アリストテレス先生とは無関係に思えるかもしれんが、ついでに心象=イメージ、という問題も、ここで再度論議しておきたい。
哲学の重要な問題、享有(きょうゆう)と神々の問題を含むので。
アリストテレス先生のファンタシアというのは、享有する魂の宇宙論的写し絵<イコン>のことだったと、これはオイラ風解釈。
うふぉ、の共有の<表象>とは、その基礎からが違うものなのに。
表象という翻訳が大手を振ってしまっているとオイラ主張してきた。
古代ヘラスの心身合一文化が、ローマ風の科分離文化へと改変されてしまっていたため起こった解釈誤りなのである。
文化理解の間違いが起こした。
文化の意味も、カルチャーは誤りで、文字の通り。
イメージのほうは、また、これらとも異なる現代用語で。
特に日本人が多用するそれについて、述べてみたいのである。
西洋におけるイメージというのはローマ風であって、正しくはイメージ・ピクチャーのことである。
具体的に共有でき、示すことが可能なはずの絵の事だ。
必ずピクチャーがつく。
イメージ、単独では意味をなさない。
<共有>の概念のことだからだ。
単独の言葉では、多くの人に、なんにも見えなくなるからでもある。
共有認識できる写した絵という、共有モノの事が、イメージ・ピクチャーで示されている言葉の本質である。
写し絵というと、版画などがわかりやすい。
瞳着された、極めて知的な構造や手順、そのもの、である。
絵画など、直に手間暇かけ描いたものは特に「写し絵」とは言わない。
同じ時空手順を含むのだが。
中間省略で、瞳着的に写し取ったもの、それを言う。
なので西洋では、イメージ・ピクチャーを略してのピクチャーとなる。
こっちは人の頭に一度曖昧に写されて、それが描かれて出来たものなので。
人のイメージと別れても、単独で共有存在するモノになると思われている。
知性が、単独で行動できると思われてしまう由縁だ。
イメージだけでは、科分離されたそれらとは、若干違うんやけど。
人の頭に写された段階の、物を指す言葉だからだ。
とにかく西洋では必ずイメージ・ピクチャー。
アイデンチチイをメと解釈して、更に複数形にして、ピックアップされた背景の諸々含むテクスチャー?
もとは心で描いた物なのだが。
共有可能で、具体化のできる論議対象はあくまで絵のことになる?。
オイラたち享有者には、なんのことかわからんなる、んやが。
じっさいに、基礎の<表象>という解釈が間違ってるんで、こうなってしまうのだ。
ここで論議したいのは、そんな問題やない。
基礎の混乱や解釈の誤謬でイメージにいろんな解釈できちまうといった、そんなこっちゃない。
日本人が集団で特有の使い方をする、<イメージ>、のほうについてである。
近代の日本人は、自分の心の<享有するナニカの写し絵を述べるときに>これを使うのである。
しかも必ず、<私のイメージ>、という。
あなたのイメージと言った時には、自分にはまったく空想以上は見えてないものだからだ。
<共有物>として述べる、そのためのだけのもの、ではないのだ。
必ず<自分の享有ブツを共有物論議化するために>、使う。
哲学的要素が、ディアレクチークが含まれる。
享有思惟を共有させ、具象化するための、特殊用語なのだ。
しかもこれをオイラたちは多用する。
(そのくせ哲学は普通持たないんである)
イメージという言葉は、すでに完璧に日本語化されていて。
西洋的な意味相はもはや全くない、といっていい。
これを西欧風に理解してはならない。
英訳できない。
絶対に、イメージ・ピクチャーのことではない、のだ。
享有というものは、テレパシー能力でもない限り共有できようがない、からだ。
だから日本人は、イメージという言葉を多用することになる。
享有は、個々人で<孤立した有の認識>、のことであるからだ。
本来の有、ではない<うふぉ>ごとなのだ。
どこかでつながっているのかもしれないが、その繋がりは誰にもわからない。
神々の姿は見えていない、ということ。
つまり日本語に、イメ-ジ・ピクチャーの(基礎が)誤った意味あいは、まったくないといっていい。
心に写した(感性的記憶頼りの享有の、自分だけの)心の像を、共有化し伝えるためのうふぉ言葉なのだ。
(対象の明確な)知性的な像が主体となって出来た心像(偶像)ではなくて。
心身一体として認識され生まれた、おぼろげな<心像>だからだ。
日本人の言うイメージは、部分表象された心像ではない、のである。
必ず、<私の今持つ朧げなイメージ、その全体>、なのだ。
英語に通じてる、特に一神教徒の人たちはこれと違ってくる。
イメ-ジ・ピクチャーの本来の意味でこれを使う。
共有化した、表象的ピクチャーの意味で、使ってしまう。
なので、ここでは話が、まったくかみ合わなくなる。
一神教的に考えることがすでに、日本語的でなくなることを意味していると思う。
そもそも、なんでこの言葉が日本語化されたかというと。
これ(イメージ)に当てはまる言葉が日本には、もともとなかった。
アイデンチチイはなかったし、享有など、考える必要もなかった。
そもそも一神教的発想そのものが、古い人類にはなかった。
そこまで言わんでも、どこよりも複雑化してたはずの超古い日本の言語に、イメージはなかった。
ファンタシアはあったが、表象といった意味合いではなくて魂の全体といった意味があった心の像だった。
イメージ・ピクチャーと、アイデンチチイを込めて言われても、翻訳できんかった。
特に心象と重なって混乱する。
できんで当然。
イメージ・ピクチャーは、一神教的な思惟だからだ。
だから、そのまんま音価のみ採り込んで、別の多神教的な意味にした。
日本語化して、結果的に別モノのカタカナ用語となったのである。
西洋のイメージ・ピクチャーは、オイラたちが言うイメ-ジとはまったく異なる。
<表象された、しかし共有にして無害にした、偶像的写し絵>のほう、なのだ。
ファンタシアの誤訳が、これの深奥で絡んで、潜んでいる。
キリスト教が公共支配の現代世界では。
表象の魂的な個人の心は、まさに禁止する偶像もののこと。
それを言うのである。
つまり魂が享有になっちまうと、偶像が立って一神教が成り立たんなる。
だからイメージ・ピクチャーでは、その偶像ものから、あえて日本人が言うイメージ部分を取り去って共有にしてた。
イメージを、偶像のアイデント部分を取り去って。
偶像のないピクチャー表象にするのだ。
日本語でイメージ、と言うときは全く違うのである。
そういった、共有のイメージ・ピクチャーの意味ではまったく<ない>のである。
単に、自分の思い浮かべた独自の記憶や、その場限りのウソごとの、仮想のこと。
アイデントの関わった、むしろ個々に見たら偶像のことをこそ、言う。
つまり個人<享有>の事を言うのだ。
西洋人の考える<偶像には、享有的な意味合いが大きいこと>がわかるだろうか。
だから彼らは、享有認識を排除して、共有の有のみにしてきたのだ。
彼らは偶像崇拝禁止で、長期間、一神教をなんとか維持してきた。
ウソつきの悪人は蔓延っても、教会も十分稼げた。
但し自分享有的には西洋人も信仰を持つし。
おいらたちの言うイメ-ジも、ウソではなくモノホンもんである。
偶像崇拝でも禁止された悪い事項でもなくて、単に<曖昧な神々のこと>をいうからだ。
日本人が享有するイメージは。
具体的な共有論議できる表象のことではない、からなのだ。
必ず個々人が自分だけで持っている、共有できない、知性的<享有部分>のことをこそ言う。
それを共有論議に載せたくて、イメージと言う、だけの話。
ピクチャーにではなくて、アイデンチチイに、重きが置かれているのだ。
日本人にはアイデンチチイがない、と普通は言われてるが。
それは、<心を信仰において、ではなく、個々人が享有して管理している>、ためだ。
場合によってはこれが無信仰にも見える。
西洋のように神に託して、そのこころを共有してない、からである。
宇宙と一体になってるかもしれんが、それは自分では(享有なので)わからん。
むしろ天上天下唯我独尊に見え、有限な享有と思える、のが普通。
だから日本人の言うイメージは、ピクチャー表象ではなく。
ある意味、<自分だけのうふぉ語>、なのだ。
つまり<享有のファンタシア>の意味で、オイラたちはイメージを使うのである。
ファンタシアの意味も、ここで表象とはまったく違ってきているのだ。
しかしこれが、本来のヘラス語に近いのだろうと、オイラ思う次第。
イメージ・ピクチャーではなく。
イメージという、心の言葉を別に作ると。
ファンタシアも、<表象>ではなくて、<心の像>といった、まったく別の意味になる。
但し、心像では意味がイメージ・ピクチャーと重なってしまうので。
ファンタシアにむりやり、おいら、イコンという言葉を探してきてはめたわけだ。
ファンタシアは、こころの<表だけの象>ではなくなって。
全く違う、人の<固有な享有>となる。
表象なんてそないなもん、有限な人の柔い心にはないんだ、と、なる。
だから日本語はもともと、心身一体でアリストテレス風だった、と、はじめて言えるわけだ。
アリストテレス先生のファンタシアは、絶対に機械的な「表象のはいいろはがね」、ではないからだ。
宮沢賢治も、表象のとはここで言わず、心象の、としている。
しかもファンタシアは、享有部分の些細な表象を言うのではないのだ。
<心に映った、全宇宙の魂の象のこと>を言う。
仮に微細で取るに足らない部分であっても。
深刻な宇宙全体の像、なのだ。
些細なイメージであっても、仮にイコンをデジタル化してモナス、1にしたとしても。 それは自分の魂の象の一部、だからだ。
ファンタシアは、単なる中性的イメージではない。
像に特化した、心の像のこと、偶像なんである。
像が表象像ではない心の像だということ。
カテゴリーもオルガノンももつ、禁畏の偶像なのである。
だから、イメージの本質は偶像。
モナドのように、それが宇宙全体を写す。
だからここには、神々の偶像の数だけ世界がある、ことになる。
モナドみたいに、一意のカーネルが取り仕切ることは、ないのである。
モナドロジーのあれは、科分離合理論による機械構想にすぎんものだ。
コンピューターの、つまりAIの構想なのである。
現実の人の場合は。
享有に表象が成立し得ないので、ファンタシアも、そこだけ科分離して取り出せば禁断のイコンとなってしまうのだ。
アイコンというピクチャーではなく、宇宙の偶像となり果てる。
但し常に享有モノなんで。
他人のイメージはわからないし、アクセスなんぞもできなやしない。
最新のデジタル技術で、これを読み取ることが可能となった?
人の心を読み取れたとしても、それは科分離した表象部分だけ、なんである。
当然、デジタル化してるので、他人の心は利用もできんはずのもんだ。
こころは倫理のカテゴリーで推し量れて、表象が仮にできても。
それが写す享有のファンタシアのほうは、絶対に推し量れやしない。
ファンタシアは、表象のみではない、享有の持つ<宇宙の感性>だからだ。
しかし<自分のイメージ>なので。
自分では、カテゴリー的には、わかるはず。
更に、倫理的にそこに働く制約も、時空でオルガノン的に理解できるはず。
ハッキリしてなくても、<全貌はわかる>。
西洋の言うイメージ・ピクチャーなどとは、まったく違うものなのだ。
今さらに、オッカムのやったメタバシスの横暴さが、わかる。
西洋のそっちは別物の、表だけの象、つまり死んだ表象なのだ。
共有できる、心に表象できる、イメージした<ピクチャー>部分のみを指すからだ。
ほんまは、ピクチャーだけでいいんやと思うけど。
共有のみでも人が絡んでるので、ついでにイメージがついてる。
おいらたちが今日絵と呼ぶ、まさにコレのことだ。
これは、イメージとまったくの別の共有もの。
ピクチャーという、表象もんにした死んだこころ、でしょが。
転写ものだ。
西洋のイメージは、イメージ・ピクチャーなので。
表象された<ピクチャーに、特化した>のだ。
全くの同じ共有ものとなる。
だからローマ帝国では絵画というブツが生まれた。
日本のイメージは、アイデントを写す虚空の写し絵なので。
心像のイコンに特化して?
こっちは漫画となった。
これら差異を良く理解した上で、この、イメージという言葉を使うべきなのである。
西洋人に誤解される、からだ。
特に西洋人と接する場合、不用意にこのイメージという言葉を使うと、五階どころか、六階される。
日本人はウソつきだ、と正面から言われてしまう。
おいらたちからすると、連中がウソをついていることになるのだ。
同じことが、英語に堪能な一神教徒の上級国民と、英語が使えない日本人庶民の間で起こっている。
差別ができ、階層ができてしまっている。
日本人は、自分の心に映った映像は、<自分だけのイメージなのだ。>
そう思い込んでいる。
享有認識がある、からそう思うのだ。
おなじものを見ていても、他人の心の映像は違うのだ、と認識している。
西洋人の多く、特に超賢い人には、この享有認識がない。
はなはだしきは他人への配慮がまったくできないサイコパスになる。
特に一神教徒には享有が、悪人になる事やへりくだる以外に、許されてない。
プロテスタントなどでは抹殺される。
西洋人の持つ自分というのは、基本が一意の神のもたらした共有認識であるので。
そもそも享有認識ではない。
これを明確に理解すべきだ。
享有認識を持つには、へりくだりだとか、悪人だとかの、神に逆らう構図が必要となるのだ。
メシアのような。
但しサイコパスと紙一重だ。
だから利己主義の人であっても、その基本が<共有の認識の>利己主義。
個人主義も利己主義のことになってしまうので、違いはなくなる。
享有、共有の問題は、じっさい単純ではない。
(心身一体、種族一体、生命一体の、うふぉごとを科学してるだけなんやから)
デジタルか、アナログか、といった問題や、アルケーが多神か一神か、といった問題に似てくる。
心身統一の立場だと、ほんまはデジタルもアナログなんやし。
多神も一神も始源(アルケー)問題にすぎんのやけど、ムリヤリ差別して科分離、合理させて知識にしとるだけなんで。
究極言うなら、時間も空間、感性も知性になっちまう。
だから日本人は、私のイメージでは・・・と、享有を共有化させていうのだ。
また、容易に「イメージ壊れた」、ともいう。
西洋人は違うんですよ。
ピクチャーは認識からは消えて変容してはいくが、表象の灰色鋼は崩れたりしないんである。
エネルギー不滅の法則というやつである。
一神に回帰する信仰が支える。
しかも他人のイメージも、ピクチャーとして共有できる。
だから英語堪能な人の描くイメージのそれは「心象のはいいろ鋼」になっちまうのである。
葛藤が生まれる。
宮沢賢治は、たぶん英語もよくできた人に違いない。
堅固に表象された共有物の、彼ら独特の解釈の、ファンタシアが出来上がっているのである。
これが複数形集まって、ファンタジーが成立する。
注文の多い料理店や、銀河鉄道の夜ができる。
たぶん宮沢賢治のファンタジーは、普通の日本人の思い描くそれとはまったく違う、もっと鮮明で切実なんやと思うのである。
西洋風のこれは、ヘラスのファンタシアの解釈間違いで起きたのだが。
ポイエシスで出来た、共有世界の、しかも表象モノだと思い込んでいるモノが対象となっている。
神の与えたモノだ、ということになっちょる。
ヘラスは基礎が多神教なので。
つまりオイラたちと同じなので。
唯一の神なんてのは、根拠のない妄想となっていた。
唯一の神の権能に属するそれを、表象を。
個人心で壊すなんて、西洋からみれば、なんという冒涜、となる。
日本人て、悪魔が取りついているんだと、あっさり思われてしまう。
ここにあるのは、<享有>と<共有>の、しごく基礎的な基礎問題なのだ。
そしてこれは<唯一神>か<神々>か、という問題でもあるのである。
哲学は、神々を認めはする。
何しか、未知なものが多すぎる。
だが、その一神に帰依することなどは<絶対にありえない>。
神も悪魔の一種だからだ。
ハッキリ言いたい、神も悪魔の一種だと。
哲学理論によくある**主義の主張など、特にありえないのである。
哲学というのは、スリスリしたりイメージしたりする、だけだからだ。
自分享有の無知を、自分で知識ぶっ壊して理解するだけのこと。
信仰で一体となって、共有の表象に瞳着することなどは、ありえない。
基本が感性だからだ。
英知のソフィア神のクツに、スリスリするだけだからだ。
憑依もできやしないので魔術などとは関係ない。
憑依する宗教家やメシアは、だから決して哲学できない、そのはずなのだ。
科学についても同様である。
科学者は絶対の英知を信仰立てる。
対象を立て、科分離して絶対の客観を求める、が。
つまり唯一の英知神を一意に認めはするんだが。
これは、おかしいのである。
その一神に帰依した科学、なんてのは、実は起こりえないからだ。
科学は必ず誤謬の連続であるはず。
科学に純粋科学(経験を伴わない科学)などはないし。
客観の客観も成立しないし。
一意の時空は、永遠ではない(人の認識は有限だからだ)。
時空を持つウーシア世界は必ず有限。
人の、享有の身体に由来しているからだ。
宗教家に科学者はいない、その由縁が、これである。
一神に帰依した科学、なんてのは、実は起こりえない。
未来に完成することもない。
というか、科学は論理学を使い、科分科させる。
だから絶対の英知が立つように思ったり、客観の客観を空想することもある。
エンテレケイアがありそうに思える、のである。
つまりメタバシス論理でカテゴリーいじって、神を殺し瞳着するので。
そういったことが将来的に可能であるかのように信仰することも起こりうる。
しかしそれは先験的誤謬、時空の取り違え、なのである。
虚無主義の表象的唯一信仰は持っていても、堅固な永遠への安心立命の時空などは、持てないはずだからだ。
人の本質は、<魂の表象>ではなく、<身体のイメージ>にすぎないからだ。
ファンタシアを表象と訳すことで。
ここに時空はむしろ、<うふぉの共有>となっている。
「心象の、はいいろ鋼」に奉仕する、瞳着するしもべとなることができて。
それで科学技術が成立できている、だけ、の話なのだ。
(基礎は形而上学的誤謬)
宮沢賢治は、それに、科学的知識に抵抗していたのだろう。
法華経には、かなり怪しげな部分があるからだ。
仏教のお経でありながら、心象を表象させるようなところが若干あるのだ。
心象を表象させる、宇宙論的なイコンを心に描かせる。
こういった先験的誤謬は。
心構えであるテクネーを、技術だと理解し。
自動機械による自然的な反復行為だ、とみなし得て、はじめて科学が成立しているのである。
現代特有の物。
このように。
ファンタシア(ヘラス語)と、表象=イメージ・ピクチャー(西洋)は、全く異なるもの。
イメージ・ピクチャー(西洋)。
イメージ(日本語)。
これも相互に、全く異なる意味を持っている。
もう一度これらを整理し、示しておきたい。
1:ファンタシアはヘラス語。
享有の瞳心(ひとみごころ)に写されたイコンのことである。
こころの出来事は、宇宙の共有・享有のできごと。
だからこれは、ウーシアの世の中の、<現実>、でもあるわけだ。
アリストテレス哲学・学問の用語である。
2:表象とは、西洋の語。
共有のイメージ・ピクチャーのことである。
科学的に共有分離された、仮想の、瞳着的な写し絵のこと。
しかもこれは<仮想>の話だから、複数集まればファンタジーとなる。
科学の技術実践のための用語なのである。
3:イメージとオイラたちが言う日本語は。
これは<享有>の心に写した、<心象>である。
個人享有にのみある心の偶像なのであるが、それを共有論議に持ち出すために使う。
その場限りの、うふぉ話なので、おとぎ話にはなっても、まっとうな神話にはなりえない。
日常世間的な現代用語である。
この2番目のものが、今日西洋で普通に使われている<表象>、である。
ファンタシアではなく、ファンタスマになりかけている というか、なってしまっている。
この表象を、仮想の物としてでなく対象にあるものとして、あえて見誤り。
その見誤ることで、実は科学技術ができている。
つまり科学は、表象でできた科学<信仰の技術>なので、(ほんとうは)形而上学的な問いを持たない。
堅固な基礎を持ててないといえる。
また、基礎だと思い込んでいるその問いも、じつは<学問ですらない>先験的誤謬。
ノート(指示書)や理論書を持ち、反復可能な時空の手順書を持つが。
単なるマシナリー・テクニークへのアジェンダなのだ。
個々人とは無縁に、勝手に自動で動くAIとは相性抜群。
しかも学問だ、と偽るので。
なので、偽りの真似しと問いを、必ず基礎に置かないといけない。
それの基礎に置かれ、踏みつけられたのが形而上学なのであるが。
形而上学は科学を主導し支えている、そのように一見見えるが、実際には科学の足引っ張ってるだけ。
但し、必ず科学は(人の)目的を持つ特徴がある。
この目的を立てるさいに、基礎に置かれるものが、表象。
偶像なのだが、偶像は立てることが許されてないので中性化したり、仮想の時空を置いたりするのだ。
目的は置いてるが、誰もそこを見ていないので、科学の進路は誰にもわからない。
哲学は背乗りされて死に体なので。
成果となって出来たモノが、背後に航跡となって見えるだけ。
後ろ向きの手漕ぎボートのようなもんだ。
この危険に、従事者が、つまり科学技術に携わる者が自分で目覚めるべきだ。
すべてが、科学の発祥からして、ファンタシアの解釈の誤りから起きたこと。
その誤りは、享有と共有の認識ができてないことから起こり。
始源は一神教か多神教かの基本信仰だ、と思ってしまうわけだ。
しかし、科学は信仰だが、哲学は信仰ではない。