前節のエネルゲイア(感覚)は先走りすぎで、エネルゲイア(力関係=感覚)と訂正。
<ファンタシア>
この節ではフアンタシアという、極度に基礎的な用語について論議したい。
普通は<表象>と訳される言葉。
実は疑問だらけ。
表象を見出すことは、差別の様相を探る学問行為なのだが。
じつはエロース的なエネルゲイアも働いている。
エネルゲイア(エネルガイア?)は単に力と訳されるが、これは科学的な見方なのでダメだ。
むしろこれはアリストテレス先生の場合、感覚的な意味相なのである。
恋着行為の一部だとも、みなせるということ。
フィリアにあるはずの、親しみ愛へのスリスリものが哲学なんだが。
科学しての歴史的解釈も一応は可能に見える、ということでもあるがそれはダメ。
恩寵のモトに「ある」、知的な「それ」、が、(目的絡みの)恋着行為のモトだともみなしているからダメなのだ。
瞳着して歴史解釈してしまうので、そこに目的ブツがある、かのように見えてしまうということ。
親しみ愛は、この目的であるかのように見えているブツを、ぶっ壊すほうのもの。
そうやって瞳心(ひとみごころ)へと「演繹すること」、にある。
それが、その出どころを確認するためにやってる演繹が、(宗教者の言う)恩寵のことなんだが。
これを科にバラセば。
<実践の時空からきた、(とある)現実もの>とも、みなしうるのである。
だめなものだ。
つまりこれは、ユダヤ人の好きな目的絡みの、<共有の現実・モノ>となるのだ。
対象を定め、暦化して歴史にして、描き出せる、ということ。
現実を一意に見る、<表象する>、そこでは。
感性を導く「目的」こそが先導者として立っている。
スリスリ者は見失われて、表の象のみが立つ。
見る英知は、見られている(現実の)感覚とともにあるはずなのだが。
人の一意な英知下では、見られる自分自身は、ほとんど見えてない。
表の象だけが立つから、だ。
そういうことになる、のだ。
特に、脱存して反省しないことには、見られる<自分自身=享有>は、まったくわからなくなる。
これはファクトウムの出来事。
ファクターが集まって起こしたんじゃなく。
事実に、信仰で<瞳着>した、そのことが起こした出来事。
<瞳着>という、そのために起きた新事態だ。
信仰のもとでは、見る側にある享有ものが観察されなくなる、のだ。
むしろ<見る者>という<享有者>は、ここで同時に見られるものであることのうちに消える、と言っていい。
(虚無の)瞳着が、<表象>になりきって(化けて)いるからだ。
瞳着では(虚無の)論理が介在し、対象ブツそのものが表象そのものになりきってしまうので。
その、見る者と見られる者が<実は一体であることの事実が>、まったく見えなくなるのだ。
自分自身を知ろうとしない学問など、ないはずだ、と思うかも知れないが。
実は、精密・厳密志向の現代の科学技術には、この特徴がある。
<汝自身を、まったく知ろうとはしてない>。
<表象>一辺倒なのである。
背後の時空を気にしない問題も起きてくる。
背後の時空は、なんと環境に成り下がるのだ。
さらに、時空と言うへんなものを引きずる汝自身を知る、その意図すらもないときているのだ。
すべて、信仰があるから起きた出来事。
絶対の信仰が、知恵のモトで、しかも堅固にあるので。
神もウーシア世界も、科学する自分自身をも、一切構わない。
享有を問おうとはしない、のである。
それどころか、英知的認識行為において享有はない、とはっきり彼ら科学者は言う。
人の世には共有(組織)があるのみ、と。
じっさいに英知的認識行為に享有は要らない。
瞳着して認識(瞳着にあたる)・再現(レ・リジョンにあたる)すればそれでよい。
AIがやってのける。
この認識・再現にあたるのがファンタシアという言葉なんだが。
今しばらく、前置きに付き合ってくだされ。
学問はしかし「汝自身を知れ」なのである。
そんなことを許さない。
そのはず、なんだが。
今はその学問なるもんが、別門立てて科学となって認識・再現を取り仕切ろうとする。 科に分類して、そこで対象に選んだそのものに注視するのみ、なのである。
人は退いてAIにまで任せようとする。
但し、真似し(ミ・メー・シス)は重要な要素だ。
形而上に究極まで問い立てる、そのこともやる、場合がある。
なので、それらにだまされる。
形而上学的問いなどが、まさにこれにあたっていた。
学問、哲学だと思われていた。
見る者の「心理」を深く観察し、そこにある見られている(見えてない心理、たとえばフロイト)すら見出す。
対象の全体分母となる「宇宙論」を立て、英知に働く「神の力」を探る。
しかしデカルトやカント先生の努力で。
形而上学的問いである、心理学・宇宙論・神学の究極への問いは、オイラたち有限な感性には荷が重いことがわかってきた。
形而上学的問いのは、その問いの先験的誤謬をもたらすこと、になる、のだ。
勝手に目的が入り込んで仕立てた原理原則を、見るものと見られる者のここに、うふぉ代入してしまってんだとわかってきた。
それを、じつは科学やろうとしてんだ、とハッキリ言う人はいないが。
オイラは言ってもいいんじゃないか、と思う。
それを別の目的で、「科学の基礎の錬金術に過ぎんのだ」、と言う軽薄な詐欺師の人も居る。
科学の基礎は、まさに形而上学なのである。
錬金術だと言うのは、詐欺師の言うウソである。
さらに共有に特化するため、瞳着に特化し、論理学ともなった。
虚無主義とはなってしまったが。
共有の組織化で乗り切りたいと、あがいている。
知力の技術学には、陰謀の諸組織ができてしまっていて。
その組織が、信頼できないこともわかってきたのだが。
組織が学問を取り仕切っているのは事実。
それは学問が、享有を失って哲学であることをやめ、言わば学問を捨てて、組織の科学になり下がってしまってるからである、とオイラは言いたい。
成りあがってんじゃない。
増長して、悪魔の配下に入っている。
原爆作ったんが証拠だ。
哲学では逆に、学問行為の<モト(アルケー)>が超重要なんだが。
これはハッキリしないんである。
それに対しつい科学的に問うので見えんなる。
人の知りたがり理由が、<(享有)感覚>にあるんだ、とするからだ。
これが、感覚が。
<演繹>するということの、モトの心構えの<理由>、アルケーであり。
感覚の享有・理解のモトなんだ、ということでもあるんやが。
原理・原則も、此処に現実があるのだから、あるはず、だとする。
ほんとうは、ないのかもしれんのに。
アリストテレス先生は、この享有・共有も一体の、<きょうゆう>哲学。
なので難しいが。
それでもって。
<享有・共有も一体のきょうゆうでもって>初めて、哲学という学問になっている。
立てた目的の投機的予定先が、未来にあるんじゃなくて。
どこにもないかもしれんのに?。
享有さえ見出せば、あるはず、というのはわかる、はず。
ナチスのハイデガー先生はこれを、ある、を「未だなく、すでにない」、という言い方してたが。
先生は、哲学の享有をちゃんとハナから、学問として見出してた。
信仰としても見出していたし、堅固だった。
特に先生は感性重視の<積極的キリスト教徒=ナチス>なので。
時間も空間も哲学的問いには見出せずとも、さらに自分の乗ってる論理学を見失っても、動揺することなどはなかった。
ライプニッツを退治して論理破綻した哲学の終焉後(先生の哲学は徹底してヘーゲル哲学なので破綻した)は。
素朴な存在への思惟がある、とすれば、それでよかった。
だから未だない、すでにない、を未来に持ってきたい、未来志向なのが今日のサイバネチクス科学だが。
これは哲学の考える学問のアルケーとは真逆の別門。
哲学という学問が考える原因のモトのアルケーは、その理由は。
過去の「親しみ愛」的フェチ行為にこそあったわけだ、とするのが学問のはず。
未来志向の米国主導のコレは、過去指向の哲学とは真逆なのである。
未来志向のサイバネチクス科学などと伝統の学問は、時空接点すら、ないのがわかるだろうか。
未来志向のもんは、学問ではなく、ナニカ別の、未知の目的への技術工学なのだ。
テクネーの解釈が間違っているし、共有組織だけでできている。
学問(存在は)はすでになく未だないが。
実は過去にこそ、あったんでは?。
あったからこそ、出来たし、それを基礎利用したがった修辞学の人々が群がっていた。
テクネーもファンタシアも解釈間違えて、それが基礎利用されたのである。
過去に由来する。
知識確保にあるんじゃなくて、得た過去知識の破壊・解体理解・解消(カタルーシス)にこそ、学問はあるから、間違えてくるのだ。
学問は破壊して、人生終わって初めて、すべてが解る、そのようになってる。
今、おいらは初めてわかりかけている。
だから、真逆に、それを認識・再現して技術利用できると考えた詩人がいたのだ。
詩人は学問を殺した。
これが、詩人に殺される学問(哲学)、ということの本質だと思う。
哲学は、享有で解る事だが真逆に、殺して共有で技術利用できる。
もちろんアリストテレス先生は、そんなことは、ここ(第一哲学)のはじめなんで、正面からは一切言うとりまへんが。
感覚の享有から、共有論議に持ち出してるのは、そのこと。
ポイエシス的発想。
もちろん心構えの詩的利用を考えているんであって、マシーナリーテクニークを考えてんじゃない。
享有は、まるで無知な子供であるはず。
なのに。
女王様のクツに、ハナからスリスリと恋着してる。
差異確認を通じての、差別の再確認を、じつはやってんのだ。
科学の始原もここにはあるのだ。
形而上学的な問や、永遠で未知なる力への誤謬信仰などとは無縁な、差別のテーマが、ここにある。
(心理学・宇宙論・神学などの問いは、形而上学)
(先生のエンテレケイア論議などは、あからさまな十全英知のウソごとなので、形而上学的問いとは若干違う)
科学がその基礎とした形而上学的な未知への問や、永遠で未知なる力への誤謬信仰などとは、無縁な。
見出した差別のテーマ。
これは科学のテーマなのだ。
じつは無縁のそれで科学が見出した知を差別して、哲学という別の学問になってる。
それが、たとえば差別が、視覚という感覚ものの原因というか、存在理由でもあるはずなのだ。
これの別名を<原理や原則>と言う。
原理や原則が、科学でも哲学でも利用される所以である。
学問、ということに、どこか差別への、先験的な恋着認識があるのだ。
瞳着的認識といってもいい。
科学はこれを将来的なものと誤認してしまうが。
ほんとうは、すでにない過去のものなのだ。
そういった<ようなこと>をアリストテレス先生は言ってるはずなのだが。
はっきりとは言ってない。
そこで働く瞳心が見ている、<知力>というものは。
瞳着した一過性の、その場限りのものではなくて。
<理由あるもの>なのである、ぜんぶ過去があるんだ、と言ってる。
これを聞き逃してはならんと思うんだが。
科学はわざ(技術優先)と聞き逃して。
将来(隠した目的)へと、利用するのみだ。
蘇民将来なんやから。
なので、学問世界と科学は別門となった。
アリストテレス先生は、ここで学問や哲学について述べているのであり。
科学の方途への門は、一切気にしてない。
「原理」や「原則」と言った、論理用語から逆に騙されていては、いけない。
ローマ帝国がそちらへ動き、西洋がこぞって追随したのは事実である。
だが、それで正しかったわけではない。
ハッキリ言いたい。
間違っていた。
彼らはヘラスを殺し、学問を奪った。
間違ていた基礎の歴史だから、あえて正しく読むべきなのである。
先生の自然学(哲学)では、ここで「動物一般」が登場する。
科分離された動物一般ではなく。
さらに「記憶力」や「音」を聞く能、としても語られる、のである。
しかし先生が語りたいのは、科学観察し見出した動物一般の<能ではない>ん、である。
<人の、エンペイリア(経験)、という仮想ものの、原理原則の立つ時空>のほうを語りたい意図が見え見え。
つまり生まれるファンタシアのほうに注目しているのだ。
エンペイリア持ち出したいんやな、というこれは、誰でもわかるだろう。
だがここの部分の記述は、かなりいじられてる様子があり、若干怪しい論議もでてくる。
先生は、生物の持つ能を科学しているのではない。
知力の力を語りたい、利用したいわけではないから、なのである。
語りたいのは感覚、その形容。
経験という、先験的に(過去の感性に)見出したナニカを見据え。
理解したい、ぶっ壊し理解したい。
つまりソフィアへの親愛を確かめたい、それだけなのだ。
科学したい、のように、意味を再現利用したい、わけじゃない。
過去においら、この手の認識違い、してた。
経験が浅かった。
その、経験のモトとなるのが。
瞳心で見た、<ファンタシア>や<記憶>だと先生は言ってる。
やっと論議相手が出てきました。
しかしファンタシアや記憶を、科分離して論議したいんじゃなく。
一体のモノとして。
オルガノンや倫理のものとして<哲学論議に載せたい>だけ、なのである。
科学的に考えるのは、大間違い。
目的があってやってんじゃなく、スリスリして差別確認して原理原則に戻したい。
記憶は、プラトンでもしつこく論議されているので、この訳のままでいきたい。
ファンタシアや記憶は、動物一般にみられるが。
(動物が)「経験を具有するのは稀だ」とする、これは先生の観察的憶見だろうか?
加筆が考えられ、かなり疑わしいと思う。
が、そんなオクケンなんてのもどうでもよくて。
先生は、<経験>という用語命題をここで取り出し、ディアレクチーク論議に載せたいんであるということが重要。
命題にこだわってんじゃない、のである。
「命題に拘ってはならない」。
(アリストテレス先生の言った戒めのこれ、結構遵守困難)
心身同体なのに、命題中に特定の用語にして取り出すって、本当に大変というか。
ほとんどムリやな、とも思う。
だんぜん、科学的手法に軍配が上がる。
当然だが、但し、それは間違い。
エンペイリアは、ほぼ「経験」で、これでもいいだろう。
(若干怪しいが、ほかに適当な言葉がみつからない)。
しかしここででてきた<ファンタシア>が、こっちが、これはモロに問題なんである。
これについて、これはオイラが特に採り上げ、論議に持ち出ししたいわけである。
ファンタシアは、普通に世間で「表象」と訳されてきた基本的な言葉だ。
これにイチャモンつけたいわけだ。
そないなもん、そもそもこの世にあるんか、と?
これはまったく時空を持たない「駄・メ」な訳であるようにオイラ思うからだ。
そもそも、この世のモノではない。
知に瞳着して映し確保済の、表の象、というのは。
これは極めて科分離的な考え方だからダメだと。
これはあえてオイラが言うのだ。
先生が言ってんじゃない。
先生の時代には、<未だファンタシアは表象じゃ、なかった>からだ。
言う必要もなかった。
しかも現代では、裏の像も実質の像も、ふんだんに使うのに、対象認識が無視されてしまってる。
実にうすっぺらい、うふぉの、中性概念になっちょる。
超賢いユダヤ人の手にかかると、すべての現実が感覚を見失い、うすっぺらいゲームになっていくみたいなもんだ。
瞳心による、感覚優先路線だと、こうにはならない。
瞳心が形容したファンタシアは、瞳着の再現目的などではないので。
ここは、しぜんと見えてる表の象じゃなくなる。
瞳心が<写す心の像>と、心をも採り入れた言葉にすべきだろう。
そうせんと、ファンタスマになる。
幽霊になって彷徨い出てくる。
表象というこの権能(そんなものあったら、だが)は、権能心を鏡に写さない、からなのだ。
都市伝説のレッド・マーキュリーみたいに。
鏡に映らない赤い水銀?になっちまう。
しかし「心象」と訳したのでは、明らかに具合が悪い。
ヘラス語では、また別の言葉が、心象に当てはまるらしい、からである。
翻訳AIいじってたら、ノエティケーが絡む言葉でてきた。
実践知としてのディア・ノエティケーや、ケアの倫理という、過去にちょっと通り過ぎた、へんな論議も絡んでくる。
この分野は、オイラ語学力ないので、つまりオイラがダメなんで、心象表現はダメ、とだけわかるのみ。
ムリヤリ、中性的用語の心象だとみなす、そういう手もあるようだが。
心の像つまり心象は、現代では普通は、世間でいうイメージ・ピクチャーのことにされてる。
だからダメだ、とでも言っとこう。
だが、ファンタシアは、これこれのピクチャーやイメージなんぞとはぜんぜん違うもの。
しかも心の物なのだ。
そもそも知のものじゃなくて、<魂のもの>なんである。
科学は、魂を知と一体化させてしまう。
そうせんと知が消えるから。
しかし魂は知的瞳着の場のことじゃなく。
からっぽ時空のコトだ、と、容れ物のことだと、おいらは思う。
そんなんで、「心象」は、ここでのテーマではないので、ほっとく。
<表象>の方を論議中なんで。
オイラの持つ文庫本形而上学でも、ファンタシアを「形象」と訳してあったんやけど。 これらぜんぶ、ダメな翻訳だと思った。
ファンタシアは「心象」でも「表象」でも「形象」でも「象力」でもないと思う。
これらでは、心身一体でなくなるからだ。
対象に見出す<一般命題になってしまう>、からなのだ。
ファンタシアは、心身一体、享有の、確かに、<かくれなく表に見えてる像の事>ではある。
魂の掴んだ、心の像のこと。
しかし同時に、<心の掴んでる魂の像のこと>でも、あって。
必ず、これこれの<実在の時空が絡む>のだ。
これを形而上学命題が絡む、などとは間違えんように。
ここを間違うと。
医者が、人一般を治療するんではなくて、ソクラテスさんだとか、プラトンさんを治療するようにせんと間違える、と同じようなことになる。
予防宣伝した報奨金のカネもらって、患者を殺すことになってしまう、ように。
ファンタシアはそもそも、一般命題ではない。
中性の、単なる(無意味な)形象命題でもない。
むしろ、これこれの<実在の形象命題>。
享有者のこころの像。
しかも一体のもんだから。
宇宙全体を表現するような、大きな意味のあるもんなのだ。
魂がウーシアから学んで寫した像、のはず。
曼荼羅、のような、<魂の写し絵>を考えるべきだろう、と思った次第。
日本人が使う心像(ナゼカオイラたちはこれをイメージというんだが)に近い意味であって、決して具体的なコレコレの心像ではないのであるが。
つまりファンタシアは、うふぉもの、なのだ。
経験、と言う言葉もじつはファンタシア同様、具体物を表さない類似品である。
ファンタシアという、ここには。
イコン(魂の写し絵)という中世用語が世間にもあったので、若干ギリシャ正教風にはなるが、それを使いたいと考える。
絶対にアイコンじゃない。
イコン(享有魂の写し絵)。
共有は無関係なんだが、それこそ、表象された共有物をも、これで示すことができる。
世間様は、ファンタシアを「表象」と訳す。
だが。
オイラは、ファンタシアを「イコン」風に訳して理解したい、ということ。
魂を此処に、心身一体にして、入れたい。
これやると、じつは類似の言葉が全部、軒並み変わっていってしまうのである。
イメージ・ピクチャー=心象という、世間に流布している中性的な訳自体も、誤りとなる。
早い話、<絵画芸術が、この世に成立しなくなる>。
現実の現状と、現状の現実がツロク(南京都方面の方言)しなくなる。
イコンは宗教用語であって、西洋が布教的な共有論議に使う道具ものの一つだが。
中性的な天使のもたらす力のこと、なんぞでは決してないんやが。
もっと具体的な、<これこれの魂の力や場>だ。
手っ取り早くいえば時空一般の事。
そんなもん、ない、が。
むしろ、<享有する魂の写し絵>といった意味が生まれるのである。
日本人が言う、イメージに近い意味が生まれる。
表象とは全然、遠くなるのだ。
その<イコン>に、ファンタシアの、本来の持ってた意味相があるんだ、とオイラは思い込んでいるわけだ。
瞳心で見た、<ファンタシア=イコン>や<記憶>などが、経験のモトである。
死すべき有限性や性差といった、経験的な引っかかりもの。
しがらみのもの。
これらは、ファンタシア(イコン)や記憶がテクネー(心構え)させた結果見える、時空ものの別名なのだ。
経験は、その時空の享有的な(具体的な個々人)の差別である。
つまり個々人のサガである、と言える。
(しがらみは共有のもの、さがは享有のもの)
一般的には、経験は共有できない。
つまり経験的に、享有者は<必ず性差を持つ>のである。
サガを持つのだ。
これを無くしたい、へんな「サガ反対者」も大勢いるんやが。
科に切り分けても、それを捨てることなんぞはできやしない。
享有だと中性は認められないので、享有自体を無くして胡麻化してきた。
共有者の<サガ>を、中性化をしようとするLGBT法案化なんてのがあったが。
この法律案持ち出した人なんかソレで、あほちゃう?、と思う。
性を持つ生命のカテゴリーが、そんなの許すはずないやんけ。
ちょっと、そこへの寄り道をしてみたい。
北欧神話のsaーgaにではなく、ばかばかしいLGBT法案のほうに寄り道である。
男女の優劣差なんぞという、ばかばかしい力差別論議がある。
性差を差異認識できない、力の差異でしか優劣認識できん人が持つ、おかしな「差別主義者の意見」が男女の優劣差だが。
プロテスタントが、カトリックを追い込むために、これを利用してるようだ。
現実社会では、カトリックもプロテスタントにも、選ばれし者が立って神の代理人を主張してる。
そのために、共有差異ではなく、共有差別というへんなもんができる。
(差別はあるが、享有のものだ)
慈善団体だと言う有名某組織なども、男以外は入れない変な門。
(特定地域では、入れる組織もあるらしい)
性差は享有のもんだが、現実には共有されて、厳然と差別もあるのだ。
性差とアイデンチチイの差を、つまり享有差を認めず。
人の享有を認識できないへんな連中が、自分たちの特権維持のためにやっている差別なんだが。
これを利用して敵対組織を混乱させたいと考えた連中もいたようだということ。
家畜的な共有視点に、中性のイコンものがムリヤリ絡まさせられて、このLGBT問題は出来ているのだ。
特に、人の性差を認めず、ごった煮にして中性化させる。
表象的に認識させる。
そういった動きが見える。
図式魔法陣がありそうなのである。
LGBTの法案化なんて、生命の営みが許さんと思うんやが、寄ってたかってアホな法律作ってしもうた。
つまり、人の社会的中性化を図ろう、享有なくして共有合理的な機械にしちまおう、っていう意図が見え見え。
人と性差を区分して、科学して、殺戮しようという、ありえん修辞やってる。
共有社会に許されざる法律だから、おかしさが目立つのでもある。
じつは世界を支配すると思い込んでいるへんな悪魔連中が持ち出してきたものだが。
<心象とイコン(魂の写し絵)>の問題含んでるので、意図して脱線してる。
法令問題のほうは。
法令化を求めてきたのは(被差別者への)「性差別禁止法」の制定狙いが根にあったらしい。
差別するもんへの規制じゃなくて、される側への緩和?。
その一歩なんだと、選ばれし差別主義者たちがへんなウソをぬかした。
だから、ハナから紛糾した。
享有論議に関わるつもりはなく、<共有の性差別禁止法の制定をしたい準備なんや>と。
これがハナからウソなんや。
性差別はハナから、しぜんとあるもの、だからだ。
禁止してもなくせない。
チョン切りたいようだが。
共有社会から、性差別そのもんをなくす?
やったらまず、実践的に社会の基礎的な仕組み改革から動かせなあかんわけで。
女性でも普通に社長や議員になれるように、もっていくべきなんで。
つまり男でも子を産めるようにせなあかんわけで。
ムリなことの、建前だけの掛け声してるんで、ウソ丸出しだ。
グレータイプの宇宙人みたいに、法令で性器チョンぎっての中性化要求に走ってる、というのが現実の法規制のわけである。
実際には、ちんちんちょん切った連中から出てる、法令作れ、の命令だろ?
心にあわせて戸籍身分を変えるには、現行法では性器チョンぎらにやあいけん、みたいだ。
これを無くそうという運動なんやて?
ちゃうやろ、逆やろ?
共有社会から性差のほうを無くしたい、全員チョン切りたい、だけやろ。
共有社会からサガを除外させたいという。
ハナからムりなんやけど。
結果的に、選ばれし差別主義者たちの下僕が、論議の物事の本質も理解できんままに、自民党員脱税問題同様の手口でLGBT法案押し切った。
今後、性別分けて業務してる共有のとこは、その性別混乱に拍車がかかっただけ。
詐欺罪が、今後は当然、横行する。
たぶん社会への効果はそれだけ、だろう。
トランスジェンダーは決して少数派ではないし。
気の毒な境遇の人もいるが。
それで稼いでいる人も、へんな詐欺師も、ごまんといるのだ。
心身分離チョン切りの科学だと。
心無視なので、オチンチンの有り無しだけで事が済みそうにと思うかも、だが。
実は、心の問題が別に生きてあるので、コトは単純ではない。
心の目的に合わせて、切り捨て問題が必ずどこかで起こってくる。
そうでない心無視でやっても。
遺伝子がY染色体持ってても、ホルモン異常でオチンチンの育って無い場合もあるし、本当にチョン切られてて、ない場合もある。
性は心身絡み、それも心身一体のことなので、共有社会に合わせるなんぞは容易ではない。
そもそも、<心と体は、心で一元制御なんぞできない>。
プラトン先生みたいな、男気だけ大好きの、逞しい男もいれば。
男好きゆえに、自分は女になりたい男もいれば。
男を誇りたいがゆえに、女好きになったやつもいれば、女好きゆえに女装したい、中には女になり切りたい水仙男もいるし。
女もこの逆で、同様に、多種多様いっぱいいるし。
さらに心と身体は、ねじれてるのが普通。
中には男も女も嫌いで、自分も周りもぜんぶ中性化したい、男女もいるだろう。
男も女も大好きな両刀使いもいれば。
心抜きでも、ホルモンのバランスから両性器具有になってしまった者もいるし。
有名なファラオのイクナトンみたいに、性差が途中で取り替わる場合だってありうる。
全部、後天的なトランスジェンダー、というか。
経験絡み、なのだ。
人は心身合一な生き物なので、性というものに身も心に引きずられて、時空次第で変わってゆく。
人のさが、は、死ぬまで捨てられない享有品。
早い話、生き物は全員<心身ともに持つ>ので、ある意味心身分離科学では必ずトランスジェンダーなのである。
もちろん心身一体になりそこねた、不幸な病人や多重人格の人も居るが。
但し個々人は、心身一体の有限な享有者だ。
適当にして脱線から戻りたい。
その、<享有者の魂の像>が、ファンタシア。
まあ、うふぉ、ってことです、はっきりしない。
超賢いローマ人には、ここがまるっきし理解できんかった。
はっきりせんもんも、はっきりさせたかった。
今でも西洋人には高確率で、享有者の魂の像なんて、理解できんはず。
享有が理解できんので。
共有の中性像みたいな、<科分離した瞳着像>を考えた。
それが<表象>。
ファンタシアじゃない。
しかしファンタシアは、共有には使えないはずの享有ものだから。
ここで、すべてが狂ったのだ。
享有認めない連中は、魂の写した知性像なんて、表に表せる、表現することができないはず。
だが、無意識なら扱えるんだろうから、像にして対象には置けると考えたのか。
絵画が、できた。
偶像禁止なのに。
うふぉだから、二次元に描くのは、ええってよ。
絵画は実際には三次元も使うゾ。
偶像禁止というのは一神教特有のもので、神を二つ作らないための禁止道徳ものだが。 魂の写した知性像を享有として認めないんでは、今度は<表に表せることができない>という問題が生じた。
だから神話物語にすることで回避した。
あるいは物語化して、幽霊のファンタスマの、その実体物語にしちまえば、と考えたのかはわかんないが。
不都合がふくらんで、神話物語も自己主張せにゃならんなった。
共有に使えるのは必ず、<複数化してのファンタジーのほう>なのである。
ファンタジーがここに成立。
ウソ神話物語が世にいっぱい、になった。
但し単数はムリなので、表象に現実的意味はなくなる。
うふぉ、になる。
ファンタシア(魂の像)は、心身一体で考えたら、普通に享有者個人の持つ心の像、イコンとなり。
結局、個人信仰に閉じ込められることとなるのだ。
つまり魂の写し絵、という触れ込みなんやが。
心身分離の立場だと、複数形にして。
心象という架空の、ウソの、仮の、禁止偶像にする、しかも神話物語にするしかないわけだ。
つまりイメージ・ピクチャーにしか、ならん。
だから心身分離の立場の人は、これを中性化して<表象>としたのである。
基礎にウソがあるのだ。
物語化というウソ、が、タ・メ・タ・モルフォーゼというウソが、ついて回ってるのである。
・・・・ではない、と自分(享有)で言えないものだから。
<瞳心>を無理に区別するのに、ウソを立てたわけだ。
つまりアリストテレス先生が述べているここでは、未だ。
ウソつきたちの共有のイメージ・ピクチャーが論議されてるんではない、のである。
ファンタシアということは、<享有者単独での>、心の像をこそ述べている。
依り代となった、<偶像の事を述べている>のだ。
一神教徒には禁止されてて、ヤバイから分離して殺した。
だから、幽霊になって、ファンタスマになって出たわけだ。
ヘラス文化には、もともと絵画はなかったという事実がある。
偶像禁止されていたんではなくて、もともと絵画が世間に、なかった。
この峻厳な事実、を思い出していただきたい。
これがホントの偶像禁止の意味かも。
類似品はあっても「戯画」か「漫画」の、ようなもんのみ。
心の像のような「写し絵もの」だった。
我が国の絵画事情に、ヘラスの事情は極めて似ているのである。
絵画は、そして心象(イメージ・ピクチャー)は、ヘラスより後の時代のもの。
しかも「うふぉ」もの。
ローマ帝国風の、科学概念が生んだもの、なのである。
つまりヘラスでは心身合一なので、ファンタシアに表象といった意味は立たず。
絵画は決して成立しやしない。
イメージ・ピクチャー利用物商品も、画家も画商も成立しなかったのである。
さて、「学問やテクネー(心構え)は(享有)経験を介して、人のものとなる」。
とアリストテレス先生は言う。
ノート(指令書)や論文などの記述命題によって、共有物となるのではないのである。
人の<享有経験を経て>、ねじれて<共有社会において、人のものとなる>。
だからここに、カテゴリーや倫理が絡む。
今日の西洋とは異なる諸事情が、出てくるのだ。
心身一体のその故に、アリストテレス自然学には、オルガノンが必ず絡む。
エチケットの倫理問題が絡むんじゃないよ。
オルガノンは、オルガン論議を思い出してください。
自分個人で、享有で記憶し、経験せんことには。
テクネーはおろか、学問すらも得られない、のだ。
AI任せでは、絶対にできっこない。
つまり「無経験は偶然をこそ、つくる」こととなる。
AIは経験する?
経験の意味が基礎から違う。
なのに、オルガノンが見えんもんだから、勝手に出ー来てしまうようにも考える?
のである。
今は、そんな世の中になってきた。
テクノロジ-も、じつはオルガノンが深く関与しているのだが、それが見えてないもんだから。
天才が絡んで出来ることを、発明と呼ぶ事態なのである。
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