<テクネ->
アリストテレス先生の自然学は、対象認識する客観素材を科分類した技術学とは異なる。
技術学ではないんだから、その学問は「機械的技術学」とはならない。
まったく基礎が異なってくる。
つまりアリストテレス先生の自然学は、哲学となったわけだ。
<享有する無知の知>と、<共有する講義録>という、師ー弟子間の対話禄となっていた。
それの理解には、先生のテクネー(心構え的、理論・実践術)と。
科学がやる、技術(マシーナリー・テクニーク)の。
この両者の違い、差異性の認識が必要。
これをきっちり押さえることこそが、まず重要である。
先生の第一哲学の第1巻、第一章の表題から、つまり対話禄のしょっぱなのハナから、この問題は出されてきている。
テクネー問題は、哲学で最も重要かつ基本的な論議、なのだ。
そのことをまず認識されたい。
「すべての人は知りたがる。人の知ることは感覚から始まり、記憶、経験知、テクネーを経て知恵となる」。
逆に言うなら、テクネーなしには知恵とならん、わけだ。
「知恵(ソフィア)の学は、第一の原因や原理を論議対象にする棟梁的な学である」。
「テクネーが、棟梁的な指揮者の学である」といったことも先生は書いているが、そのことに問題はほとんどないだろう。
問題は、ここにでてくる「知恵」と「原因」、そして「原理」であり、さらには「対象」把握、といった用語が不審なんである。
原因、という訳なんぞも、じつは若干怪しいのだ。
なんしか先生の場合は、科に細分化した要素ではなく、すべてが一体の<心身合一の演繹的思惟のはず>だから、なんである。
もとの合一があって、そこへと戻る方途が、各用語に演繹で示されていなければならない。
つまり原理へと演繹できそうに思える、という、このことだ。
知恵や原因がある、この「ある」というのは。
戻る方途が、演繹で示される、ということ。
だからこの「原因」は、やはり原因と言うより、原理となるべき修辞問題を控えたものだから<因素>に見える。
しかし分離した原因因子というより、つながった「理由」に近い。
言い訳的な意味合いなのだ。
目的を見据えての仮説立てての帰納的思惟なんぞ、先生はやってないはずなのだし。
演繹的に、より感覚に身近な初源へと、思惟が導かれていなくては、意味がない。
知ることは、感覚から始まるからだ。
その感覚の<理由>こそが、導かれなくてはならない。
<知恵>は、だから。
(心身一体の)、つまり人の<感覚からできている>と言える。
見て観察することも絡むのだが、おおモトは享有「感覚」なのである。
共有の感覚命題ではなく、<享有>ブツが問題。
科学的に考えたら電気振動みたいなもんかもしれんが。
プロテスタントが言う、質量ゼロの光ではない。
むしろ質料へと、導かれるモノ。
(認識の)光が感覚生むんではないし。
生まれた認識後の知識が使う、明暗の差異性にすぎない。
これを、物理学者が勝手に光だと言ってるだけだ。
つまり時間・空間を無視して、言ってるだけだ。
時間・空間をもひっくるめて、言おうとした悪魔がアインシュタイン。
そういった科学的な認識ではなく。
おいらたちの<感覚というのが時間と空間>ということの哲学認識が要る。
数学的次元じゃなくて、心身一体の手引きのあんよひもモノが必要。
それが学問、ということ。
ましてや、宇宙の真理や神の永遠などとは無縁なものが「人の(時間・空間)感覚」なのだ。
共有物であるように見えて、じつは享有ブツなのである。
おいらだけの(うふぉ)もの。
知恵も知識も、人の側の享有のものである。
それを無理やり共有認識させているだけだ。
共有してある内なる(享有)認識じゃないし、外部から来る阿弥陀如来の光の知恵でもない。
宗教関係は一切ない。
そもそも知識・理解には、光ルシファーの瞳着的インスタンスコピーなんて、いらないんでは?
論理も宗教も脱ぎ捨てていいんでは?
自分で、対象化把握した感覚ものを、ぶっ壊していってみれば自分で理解できる。
そうやって、経験で得た共有知の織物を手放していけば。
そうすれば少しずつ(じぶんに=享有に)解ってくる、だけでは?
これが学問の本質なんでは?
記憶や経験知であるテクネーは。
その「感覚に奉仕し知恵へと導く」重要な黒子的立場なのである。
テクネーは人の享有感覚に奉仕するが。
同時にソフィアという共有の知恵にも使えてはいる。
奉仕人的棟梁、なのである。
しかし、それが棟梁となって、施主に指図や命令を出していては、<ならない>のである。
むしろ常に、施主には演繹へと導く、<黒子役の棟梁だ>ということ。
つまり、<ネガチブな、見えてないものだ>ということ。
ところが今日の技術は。
マシーナリー・テクニークは。
これをポシティブなもののみに共有化して仕立ててしまったように感じる。
<目的>を明確に打ち出しているがゆえに、客観的合理化や中間省略がなされて。
人の感覚には、もはや奉仕しなくなっている。
施主ではなく、目的への奉仕者となっているのである。
認識は感覚方向に向くのではなく、それは無視して。
しかも本人が立たずに、中性的な、客観的な、<表象>が立つ。
表象された代理人の図式や数式が、身体や統覚に、直接指図や命令をするのだ。
図式的に作用する。
図式や数式を代理人に仕立てるために、そのために、表象が立たされているというへんな事態なのだ。
それら表象の力は、棟梁として振る舞うどころか、オーナーをも支配にかかる。
この<表象>という言葉が問題児なのだが。
これはここではおいといて、<次節>で述べたい。
設計図や、手を加える時間手順、空間看取り図が、ここに提供される、のだが。
この表象という言葉が重要人物として立ったばかりに。
その手順や看取り図の、もとの<目的が、主人代理と>なってしまっている。
つまりテクネーが心身合一の演繹的思惟ではなくなってしまってる、から、そうなってしまっている、と、おいら言いたいのだ。
この事情を導く理由が。
まずテクネーという言葉の<解釈間違い>にあった、と思う。
そこから、すべてが来ているようだ。
ローマ帝国の英知は、このテクネーを、<技術>と訳した。
そのことで、テクネーは心身合一のものではなくなり。
関連のすべてがアリストテレス先生のもとを去り、心身分離してしまっていくのだ。
その心身分離のおかげで、科学が成立できた、と思うのである。
しかし同時に。
ここで働いていた構想力の棟梁のほうは、目的の表象に奉仕する代理人に過ぎなくなったのだ。
心身分離して、科学的に「技術」を、<(隠した陰謀)目的にあわせて使おう>としている。
それが現代のオイラたち。
陰謀論がここに隠れている。
それはアリストテレス先生の意図する学問の道ではない、のだ。
学び、マネして問い、道を作る、その意味がなくなってしまっているからだ。
フィリアの親愛を見失ってしまっている。
知恵は、感覚からできているのであるから。
分離して途切れたはずの、時間手順や空間への、演繹可能な看取り図を常に持つ。
つまり図式的に働く力なんぞではない、はず、なのだ。
おいら、ここで構想力の事を述べているが、迷子の構想力の事ではない。
むしろ図式全体が、感性のモトのこころをこそ示すものだった、はず。
カント先生の理念においても、純粋悟性概念の図式(シェーマ)は、カテゴリーに属していた。
こころをこそ、示していた。
しかしおいらたちの今日的世間常識技術では。
テクネーが技術となることで、規制者のカテゴリーも見えなく、させられた。
メタバシスにカテゴリーからちょんぎられてしまった。
今は、演繹先を無視された盲目の図式が、ここの棟梁となっているわけだ。
こころが目的によって切り離され。
みえてないもんが、未知のナニカが勝手に、人の感性を導こうとする。
それを、その閉じ込める力のバクハツを、芸術だと言ってる有様なのだ。
へんな彫刻家が述べたこの説、オイラ大嫌いだ。
目の見えない図式が魔法陣立てている。
時間手順や空間看取り図を目的提供してしまっている、のだ。
これは心身分離認識で生じたこと。
テクネーの誤解、誤訳事態の結果、生じたこと。
その結末の、今日的有様、なのである。
ナチスのハイデガー先生なんかも、このテクネーの誤解には気が付いてて警告していた。
これを、テクネーを、「機械技術・マシーナリーテクニーク」ではなく、<クンスト>、と独自のドイツ語に訳していた。
クンストは、技能的意味に加え、若干、集団技芸的な意味相もあるらしい。
徒弟制度として西洋の社会制度に受け継がれるもの。
共有の、<心構えを含んだ>言葉なのだ。
但し西洋のこれは「共有用語」なのであるが。
心構えは享有のもののはずだ。
テクネーは「享有用語」として理解されなければ、心身一体とはならない。
ハイデガー先生の訳本も、心身分離主義者の翻訳が多いので、要注意なのだ。
心身合一の立場からの、自然学の第一哲学の筆頭に出てくるのは、このテクネ-論議である。
心身合一の立場で、この論議を正しく身構えさせる。
そのことが哲学への第一歩となる、最初の意気込み。
アリストテレス先生は、テクネー論議を、あらゆる論議の真っ先に立てた。
なのに。
これが誤解されてたんでは話にならんのである。
歴史は訂正されねばならない。
おいら、ここで西洋の基礎はローマ時代から誤った道をつけた、と言っているんである。
「技術」と訳すのは、明白なアリストテレス解釈間違いである。
アリストテレス先生にはありえん、心身分離の立場の、死んだ言葉なのだ。
時間手順、空間看取り図といった意味をも含む、つまり感性の意味をも含む、心身合一の立場での、正しいテクネー訳が必要である。
これは、まったく別の言葉となるべきである。
それは享有の方から、感覚的に思惟されるので。
心構え的なクンスト(技芸)の術であるはずなのだ。
但し技芸は「享有」のものでもなければならない。
クンストでは技芸的過ぎるし、共有に特化して解釈されてしまう危険がある。
なので、アリストテレス先生の意図から遠ざかってしまう場合も起こると思う。
だから、おいらはこれを簡略化して、より日本的に、<心構え>としてきた。
ハイデガー先生も、クンストを、そういった意味合いで使ってるんだ、とオイラ思う。
<ココロガマエ>は、共有論議もできるかも、だが。
本来は、個人享有の言葉である、からだ。
これを精神主義に解してはならない。
心構えは身体と精神の合一をもくろむ形式である。
テクネーは以後、<心構え>と訳すべし。
技術、にもその意味合いは微妙にあるが、断じて(共有)技術ではない。
次に<(論理的)瞳着ではなく、瞳心>について。
アリストテレス先生は、見ることの認知の優先を語っている。
だが。
これも心身合一の立場からの「視覚」についての言葉のはず。
感覚と一体で、享有の実在として述べているはず、の言葉なのである。
見るという権能のみ分離して、科学をやってるんじゃないのである。
修辞者・訳者がことごとく、科学のハシリをやってるつもりで訳してる。
だからおかしくなるが、これらに引きずられてはならない。
先生は、最も好まれる親愛フィリアの、享有・共有された感覚を、心身一体に向けて演繹する。
見るという、享有<感覚から、演繹すべき何か>を探って、親しい者に共有対話提供している、と考えるべきなのである。
決して、見るという<権能の力>を探っているのではない。
ましてや、知能の本質を科分離しているのではない。
ここでも、・・・でない、というネガチブな思惟のみが、重要な役割を果たす。
見ることの、認知の<感覚を、心身合一で>示している、のがアリストテレス先生。
演繹先を手繰って、共有論議にして、見せてくれている。
先生は講義している、だけなのだが。
それを聞く自分の、感覚とのつながり、これを決して忘れてはいけない、ということ。
先生はオイラの先生みたいに、自分を忘れて無我夢中になってない。
無我夢中になって享有忘れると、教壇のアナボコに嵌る。
講義に熱中するあまり、荒れた教壇の小さなアナボコにコケてた三村先生を思い出す。
もう半世紀も前の頃の話だ。
享有を忘れたら、これも間違う。
そこでネガチブな思惟を無視したら、もう事態の表裏すら見えなくなる。
オイラの先生は身をもって、思惟に没頭することの危険を教えてくれていたんやが。
実際、目の見えない人でも、心眼で見て見られて生きることができる。
共有理解さえあれば、普通の人として世間で生きていくこともできる。
海のタコなんて特に、目だけでなく足で見もし、かつ考えてるらしい、という。
だからここで述べられているのは。
視覚のことだが、瞳着などと言った論理ものや、器官の権能、などでもないのだ。
アリストテレス先生の生体のオルガノンは、そもそも、器官の機械的権能ではない、のだ。
つまりここ、論理的瞳着的視覚解釈では。
科学に分離された「知力」単独のことを述べているのでは・・・ない、のである。
ましてや図式、数式の代理した、表象的言語的権能なんぞでも、ない。
むしろ「言霊」のような心眼ものを、ここでも考えて導入するべきだろう。
純粋へと特化した、瞳着という知の論理言葉ではなく。
心眼による差異認識に近い、しかし親しみのもの・・・を考えるべきだろう。
ムリヤリ「瞳心」ひとみごころ、はどうか。
これは若干ムリかも、とも思うとったんやが、ほかに考えつかんので。
オイラの新造語三号にしたい。
(1号が論理学の撞着を瞳着と、知に特化して変えたことだった)。
(2号が、テクネーを心構えと読んだこと)。
じつは、ほかにもカテゴリーの意味や、倫理の意味、フィリアの解釈など無数にあるが、そっちはオイラが訳したわけじゃない。
指摘してくれてる先達がいる。
見る英知ごとは、同時に、見られるものの感性ごと(これはデカルト)。
でもあるし。
視覚への心構えは、今日の科分離にどっぷり馴染んだオイラたちには、本当に難しい。 反省を伴う、困難な有様だ。
アリストテレス先生は、こういう。
(瞳心で見ることは)「物事を認知させ、様々な差別の様相を(こそ)明らかにする」。
差別認識のモトは、<瞳心>なんである。
差別を見出すための、(感性)認識の、もとのものなんだ、というのだが。
見ることが瞳着させる、と考えるのは一面的。
つまり、そこで働いてる「論理」を考えてるんじゃなくて。
差別の様相が、むしろ一心同体で見せている、見ることは見られること、とも考えるべき。
その<瞳心>の、心構えのことを言っているのである。
オイラたちの知的な認識力と思われている科部分の事を述べている。
明らかになるよう区分する、それがゆえの瞳心(ひとみごころ)で見ることの優先だ、というのである。
心眼利用が、使うには便利かもしれんが。
見る心は単に主体者ではなく、引きずられるモノでもあるので。
目の権能表に出すより、やはり瞳心とするのが、落ちつかせるのが、座りがいいように感じた。
つまり<見ることの認知>というのは、今日、科学的に言うなら。
対象認識するなら、こうなる。
ある波長での光を切り出して感知し、<知的>な物事として、差別実態の様相を探ること、だ。
科学ではしかし、差別が、感覚とは切り離されて<知的に特化>してしまう傾向にある。
論理的に言うなら、<瞳着>してしまう、のである。
つまりメ、が、<未知の神々の力と化してしまう>のだ。
実際にシュメール語のメは、現代訳には、そう解釈されてしまっている。
メ、の持つシュメール語本来の意味を享有理解しないために、共有的にも受け取れなくなってしまっているのである。
科学的風に見た、切り取られた言語学的解釈がなされてしまっている。
科学では、エネルゲイアが、一意に操れる対象であるかのように思ってしまうので。
これは実はエンペドクレスの魔術の世界、なのだ。
アリストテレス先生の世界では、エネルゲイア(感覚)は、必ずエイドス(形容感覚)でもある。
切り離せない。
心身一体の言葉なのだ。
それが<学問的一意の意味>でもあるはず。
科学では、エネルゲイア処理<目的>のため。
振動という、<一意に見立てての>エイドス(形容)処理を、スキエチア処理を行おうとする。
エイドスもエネルゲイアも、心身一体の同じものなんだが。
科分離して考ええるので、<目的が、主人公になって立って>しまう。
エイドス・エネルゲイア的な波長的関与による、実は目的持った再現の行為に、なりきってしまう。
これらの科学的とみなされてる、今日の常識が厄介なのだ。
これらから竿さして、潰していかんならん、と思うわけだ。
「瞳着」ではないんや、<瞳心>、ひとみごころなんやと。
技術ではないんや、心構えなんやと。
聞くことや触れることでも、あるいは客観的に計測することでも、等しく「瞳心」は働く。
感覚も、計測も、同じ<感性もの>だからである。
今日ではメタバシスやって客観から感性追放したがってるが、ムリだ。
科学でも、誤謬を質そうと言う動きはあるので。
感性ものという、<認識の導入もある>ようには、なってきた。
ナチス(積極的キリスト教)が、なんで、感性側にへんに傾いていながら科学技術が異常に進んでたのか。
それが理解できるようにはなってきた。
人が見ることや聞くこと、機械が見えない電波や放射線で探る事も、同じ波長読み取り、とみなされるようにはなってきたが。
未だ、「波長」と言う誤認瞳着がある。
その科分類学の基礎に、デジタルな命題が座ってしまって、主導権にぎってしまっている。
科学、ということの意味が、少しは明るくなってきただろうか?
アリストテレス先生は、科学してたんでは、おまへんよ。
ここでの、見ること重視へと誘導の目的は、物事の差別の様相を確認すること。
科学者の目的がここに図式的にある。
つまり科学の目的は。
その<差異性>を(感覚で)認識すること、にあることを知らしめ。
優生学的に選び出す、差異への瞳着がもたらすもの。
そういった科分離強調、ではあかんよ、とアリストテレス先生は言っているわけだ。
差異性は、特権認識して選ばれし棟梁が他の者差別するため、のものじゃない。
但しというか、だから、というか、科学ではチョン切られたものを回復しようと図ってドツボにはまっていくわけだ。。
瞳着でなく、<瞳心(ひとみごころ)>で認識する、そのことにのみフィリアとのつながりがあるのだが。
そのことが、瞳着によって忘れ去られてしまうのである。
目的に瞳着して、認識がくっついてしまう、のだ。
目的がなければ、虚無が入り込んで居座ってしまうから、そうなるのだ。
差別がどうしても、表に出てしまい、特権を主張せざるを得なくなる。
あんたら選ばれたエリートは、モノ作ったりウシ飼ったりする人とは違うんや、と言わなならんなる。
果ては差別が瞳着を導き。
目的が主人化して、本人の意図とは別に命令してしまう、のである。
悪魔的な差別が生まれるのだ。
しかも瞳心は主人ではなく、ここでもわき役にすぎないのであるから。
人の認知力自体が、常に脇役、ということになってしまう。
悪魔的な力が見えてしまう。
そうではない。
スリスリさせるご主人様は、<享有感覚>なのである。