アリストテレス先生は奥が深く、まだまだ誤解もあるはずだが。
本稿をもって、過去の自然学に関する諸論議を放棄したい。
リンクは消したし、中身はもう忘れたが、この下書きサイトのどこかに残っているはず。
どうせ消えるもんだとわかっていても、自分の過去と出会えないのは寂しいものだ。
楽天はすべてを残してくれているが、ヤフーのジオシティでは、そこに置いてあったすべてを失った。
短編小説群など、もういちど読んでみたいものもあった。
特に知性と感性の関係、倫理と道徳の関係など、やっとわかりかけて来た気がするんやけど、オイラの認識は万事、まだまだいいかげんなのは間違いない。
自然学、哲学、修辞学、形而上学、などの現代学問問題との諸関係は、だいぶん整理できてきたとは思うが。
特にアリストテレス先生の自然学は、同時にオルガノンであり、倫理学やカテゴリー論議とも切り離せない、そのことがわかってきた。
引用は「」で示してあるが、そのほとんどはウイキなので、誰でも見られるはずと思ってたが、これも逐一書き換えられているようだ。
怪しくなってきた。
最近のウイキは、ホントに、だめになった。
アリストテレス先生の哲学は特に、このトップの<自然学>が大きい、という特徴がある。
しかも自然学なのに、「科学」ではなく「哲学」なのだ。
ここはもちろん世間一般の見解とはまるで違うんで、注意されたい。
世間は、先生を科学技術のハシリとしたがる。
しかしそれは、お門違い、なのだ。
修辞学が哲学をも含んでいても哲学そのものではないように。
アリストテレス先生の自然学は絶対に科学ではない。
哲学、つまり「無知の知」、なんである。
そしてこの<哲学というのは、学問の本質>でもある。
信仰とは違って、カルト化しないという特徴がある。
無知なんで、教条化しようもない。
科学はその本質から、簡単に技術一辺倒になるし。
また容易にカルト化して袋小路に入り込み、共有した大衆を扇動するのだが。
自分で自分享有の無知確認から始まる哲学に、カルト化は、ありえない。
先生の自然学は哲学を含むというより、修辞学と哲学の関係同様、なのだ。
自然学と学問が、深く基礎から関係している。
これらは、哲学より先行するもの、だからだ。
だが、現代の自然学や修辞学なるものは、まったくの別物になってしまっている。
つまり科学化してしまっている、という問題がある。
今一度、哲学と科学、自然学や修辞学との関係等を整理し、そこから先生の哲学へ入っていきたい。
袋小路に入り込んでると思える現代の学問の状況を、まず徹底的に振り返って批判してみたい。
<学問>
現代の学問には、大きく分けて二通りの道がついて来た、と思う。
1:<広義の修辞学>に属する、アリストテレス先生が付けたはずの<哲学の道>と。
2:<広義の科学>に属する、客観合理指向で立てられた<諸科学の道>がある。
おいらは、哲学と科学を峻別するので、こういう方途が見える。
後者の2:のこれは、袋小路の技術学狙いとなる。
これは知識体系なのだ。
学問を、そして背乗りし占領してきた前者の哲学を、名乗ろうとしている。
1:心身・合一の、哲学の道と。
2:心・身、分離の、科学の道。
心身・合一のほうは、おいらが自分でやってるとわかるのだが、何の目的でそれやってるのか、はっきりしない。
おいらたちは誰も、自分の生のほんとうの理由を知らないからだ。
哲学しても、感覚や記憶は、それらを教えてはくれない。
生まれる前の前世の記憶など、ないからだ。
(哲学を捨てた宗教カルト者、以外は)。
哲学は、知恵にスリスリするフェチシズム。
なのに、肝心のスリスリというフィリア(親しみ部分)の正体も、当然不明、なのである。
知恵とか、知識とか、知る事とか、普通にそれを信頼しきってるが・・・わからん。
プラトン先生なんかも、なぜおれは男しか愛せないのかわからんと、言ってた。
心・身、分離の科学のほうは、目的は明確である。
但し、同時に不純そのものだとわかる。
惜しみなくすべてを奪いつくす目的で、生きる目的がカネ目的に変貌して、強盗やってんであることも、注意すればわかる。
だが目的は明確であっても、誰がそれをやってんのか、ハッキリわからない。
実施主体が、つまり享有者がハッキリせんのだ。
エゴがやってんのか、先生が命じているのか、未知の記憶や道徳があるのか、組織形式があるのか。
あるいは組織的陰謀があるのか。
常に客観的共有が表に出るからだ。
この組織的陰謀がある、というのが陰謀論者だ。
実際に証拠らしき、ものが結構多くでてくる。
特に科学技術の道は、この諸組織の意図が、多く関与している。
太古のオルペウス教団やピタゴラス教団をハシリに、キリスト教関係やユダヤ教も関与している。
宗教と一体の、組織的陰謀(選ばれし者としてまとまり、外部に秘匿するので)と一体なのである。
しかもこういった団体の多くが哲学に背乗りを図り、哲学史が陰謀史になってしまっている。
だいいち享有目的がわからん。
法人の中心人物が不明のままなのだ。
享有部分が生きてないからなんだが。
いい例がキリスト教だ。
磔にして殺されただけでない。
イエス・キリストは教祖様だが、実在は疑わしいし、その聖書は、もっと疑わしい。
バビロンにあった大量のミシュナー群がモトらしいんだが、原料は意図的に破棄されてきた経緯がある。
とにかく共有組織、陰謀組織が、ここ、宗教や科学には深く絡んでくる。
哲学とはまったく異なる享有モノを、持つはずなんだが。
目的を隠すので、享有部分には触れさせない。
悪魔のような、光が潜む、とするのが科学。
この光についても科学すれば、「誰が」、というのが、一切不明になる。
知識すらロクになくなるんである。
(神がやってる、神の目的だ、っつうので片付けるのが宗教カルト)。
後者は特に。
哲学としての学問とは、まったく相互に相いれない道なのである。
だがそれが組織的に隠されて来た。
今は、これ、組織や法人が、世間で哲学を、そして学問を名乗っている。
というへんな事態なのだ。
科学的なものは、心理学も論理学も、個々人の心理学や論理学ではなくて、組織共有の学術を名乗ろうとしてるのだ。
そんなもん、ないのに。
組織的な哲学なんて特に、大嘘である。
要は、アリストテレス先生は、著作講義録を組織的に利用され、教壇から遠ざけられたということ。
そして教団に祀られ、科にバラされて。
知識的にしゃぶりつくされ、利用されてる、だけなのだ。
アリストテレス先生の心身合一の道は、古典に属する、はず。
なんだが。
広義の科学にも、じつは古典を主張する連中が、ちゃんと別にいた。
しかもこちらは哲学より古いのだ。
ピュタゴラス、エンペドクレスなどの、<宗教家>が、ちゃんといた。
なので、この認識がないと厄介なのだ。
厄災が起きる。
アリストテレス先生以前から、これら自然学はあった、ということ。
それがフォア・ソクラチカーの意味なのである。
ソクラテス以前に哲学はないので、まちごうたらあかんえ。
もともとの自然学の一部にも、心身合一の自然学は、確かにあっただろう。
だが、そうでない心身の科分離を目座してたものが中心だった。
しかも、かなり古くからあった、ということ。
科学的認識の方が、明らかに哲学的認識より古いわけだ。
しかも宗教と一体化してた。
これをまず、必ず、認識すべきである。
アリストテレス先生は、これ(科学的分離)をきっぱり、学問から分離したのだ。
だからアリストテレス以降、科分離は排除されたはずなのだが。
全集を学問だとして復興させた修辞学者たちがいた。
彼らが再度、分離したはずのものを、混ぜ混ぜご飯にして自分たちの飯のタネにしてしまった。
哲学ではとうてい食えないので、食える哲学にしようと図ったのだ。
もちろん、これらに属さない、別の自然学も、その後の時代にできた。
<テクノロジー>や、<ヘーゲル論理学>というものが後世にできて。
一層、厄介に、厄災的な世界像的なものとなった、のは言うまでもない。
<テクノロジー>などはそもそも、アリストテレス先生の言う理論(テオレイン)の学ではないのだ。
実践の学でもない。
発明的な「出ー来」が優先、だからだ。
目的優先。
理論や実践はどうでもよく、できりゃええ、<発明>を指す。
テクノロジーのこの特徴は、おいらの言い出したことじゃなくて。
お月さんを研究してた本物科学者で、宇宙物理学博士であった上の兄に、米国のへんな科学の動向として教えてもらった記憶がある。
兄は、へんな科学だと言っていたが。
科学(サイエンス)ではなく、テクノロジー。
まだ昭和の戦後まもなく、の時代だった。
へーゲル論理学のほうは、実際には観察、感覚ではなく、数学論理を使う。
だが、虚無的信仰に立つので、そんな事情も表には見えてない。
科分離自然学同様に、じつに厄介なのである。
虚無主義は断罪済のつもりなので。
これらは今回論議しない。
これらをなるべく除外し、心身合一の道をいく<哲学>と、心身相互に科分離の道をいく<科学>についてのみ、対比させて整理していきたい。
心身合一の<哲学>。
哲学は、広義の修辞学に属する。
そして学問の一員である。
共有的に学べる(真似できる)し、問うものであるのも確か。
真似して、迷うものだが。
それはオイラたちが生き物であるためだ。
特に暮らしを立てることが、生き物であるオイラたちには必要不可欠。
なのだから、修辞学はここに必須。
霞を食っては生きられないし、タル住まいでは悪人に捕まって奴隷に売られかねん。
そもそも修辞学を追い出すと単細胞になっちまうことを、身をもって証明した哲学者も居た。
そのことなどを、思い出していただきたい。
しかし修辞学がイコール哲学であるかというと、もちろん、ぜんぜん違うんである。
ウソを平気でついたり、パーティーやって得た特権所得の税金を自分だけ払わんで済むように、またもや特権行使したりする政治家は。
この現代風修辞学の、つまりレトリカの専門家だが。
彼ら特権行使の、しかも犯罪者が哲学徒であるわけがない。
それに、ヘラス当時のレトリカが、現代のレトリックになったというわけじゃない。
レトリカからレトリックと言う言葉ができたのは確かだが、理念は受け継いでいない。
レトリックだと詐欺的意味合いももってくるし、現代のレトリックは政治使っての詐欺になっちまってるんだが。
レトリカ(修辞学)はもともと、れっきとした「学問」で生きてるんであって、「詐欺」で生きてんじゃない。
哲学徒は修辞学に属しはする。
だが、それから分かれた、まったくの別門。
つまり政治主張もするが、税金払わせられる今は、庶民の共有ものとしての学問のはずだ。
過去には貴族の特権だったようだが。
始めたのも庶民(ソクラテスはプチブルジョワ)だったし、<哲学は特権など持てない>。
つまり<選ばれし者には、哲学にも学問にも関係持てない>はずなのだ。
選ばれし者は共有者の組織員だが、哲学は享有者のものだからだ。
哲学というのは、自分自身の無知であることを確認しないと始まらないという、じつに特殊な事情がある。
人に普遍的にある学問なのだが、持つのは必ず個々人の現実。
その認識をもとに、<ソクラテス教徒以外は哲学者ではない>とオイラは主張する。
だから哲学徒はカルト・ソクラテス教徒か?というと。
そもそも組織員ではないし。
神々から「汝自身を知れ」という神託を受けて対話を重ね、自分自身に何にも知恵がないことを確かめていく、それだけなんやから。
カルト(教義体系)なんぞには、なりようがないやろ。
知識を得ていくんや、<ない>、んやから。
哲学は、知に擦り寄るが、知識とはあんまり無関係である。
それらはぶっ壊して解っていく、捨てていくだけの関係。
知識と言うそれは、共有対話の結果、泥沼が積みかさなったにすぎんと思う。
知識は、哲学的明晰判明とは逆に働く。
積み重なって泥沼化して、邪魔してくる。
それだけなんで、知識は自分で理解して掃き清めて、どけていく必要がでてくる。
厄介者になってくるだけなんやから、整理が必要なわけだ。
使われない知識は特に、科学でも厄介者扱いされるじゃろ。
しかもそれの整理が目的、じゃなしに。
(それは下僕としての哲学業務、哲学者の仕事だと思われてるところもあるが)。
最初に、自分自身に、知恵や知識の片鱗すらないことを確認し。
それを恵んでもらうために、自分に光のかけらすらないことを最初に示す必要がある。
経験的知識がいっさら含まれてない、この純粋で無知な自分自身のこと。
これを、<享有>という。
享有は、その感覚とともに、哲学徒に必須な、うふぉなのである。
ウソの心構えだということ。
だから享有否定者に哲学の始まりはない、と言える。
もちろん享有と言うのは仮想のもの、ウソなんやが、実在でもある。
おいらたち多神教徒には、わかる、共有できるはずだ。
享有は、キリスト教プロテスタントたちが決して認めようとしない、有限な有のことである。
つまり、わからんこの世の生の事。
(カトリックは、自分がへりくだったり悪人になったりして、初めて認めている)
享有の、世間での一般的な意味は。
<生まれながらもっている、有していること>である。
プロテスタントたちは、「自分が魂としての光だ」、というので、これを認めない。
不滅の神的な光を主張して、限りある命の有を認めようとしない。
つまり、彼らは感性無視なので、英知に特化して、光に瞳着しているわけだ。
その英知知識の光でもって、<享有を全否定>しようとする。
個々人の、限りある命の有を撲滅。
哲学の基本のこれを、まったく認めようとしないのである。
彼らには個々人の享有心がなくて、永遠の共有の生、だけがあるらしい。
つまり犠牲にされるべき羊なんで、全焼の生贄となるものに心なんか要らん、というわけだ。
フランス人の常識みたいに、病院の待ち合わせ同席者は全員と挨拶し、待ち合わせ時空は共有しなくてはならんなる。
挨拶無視すると、変な目で見られる。
永遠の共有に、つきあわんならん。
共有だから、魂も永遠のものだ、と言うんだが。
共有も、「神々が死に絶えたら消える」んだよ。
これは太古のハッチたちが言ってた。
「祀る者がいなくなって神テリピヌシュが消えたら、この世界もたぶん消える」と。
なのに、彼らプロテスタントの神は、造物主で永遠の牧場主なので決して死に絶えないんだそうだ。
こういったカチンカチンの独断論を、カルト、というのである。
カルト者と哲学の間は、無縁である。
哲学は、<有限な享有>の中で、<自分で知る>ことを欲して生まれ死ぬ<有限な学問>だ。
生まれたときはすでに<享有>持たされてて、そこにあったはずだが。
もとは知識も何もないはずから。
これは、享有という命題は、じつはおかしなうふぉ表現なのだ。
実際には命がすでにあり、オルガノンがあり、英知の光みたいなもんがあり。
つまり生命体がある。
知識や感覚のモト、<みたいなもん>、身体があるのだ。
オルガノンがある。
その有とも言えないおかしな、うふぉな心身統一命題を、享有というのである。
(命題に拘ってはならない、命題は無意味である)
知恵や知識とは違う。
決して光ではない。
それへの絶対信頼ではない。
身体があるからだ。
身体故に、人は、自分の命への、親しみを持たざるを得ない。
オルガノンと無縁ではない。
命がなければ知恵や知識もないのだから、絶対の共有愛がそこにあるかというと。
自殺が可能なんだから、享有は絶対のモノではない。
絶対の知識がなければ人の知恵や知識もないのだから、絶対の知恵や知識がそこにあるかというと。
人は、かなりいい加減で、誤りもふんだんに持つものだから、そもそも絶対性とは無縁なあり方だ、とハッキリ言える。
知恵や知識を持つが、持つのは絶対の知恵や知識ではない。
断じて光ではないのである。
これが、哲学特有の<享有>きょうゆうということ。
科学は、これらとまったく違う風に考えるのである。
絶対の知恵という、信仰に基づくカルト、だからだ。
今はしかしそっちを、科学を騙ってんじゃない、哲学という学問の方を語っている。
<享>の字には。
語源的にも、<まつる・うける・もてなす>などの意味があるらしく、まさしく<神々相手の、他力の有>を表現していると思う。
基本が多神教、なのである。
他力の神々の有であるが、その有信仰に負わないので、宗教カルトじゃない。
何度も言うが、<知へのフェチシズム感覚重視>。
この<何にも自己知識がないことを自分で享有確認し、共有対話を始めるのが哲学>、ということ。
他力の多くは、親しい者同士の対話によって、はじめて得られる経験のもので表に出てくる、なのでわかる。
これが共有論議の、<ディア・レクチーク>、なのである。
「言い訳」やおまへんで。
ディアレクチークは親しい者同士の跡付け対話であって、しかも経験的<演繹>のためのものだ。
言い訳として相手立てることが可能でも、絶対に論理学の言う「弁証法」ではない。
いいわけではない。
哲学は、享有の無知を他力として受けて、<祀って、もてなす>ことで始まり。
それはしかも<共有の対話>に至ることで、無知の知として<自己完結>する。
自分で解る。
理(ことわり)をぶっ壊して理解すること、なのである。
この理屈において、ソクラテスープラトンーアリストテレス間の子弟間のブレは、ないのである。
共有対話における、相互の意見の違いがある、だけだ。
この<心身合一での自然学>が、アリストテレス先生の哲学、学問である。
心身合一の<自然学>。
アリストテレス先生の哲学は自然学である、といえる。
確かにフィシオロゴイ(自然学者たち)の、諸論議の中の一論議なのである。
しかし心身合一のオルガノンと一体のものなので、絶対にこれは<科学ではない>。
科学はしてない。
哲学であり、学問、なのである。
そもそもソクラテスは、その師パルメニデスの、ヘン・カイ・パン(一にしてすべて)の自然学に、十分納得できずにいたため哲学を立てたのだし。
プラトンは、「自然や世間に興味がなくて天上のイデアを考えた」なんて言われているが。
ウソである。
プラトンは、隠されてないこと、つまり自然にも目を留めてたし、格闘術でも政治的にも、結構大家だった。
実務政治にも手を出して、殺されかけて逃げたりしている。
今日の<自然>、ということの意味が科学にブラされて、すっかり別門になってしまっているのだ。
というより、今の世間は根本から、<自然ということばを読み間違えている>。
自然は、これも、哲学では<心身合一の自然>。
かくれなきこと。
自然、フュシスというのは、名詞やおまへんヨ。
存在するもんや、ないんやで。
つまり、人が対象認識した自然物なんぞじゃない、んである。
対象的自然ブツとか、客観的現象とか、哲学では一切、そないなもん相手にしてない。
それ相手するのは、現実主義者のユダヤ人とスキエンチア(サイエンス)主義者。
つまり科学者なのだ。
ローマ帝国で科学を始めたのは、アレクサンドリアの女学頭ヒュパティア(350年から370年頃 - 415年)である。
キリスト教徒に殺されたことになってるのでユダヤ人だ。
ここいらがほんまもんの、科学のハシリ。
すでにアカデメイアは乗っ取られてた。
自然学は、古代ヘラスでフュシカ、といい。
「自然」というのは、「フュシス」という形容詞、あるいは動詞である。
大事な点なので、老人性繰り言に見られても、何度でも何度でも繰り返し言う。
<名詞ではない>し。
対象認識できるものではない。
哲学は、フュシカつまり自然学から、生まれてきたものだが。
この哲学的自然学は必ず、<心身合一の自然学>。
ソクラテスは、その学問対象である自分の先生の学的問いの立て方に疑問を感じて。
その基礎を、定まらない変容の様のフュシス現象にするのではなく。
認識済の自己の、<無知の知>のほうに置いた。
へりくだった、ともいえる。
未来予定系ではなく、過去形にしたとも言える。
これのみが、自然学の中の、「哲学」ということだ。
未来系ではなく、過去系。
論理支点ではなく、へりくだり。
だから哲学は学問的には、問いの立て方にも一定のこだわりは持つ、わけだ。
つまり自然学は、<自然という学問対象がある>、のだが。
その自然は、<ナチュラルとは無縁>であって、モノではないし。
哲学は、その学問対象への知識が目的なんぞ、でも、もともとない。
かくれてない、<あらわな、つかめん、うふぉものを問うている>だけ。
その問いの、疑問の、解消が目的なので。
そもそも、フェチなのだから、だ。
疑問は、ツブシて理解していきたい、だけ。
痒いとこは掻いて、違和感ある感覚を解消させたい、だけ。
自然の側には、もともと対象ブツもなにんも、目的としては置かれてないわけだ。
科分離はもとより、そもそも瞳着してないのである。
修辞学には属するが、<肝心の修辞目的が、哲学にはそもそも、見えてない>。
と言うか、<実務的に、対象に置かれてない>。
これがアリストテレス先生が、あえて修辞学をどうのこうのいわなかった、理由だろう。
相互の<信頼関係が>、演繹できるあんよひもが、しぜんと、フィリアとしてあったのみ、だからだ。
このフィリアに親愛奴隷となってスリスリしての、<フェチ愛が、哲学>なんやから。
対象物を科分類再現して見出して切り分け、奴隷にして。
目的物再現に使う科学の技術とは、まったくの別門となる。
自然、ということの認識が根本から違うのはもちろん。
修辞学や自然学が出会うウーシア(実有?)の認識も、科分離とは基礎から違う。
科分離が扱う自然は、ナチュラ・ナチュランス、あるいはナチュラ・シンプリケースといってもいいのだろう。
これはずっとのちの、中世の用語で、対象ブツ科分離モノだ。
それに対して、アリストテレス先生の自然は、あくまで<心身合一の、自然>フュシス。
このヘラス語の<自然>は、ナチュラルではないし。
絶対にシンプルな名詞ではない。
アリストテレス先生が明言しているこれを無視すれば、哲学の道とはあっさりオサラバになってしまうのだ。
自然(しぜん)、というのは、我が国の古典文法上においても、ヘラスの事情と似ていた。
名詞であったことはない。
副詞というものだった。
つまり、わき役だった。
動詞にくっついてそれを形容する、しぜんな様といった形容であったり、しぜんと思い至る、ふにおちる行動実践のことであったり。
それら(うふぉの)命題を表現補助するための言葉だった。
自然ブツが言われ始めたのは、科学者が世間で普通に認められた明治以降のことだ。
我が国では動詞部分は、しぜんではなく「じねん」、という。
別の動的な<変容物語>の言葉である。
自動に、勝手に動くといった意味でもないので、要注意。
マシーナリー・テクニーク概念とは馴染まない。
ふと見たら、いつのまにか勝手に生えてた、だけ。
常に、物語との関係で、考えてください。
それしか、今日では、「しぜんと」接する手立てが、なくなってる。
自然に対して接するんではなく、しぜんと向こうから親しんできて。
結果として接する。
じねんじょで、勝手に生えたイモの意味で、これは自然に(かってに)生えたイモという名詞。
「しぜんと」、動詞化、副詞化される、その<変容>を考えるしかない。
対象化するには、物語を導入するしかない。
これは、対象認識できる現象みたいな、ファクターもんの把握や、おまへん。
ローマ帝国時代の「神話物語」考え導入すると、わかりやすい。
ヘラスでは、この「変身物語」とも言われるタ・メ・タ・モルフォーゼが延々と続くさまを、「ウーシアにおける神々と巨人の戦い」に例えていた。
火をもらった恩義で巨人側に参戦した人間を、神々がぶっ殺す。
その様は、<あからさま>で、隠されていない。
この<隠されていないこと>をこそ、<自然>、というのである。
オノズト、ゼンタリ、の補助的表現。
脇役だ。
<アリストテレス風の自然学>は、つまり哲学は、だから、<地上の一切の事柄を対象に>する。
天空の秘めた物事、なんぞは相手にしてまへん。
ウーシアは地上の、おいらたちの現実の出来事、なのだ。
見えてる遠い天空の星々も天空のよその世界の出来事ではなく、地上の、(見てる、見えてる、見られてる)自分に直接身近な出来事。
心理学や、天体の動きの不思議さから、神々の振舞の諸々、さらには気象の目に見えぬ風や雨の様や、市井の悲劇に観衆がウソと知ってて泣きわめく様までも、この自然学は相手にする。
物理現象を不思議と感じるのは人で。
天候神が暴れて困惑するのも、演劇見に行って泣きわめくのも、人であるからだ。
人の感性が不思議なんであって、物理現象が不思議なんじゃない。
生き物としての人が関わらんものは、そもそも無関係。
AIが関わる?なんやそれ?
人が関わるのでローマ時代の変容物語(世間的には変身物語とされている)も題材の内だが。
これ、メタモルフォーゼは、後のローマ時代に、神々だけの分離世界だと、おとぎ話だと、人と無縁にされようとした時代に、オヴィディウスという人が書いた神話。
世相反乱、文化クーデターものの文学。
たぶん、自然がモノとなり、科分類され、殺されようとすることへの反乱だった。
自然物を相手に、対象にする学問が自然学、じゃないよ。
ここが間違い。
かくれなきさまの学問が自然学で、同時に修辞学で哲学でもある。
これが学問。
これを間違えると、全部間違う。
生命を持つ、ウーシア(現実世界)に関わる人が、享有倫理持って心身合一で関わるのが、学問。
だから生物学みたいな、機械工学みたいな、へんな<オルガノン>に始まることになる。
カテゴリーを駆使して、人の倫理や更には道徳にも直接、訴えてくるわけだ。
倫理は享有的に、道徳は共有的に。
修辞学の中で自然学が立ち、それが同時に哲学であり学問、なのである。
心身分離の<自然学>。
一方。
科学的合理主義の自然学、というのは、まったくそういういうわけにはいかないようだ。
ハシリの時期は、哲学よりかなり古い。
だが、常に宗教と一体で、しかもひも付きだった。
それを少しずつ脱ぎ棄ててきたのも事実。
しかし。
現代に至って、形而上学を脱ぎ棄てようとして神を殺し、無神論となって虚無主義に陥っているのが現実。
論理学中心の現代科学は、ユダヤ人中心の諸組織が取り仕切る、無神論者集団のものである。
無神論なのに、信仰は手放さないへんなうふぉ連中。
おいらの父親も無神論者だった、自分で公言してた。
まあこの、明治生まれの偉い教育者だった親父がクリヤカワ白村だのニシダ幾多郎だの、いっぱい山のように持ってて。
それ読んで学問世界に迷い込んで、出来そこないのオイラができたわけだが。
現代人は、信仰や信念は持つのに、神がいない。
論理学なる虚無主義を立てて、この手で神を殺めたからだがそれも認めない。
アリストテレス先生の哲学に、この手の傾向があるかというと。
皆無なのである。
アリストテレス先生の哲学は、論理学を使う科学技術ではない、からだ。
ハシリのようなものがあるか、論理学があるかというと。
それも一切ない。
オルガノンは論理学ではない。
純粋数学や倫理学も、じつは、ない。
これらは哲学の前に学ぶことになってるが、哲学とは別門だからだ。
アリストテレス全集には、至るところにそれが、科学の片鱗が見られるのに?
どこにあんねん、あほちゃうか。
心身合一の哲学では、科学の片鱗すら、ありえないはず。
全集や第一哲学に、科学の片鱗のようなものがふんだんに見られるのは、<心身分離の立場で、後世に講義録がすべて書き換えられているがため>である。
哲学者でない、多くの自然学者や修辞学者が関与して、この著作体系をいじり、つくり上げてきたからだ。
アリストテレス先生は心身合一の哲学者なのに。
哲学無視で、加筆してきた自然学者や修辞学者が居たため、なのである。
後の時代には、なんと形而上学者すら参加して、「形而上学は哲学だあ」と叫んでいた。
だから先生の第一哲学は、その後、形而上学になってしまっていた。
おいらの持ってるボロボロの文庫本にも、そう書いてある。
形而上学と、ウソが堂々と書いてある。
これはプラトン享有の「哲学」著作が、共有イデアの「文学」になってしまったと理解されるのと同じ。
アリストテレス全集には、いたるところに、非哲学者による加筆があるのだ。
加筆しないと、心身分離の立場では、科学的に意味が通らんかったからである。
基礎が違うんで誤りにみえてしまう。
だから逆に、アリストテレス全集読む際には、心身合一の哲学でない部分は無視すべきなのである。
これはナチスのハイデガー先生に教えてもらった、実に困難な読み方である。
アリストテレス先生には、そもそも哲学に、科学技術のハシリのような部分は<ない>と、そう断言していい。
実は「学問」という分野にも、(科学技術のハシリのような部分は)ないのでは?
ないと思う。
学問と科学技術は相いれないものだと思うからである。
ウイキのように「アリストテレスの哲学は誤りが多い」とするのが。
じつは心身分離主義者の科学技術者たち、なのである。
心身分離の自然学者の知識学は、確かに科学技術のハシリではあったが。
そのすべてが<宗教家の信仰物語>だった。
世間的信仰みたいな、タ・メ・タ・モルフォーゼではなかった。
彼ら科学技術者たちは哲学者ではなく、ソフィストである。
自然学者が、その中に大勢いたのだ。
心身分離を主張する、合理主義に踊らされてる自然学者たちである。
彼らは、<心と身体を区分できるように一意の信仰を、必ず持って>いた。
信仰というこれが、じつは哲学より古いんだが。
逆に言って、科学技術者に対し心身合一の哲学を持ちなはれ、というのは、ムリな相談なのである。
なぜそう言えるのか。
科学技術者は、信仰に囚われたカルトだから、である。
ハッキリ言う、彼ら選ばれしエリートたちは全員カルト主義者である。
言い替えれば、科学技術が、<合目的な、科分離、再現、技術だ>、からだ。
カルト主義に徹しないと、決して科学できない。
技術という再現目的を持たないと信仰への教義がレ・リジョンできない。
彼らはレ・リジョンへの信仰を、こころに堅固に持っているから、カルトなのだ。
目的に合致させて、こころが一意に統一されてないと、つまり信仰でカルト化してないと、対象を偶像化は、できない。
偶然には表象など、できん。
つまり、知的に瞳着しての対象認識が、できない。
そして科が分離され細分化して分かれてないと、再現素材として個別認識などはできない。
おいらは子供の頃は科学少年に近かったとは思うが、どうしても自分で科学の意味がわからなかった。
それで夏休みの研究発表に「ツマグロヒョウモンの飼育記録」なんてのを出して入選しても、特賞には手が届かなかった。
どこか、県大会のいい成績のみんなと、研究態度がズレてた。
いつもそれ感じてた。
今思うに、再現素材としてレ・リジョンさせようという、<信仰心が欠けていた>のだ。
つまり合理化技術への態度が、いいかげんだったと言える。
科学的技術の「技術」の意味はテクネーではない、んで、ここも、要注意点なのである。
マシーナリー・テクニークの意味なんだが。
その、基礎にあるのは、もちろん、こころ。
心身一体のはず、のものなんやが。
科学的態度とは、レリジョンに特化した、へんな<科分離したこころ>なのだ。
人のこころを、科学技術は、むりやり引き裂いて、チョン切るのだ。
これがサイエンスする、ということ。
生きたまま解剖する。
これ、やらなければ科学技術に、ならない。
だから、オイラはそれ、十分できてなかった、と言える。
生き物はいっぱい殺してたが、生体解剖はあんまり好きじゃなかった。
できてれば生物学者になれただろう。
サイエンスの語源は、ラテン語の、<スキエンチア>である。
はさみでチョンと、ちょん切ること。
チョン切って殺して細分化し知識にして、惜しみなく奪うためのもの。
そのための科学技術、なのだ。
こころに、魂のもとに、光の名でもって奪いつくす。
微細な科に切り分け分類して、素材仕立てて再現する、そのためだ。
科学分類するのは、必ず<再現が目的>なのである。
目的が先導する。
つまりレ・リジョン。
再度、理念へと結合させる、その目的を持つ。
それが宗教である。
知力がそれを担い、捻じ曲げ、切り分け、自然を<素材化>する。
この設計図は、こころに焼き付けられてある。
つまり魂に瞳着させうる。
これは、なんとテクネー(心構え)の、権能知識部分なのだ。
これのみが奴隷化されて、取り出され使われている。
心身合一の学問だと、こういった知的な瞳着は、おこらないというか。
むりだろう。
これをやるのは(建前では虚無主義の)論理がやるのだ。
実際には、カテゴリーから自由にされた数学が(神不在、倫理不在のまま)投入され、使われる。
カテゴリーの制限無視で、じっさいにやれてる。
(享有の)倫理を理解できない人たちがやる。
カテゴリーの倫理的束縛を解き放って、オッカムのあのカテゴリー捨てるメタバシス暴挙で。
数学は自在に科学で使えるようになり。
大量殺人道具の原爆が、できたのである。
原爆・水爆作った連中は「本物の悪魔」である。
数十万人を焼き殺した現実の悪魔たち。
これが認識できない人が今でも多い。
享有を理解できない、倫理について足がかりすら得ることのできない人も大勢いいる。 科学技術で悪魔が呼び出されて、何十万もの人を焼き殺したのに、なんと認識できてない。
(虚無主義の)論理が導き、感性を奴隷にして道具的に使って。
(カント先生の)純粋悟性概念の図式が、瞳着させられて、カテゴリーは権能にバラされて、単独で従属的に絡んだ、のである。
倫理を理解できない人に、カテゴリーの意味をぶっ壊されて。
カテゴリーは排除されていても。
つまりカテゴリー本来の権能は知りぞけられていても、その範疇的な働きのみが、科分離で見えてるわけなんだが。
見る、写す、インスタンスコピーの権能に特化させられ。
それが知識として働かされて、使われる。
瞳着させ。
知識にして、科分類のファクターに分け。
これで、科分類した個別のファクターの、再現を目指したのである。
目的に合致するナチュラルな素材こそが、求められる。
これを帰納させれば、目的達成となる。
ファクターはファクトウムとなる。
これで「合目的技術達成」、レ・リジョンが完成したというわけだ。
知的に、瞳着優先でのみ、試験を経て、企画の物事がすすみ。
テクネーの権能はここで、瞳着のための奴隷と化したのである。
これらは文学でないのはもちろん、そもそも学問ではないのである。
あえて言うなら「神話の実践的再現」仮想時空だ。
今日的な意味での(製作)技術のさま、なのであるが。
<科学技術の要点>を、オイラ神話的に述べてるつもりである。
現代の科学技術は学問に背乗りして、数学とほとんど一体化してる。
だがそもそも、数学などの学問理論ではないし。
利用してるだけだ。
理論体系の学問でもない。
数学や哲学に背乗りして学問という権威を奪い、形而上学的に学や問いを利用できてる、だけだ。
(ここに形而上学が利用された経緯もある)
これらが完璧な修辞学ではない、から利用可能なのだ。
修辞要素を持つ、科分離された技術体系にすぎない。
だから、これを修正して一部を合一に戻し。
<科学哲学>なる修辞学を立てようとしたようだが。
モトが学問、エピステーメー・テオレーチーケーではないので、無理だ。
<自然哲学>なるものも、同様なのである。
モトが知識では、話にならん。
そんな、どうでもよい些細な事情はさておいて、この節の結論のほうを述べたい。
心身合一の自然学は「哲学」であるが。
それと異なる、心身分離の自然学は「科学」であり。
アリストテレス先生の自然学は、前者の方、哲学なのである。
前者のみ。
つまりアリストテレス先生の自然学は、科学ではない。
後者はまた科学技術と、正しく「技術」を付けて呼ばれることが多いように。
<マシーナリー・テクニーク>が、その本質なのである。
これもハイデガー先生が明白に述べていたこと。
これらはアリストテレス先生の時代の、テクネーでは、ないのである。
テクネー自体が、ぜんぜんちがうものを指すのだ。
今日では、学問であることすら、そこから遠ざけたテクノロジー、と呼ばれることが一般的になってきたが。
テクネー・ロジックという、その言葉でわかるが。
科学よりテクノロジーのそっちが、テクネーに若干近いようだ。
但しロジックという虚無主義なので厄介なのだ。
現実は、科学技術が実現した現代技術が世間を支配しているのではなくて。
テクノロジーが生んだ魔法の数々が、オイラたちを脅かしてる現状がある。
現代はそんな過渡期の時代、なのである。
テクネー(心構え的な実践術)と、現代技術やテクノロジーの違いがわかるだろうか。
次回はここらあたりから、もっとフィシカを掘り下げていってみたい。