社会の基礎的な仕組み改革から動かせなあかんわけで。
女性でも普通に社長や議員になれるように、もっていくべきなんで。
ムリの建前だけの掛け声してるんで、ウソ丸出しだ。
グレータイプの宇宙人みたいに、法令で性器チョンぎっての中性化要求に走ってる、というわけである。
実際には、ちんちんちょん切った連中から出てる意見だろ?
心にあわせて戸籍身分を変えるには、現行法では性器チョンぎらにやあいけん、みたい。
これを無くそうという運動なんや?
ちゃうやろ、逆やろ?
共有社会から性差を無くしたい、だけやろ。
共有社会からサガを除外したい。
ハナからムりなんやけど。
結果的に、選ばれし差別主義者たちが、論議の物事の本質も理解できんままに、脱税問題同様の手口でLGBT法案押し切った。
今後、性別分けて業務してる共有のとこは、その性別混乱に拍車がかかった。
詐欺罪が当然、横行する。
たぶん効果はそれだけ、だろう。
トランスジェンダーは決して少数派ではないし。
気の毒な境遇の人もいるが、そのすべてが差別されているわけでもない。
へんな詐欺師もごまんといるのだ。
心身分離チョン切りの科学だと。
心無視なので、オチンチンの有り無し、だけで事が済みそうに思うかもだが。
実は、心の問題が別に生きてあるので、単純ではない。
心の目的に合わせて、切り捨て問題が、必ずどこかで起こってくる。
そうでない心無視でも。
遺伝子がY染色体持ってても、ホルモン異常でオチンチンの育って無い場合もあるし、本当にチョン切られてて、ない場合もある。
性は心身絡み、それも心身一体のことなので、共有社会に合わせるなんぞは容易ではない。
そもそも、<心と体は、心で一元制御できない>。
プラトン先生みたいな、男気だけ大好きの逞しい男もいれば。
男好きゆえに女になりたい男もいれば。
男を誇りたいがゆえに女好きになったやつもいれば、女好きゆえに女装したい、中には女になり切りたい水仙男もいるし。
女もこの逆で、同様に、多種多様いっぱいいるし。
さらに心と身体は、ねじれてるのが普通。
中には男も女も嫌いで、自分も周りもぜんぶ中性化したい、男女もいるだろう。
男も女も大好き両刀使いもいれば。
心抜きでもホルモンのバランスから両性具有になってしまった者もいるし。
有名なファラオのイクナトンみたいに、性差が途中で取り替わる場合だってありうる。
全部、後天的なトランスジェンダー、というか。
経験絡み。
人は心身合一なので、性というものに身も心に引きずられて、時空で変わってゆく。
人のさが、は死ぬまで捨てられない享有品。
早い話、生き物は全員心身ともに持つので、ある意味トランスジェンダーなのである。
但し個々人は、有限な享有者だ。
脱線からの戻り。
その、享有者の魂の像が、ファンタシア。
まあ、うふぉ、ってことです。
超賢いローマ人には、ここがまるっきし理解できんかった。
享有が理解できんので、共有の中性像みたいな科分離瞳着像を考えた。
それが<表象>。
しかしファンタシアは、共有には使えないはずの享有ものだから、ここですべてが狂ったのだ。
享有認めない連中は、魂の写した知性像なんて、表に表せることができないはず。
だが、無意識なら扱えるんだろうから、像にして対象には置けると考えたのか。
偶像禁止なのに。
うふぉだから、二次元に描くのはええってよ。
絵画は実際には三次元も使う。
偶像禁止というのは一神教特有のもので、神を二つ作らないための禁止道徳ものだが。
魂の写した知性像を享有として認めないんでは、今度は<表に表せることができない>とい問題が生じた。
だから神話物語にすることで回避した。
あるいは物語化して、幽霊のファンタスマの実体にしちまえば、と考えたのかはわかんないが。
不都合がふくらんだ。
<共有に使えるのは必ず、複数化してのファンタジーのほう>なのである。
ウソ神話物語いっぱい、になった。
但し単数はムリなので、表象に意味はなくなる。
うふぉ、になる。
ファンタシア(魂の像)は、心身一体で考えたら、普通に享有者個人の持つ心の像、イコンとなり、結局個人信仰に閉じ込められることとなるのだ。
つまり魂の写し絵、という触れ込みなんやが。
心身分離の立場だと、複数形にして。
心象という架空の、ウソの、仮の、禁止偶像にするしかないわけだ。
つまりイメージ・ピクチャーにしか、ならん。
だから心身分離の立場の人は、これを中性化して<表象>としたのである。
基礎にウソがある。
物語化というウソ、が、タ・メ・タ・モルフォーゼというウソが、ついて回ってるのである。
・・・・ではない、と自分で言えないものだから。
<瞳心>を無理に区別するのに、ウソを立てたわけだ。
つまりアリストテレス先生が述べているここでは。
共有のイメージ・ピクチャーが論議されてるんではない、のである。
ファンタシアということは、<享有者単独での>、心の像をこそ述べている。
依り代となった偶像の事を述べているのだ。
ヤバイから、分離して殺した。
だから、幽霊になって、ファンタスマになって出たわけだ。
ヘラス文化には、もともと絵画はなかった。
偶像禁止されていたんではなくて、もともと、なかった。
という峻厳な事実、を思い出していただきたい。
あっても「戯画」か「漫画」の、心の像のような「写し絵もの」だった。
我が国の絵画事情に極めて似ている。
絵画は、そして心象は、ヘラスより後の時代のうふぉもの。
ローマ帝国風の、科学概念が生んだ、ものなのである。
つまりヘラスでは心身合一なので、ファンタシアに表象は立たず、絵画は、イメージ・ピクチャー利用物も成立しなかったのである。
さて、「学問やテクネー(心構え)は(享有)経験を介して、人のものとなる」。
と先生は言う。
ノート(指令書)や論文によって、共有物になるのではないのである。
人の<享有経験を経て>、共有社会において、人のものとなる。
だからここに、カテゴリーや倫理が絡む、諸事情が出てくるのだ。
オルガノンが絡む。
自分個人で記憶し経験せんことには、テクネーはおろか学問も得られないのだ。
「無経験は偶然をこそ、つくる」。
勝手に出来てしまう?のである。
今はそんな世の中になってきた。