(表象・想像?=ファンタシア)
さて、「ファンタシア」というヘラス語が、どうもひっかかるのである。
これが「表象」という古典ギリシャ語として意図的に誤訳されたことを過去に述べた。
表象というこれは、知的に偏重して認識されている。
そのため、感性抜きで理解されてしまって誤るんだと。
「表象」訳だと、知性べったりになるのだ。
知性に瞳着した概念の形象(継承)みたいになる。
それだけでなく、うすっぺらくなって現実味がなくなってしまう。
なので、明らかに誤訳なんだと述べて来た。
ファンタジイ(おとぎ話)、ファンタスマ(幽霊)、という類似の今日的言葉が、これらに絡んで生まれるしかなかったんだと思う。
当時から幽霊はいただろうが。
逆ではあるまい。
おとぎ話や幽霊からは、現実は想像され得ない、からである。
ファンタシアは、その「現実」の哲学的(無知の知)表現である。
今日では、おとぎ話や幽霊から「現実感」を得て感覚を楽しんでる。
それが普通だが、幽霊は現実から「想像」(創造)されたものである。
同様に、霊界といったものも想像であって。
これらは現実をもとに作られる、「人工の共有もの」。
悪魔的作品、なのだ。
いろんなものの現実「感」部分のみを取り出して、ファンタジイやファンタスマは、できてるからだ。
ファンタシアはもともと、現実の<感性の様>のことを言う。
特殊なオルガノン用語である。
だから、逆だと、これではそもそも、現実がおかしくなる。
ファンタシアは、筋が通った言葉のはず。
それに対し、ファンタジイやファンタスマと言った言葉のほうは、客観的なのだが。
そもそも客観化が困難、というか、満足に明確にはできない。
絵空事の想像(創造)ブツ。
(創造も想像も、漢語では区別されるが、日本語では単に同じ音と言うそれだけでなく、まったく同じ幅広い意味だと、わかるだろう。)
ファンタシアはしかも、科学用語などのような、死者の断片排泄物エクソソームではないのだ。
だから、絵空事などではありえないし、空想ともなりえない。
ファンタシアはしかも、「対象認識」だとか、「像化」といった、知的にポシティブな意味を、じつは「本来全く含んでいないのでは?」、と。
つい思ってしまうが。
実はこういったものをも、「知的にポシティブな意味をも、当然ネガチブ部分をも」、もともとファンタシアが心身一体で含んで持っているハズ。
オルガノンの言葉だからだ。
つまり、瞳着した反復ものや薄っぺらい物さえをも、心身一体で含む言葉。
そのはず、なのだ。
享有で魂の像化のような、宇宙規模の全体像的意味を持つ「イコン」だ、とムリに訳して来たが。
どうもしっくり嵌らないのであるのも、この理由からだろう。
イコンだと、どうしても天上界のモノといったような意味を含んでしまう。
崇高なものはもちろん、軽薄な物さえ、すでに含んでいるのだが。
つまりファンタシアは、「共有のみにおいては、客観化できる言葉でないのだ」と思えて来た。
ネガチブに偏っていってしまう。
ムリに共有化認識すれば、やはり、「神話のおとぎ話」や「幽霊話」がでてきちまうのである。
此処に、騙しが必ず出て来てしまう、っつうこと。
陰謀話になっちまう。
(「騙し」を生んだのも共有化、つまり認識対象の複数化導入による騙しという、その命題化が原因なのである。)
「ウソを言って空に仮託して、想いの絵を描くことが客観的な物事である」、という先の命題を思い出していただきたい。
拘らずに、その意味を反芻してみたい。
共有化には、この「空想」以外に、「騙す」ことも必須となるのだからだ。
認識対象をムリに複数化させて、享有認識の「ある」ということを、騙す。
その役割を持つ図式の働き部分を利用するのだ。
騙す目的は、目的「認識」させるためには必要なんであろうが、所詮「騙(だま)し」なのである。
つまり目的は別途あるのだが、ある、ことを「あらしめる」にする。
「図式の働きのために」どうしても要るから、形式的に利用するのだ。
「騙し」というのは目的をかくすという理由もあるが、むしろ。
(見えてない)図式が享有者を動かし<魂を形成させる>、「その有様のこと」なのであって。
「想像」には確かに近いかもしれんが。
その、「像化」と言った意味相が固有にはない、もともともってない、その有様を言う。
像化は、ないのだろうと思う。
そもそもファンタシアは「知的な働きではない」のだ。
つまり瞳着的なものではありえないと思う。
だから知的な動きに対しては、図式が、ネガチブな意味を持って拒否してしまう、のである。
だからだから、見えてない全部世界図や全宇宙像である曼荼羅図なんて持ち出すより。 そんな騙し、やるより。
単に、うふぉの図式だと、アホになって言うほうがいい。
あるいは「先験的図式」や「メタ図式」、でもいいのかもしれんが。
それだと騙しになるのでダメだ。
(メタ(超越)にメタ重ねたら、文字通りメタメタになるし。)
ウソにウソを重ねる事にもなるので、それは避けて来たんだが。
避けて正解だろう。
掌握化できるかどうかもわからない「客観的」には。
知的な「像化」というのは、無縁な言葉ではあると思う。
もちろん「表象」だとか「想像」という訳語も、当然のように、全くの誤りとなるのである。
そもそも、象や像が主題ではない、からなのだ。
はっきりせんプラズマ様のもの、量子様のもの、だからだ。
UFOのように、何もかもはっきりせん。
数学的に言うなら次元もの、だろうが。
足場の時空をさしおいて、数学のように軽薄には騙れん。
むしろ「人が構想する」といった、「感性的なモノが明確に」あるものの。
それの<能動的な意味>ではあるので。
(これも「能動的」と言っていいのかどうかは躊躇するんだが。)
過去にはオイラ、これを「能」だと言って間違えてた。
有職故実の共有形式だ、と思い込んでいた時期もあった。
ファンタシアは、イコンより「能動図式」、「能図式」といった図象的意味が確かに近い。
それはまちがいないのだが。
肝心の「能」部分が、いつまでたってもちゃんと見えてこない。
だから、これも完璧には正しくはないのだろう。
これ(ファンタシア、能図式)が、「表象」という、みえてみえない(うふぉ)象ものとなって、知性を導いてしまい。
さらには想像という絵空に見える「像もの」になって、(西洋は)道を誤ったのだ。
それは、古典ギリシャ以降の時代の話である(ローマ帝国での話だっつうこと)。
科分離思惟が、これに絡んできているし。
(これは、目的があって殺して分けた、っつうこと)
哲学の抹殺と改変、それの知識集積へのアジェンダ(予定企画)といった介入もあった。
そういった、構想絡み、目的企画陰謀絡み、になってたんだとは、おいらの哲学史で、すでにわかってきている。
しかしそれが隠されて見えてない(陰謀となってる)ので、あえて実体のない表象にしたのだろうが。
「能図式」では、これも感性が消えちまいそうな気がしてならないのだ。
図式は、感性の形式なのだが。
形式だけでは実体が十全でないので、何も見えんからだ。
ファンタシアは、導く「実体のあるオルガノン構想」なんである。
この実体と言うのは個形容物の意味じゃないのだ。
導く中身のあるものの事だ。
そもそも中身の純粋悟性概念(カント先生を利用して考えてる)は、悟性的に共有的に働くのではない。
それを「ネガチブにして<享有するように>働く」。
あくまで自分の側の、「感性の言葉」でもあるのである。
だから図式、シェーマなんである。
その享有と共有にまたがった能図式の「想像」をこそ、ここでは、まずもって騙りたいものである。
「騙り」は、つまり、<共有の想像>であり。
これは<ウソの創造>、ということでもありうる。
しかしこれは同時に、すでに享有されてもいる部分なのだ。
個対象と複数個対象の間を、揺れ動いている。
(時間を軽薄に数量化した数学的時間なんぞで考えんように。)
(カテゴリーの量を取り去るメタバシスやらんように。)
(能図式・想像?=ファンタシア)
ウソの創造であっても、想像することには必ず、そのモトとなるものがあるのだ。
感性の導き、つまり「時空が底に(そこに)支えて、ある」ハズなので。
想像共有(共同幻想)であっても、「必ずなにがしかの享有があるはず」。
単なる「空想」や「虚構」には、モトとなる感性の「枠はない」のである。
能図式=?ファンタシアはその点、想像された<感性枠そのもの>。
というオルガノン用語。
なので、感性は、ここにも必ず、ある。
そのあるものは、どうやら「図式そのもの」なので、見えてない。
モノ自体はないはずなので、ないのかも。
つまりム、なのかも。
だから紙一重で、二重の意味をも併せ持てている、つうこと。
純粋悟性概念=図式。
1:感性でもって人の心を構えさせ、出来させる。
「客観的にはネガチブな図式2”無”」である部分と。
2:感性として構えた人の心を反省し「もともと無知である」ことを認識させる。
「主観的にポシティブな図式”有”」の部分。
オルガノンにはこの二重の意味が、必ずある。
二つそろってはじめて、想像は「ある」、といえるのである。
像を想うということは、片方だけのうすっぺらいものでは、なりたたない。
知性だけでは成り立たないし、感性のみでも成り立たない。
双方そろった無なしには成り立たない。
モノを切り殺して細分化しても、ヒモにする原理論にもなったりは、しないのである。
(これは物理学が日頃やる、先験的に誤った形而上学となる。)
想像は、しかも享有者においては、カテゴリー制約下の倫理ものだ。
(享有の「あり」ということが、倫理として働いているとわかる。)
倫理は享有モノなので倫理規制委員会といった公共機関が関われるようなものではなくて、そうかといって享有の好き勝手にもならない。
必ず「オルガノン監修」なのである。
倫理観なき想像などは、だから、現実には「ない」と言える。
つまりはすべて図式の導きに従っての、日常の具体物のコレコレの想像、なのである。 現実は「単なる空想」なんかじゃない。
カテゴリーに導かれて初めて「ある」、と言える制約下の有限な(幽玄な)ものの「無」。
ファンタシアの多様性は、複雑で厄介なのだ。
すべて現実がモトだから。
必ず「生きている具体的な想像」なので、想像においても「生身の人間」が必要なのだ。
(生身の人間以外のものが、創造(想像)に関わることなどは、だから、ありえないのである。)
(全知全能の造物主神や、AI自動機械などでは、だから創造などできっこない。)
ウソ物しか作れないやろ、ってこと。
ましてや、単なる対象一般の空想では、この「ある」ことが希薄になる。
複数の対象の空想だと「時空の枠が」必ずあいまいになってしまうのだ。
つまりは人工のホログラムにしかなんない。
まともな想像(創造)に、ならんのだ。
具体想像で何が出て来るか、というと、「(現実の)出来事」がでてくる。
具体的な「あり」の中身が出るはず。
実体が、経験(敬虔)となって、出てー来る。
(そしてそれが、時空と言うもの、なんだ。)
(敬虔のない時空は、まさにニセモノの特徴である。)
「動的な意味合い」が、このように次々と出て来るのである。
能が、可能体になって、しかも現実体となって、出てー来る。
この「可能体」を考えて、それで能といってるわけだが。
それも、客観的「空想」に属するもののようである。
つまりウソ事に属する、というわけだ。
(純粋な享有(あり)だと空想される唯一神は。
だから自分に対しウソつけない、というわけになる。)
(しかし日本人が自分にウソつける、ってのは真実が証明している。)
(これは享有が唯一の神ではなく、自分というものの複数対象のことなので、可能なのである。)
(自分自身は必ず複数の人格を持ち、一人ではない。)
(一人だと思い込んでいるだけ。)
(したがって、人の思考は神ではない。)
(能図式・空想?=ファンタシア)
「想像」は必ず、像という「過去の時空」がモトで「ある」。
ある、は過去に、経験としてある。
享有の“有”図式が働くから、そうなっているのだ。
それに対し「空想」は。
時空を持たない、過去の経験を持たない、しかし知的な「絵空事」なのである。
西洋はコレ偏重になってしまっている。
想像(創造)は、じぶんだけでは空想できないという「事実」があるので。
絵空事でない時空を(ネガチブであっても)過去に持たざるを得ない。
その必要があるんだが。
(共有の図式は、だからファンタシアのネガチブな{仮想の}能図式なのだ。)
西洋はそのネガチブな能図式に嵌ってしまった。
能図式・表象では、ファンタシアの表(おもて)だけを像化してるわけだ。
なので。
この時空が、人工の「選ばれし者」になってしまっている、ということ。
これが、「優生学で知らぬ間に別物にすり替わってしまう」、っつうことの真相だ。
キリスト教の教義(カルト)にもなってしまっている。
表の象は像化が終わった後の、部分表現だから。
優生学「判断済」に、ならざるを得ないのだが。
しかし図式なので、必ず、その「モトの時空がある」。
だから可能であった判断済の選んだ享有モノを持ち込んで摩り替え、胡麻化すわけだ。
共有のはずの時間旅行をこっそり個人だけでやってる、みたいなもん。
図式が見えていないので、そのネガチブ部分を排除すれば。
全くの人工物にすり替わって見えちまうことになる。
つまり空想も、ホントはそれ固有の時空を持つのだが。
常にネガチブは拒否するので、共有では、この「すり替わり」が起きるが何も見えないというわけだ。
(すりかわりすらも見えない。)
客観はホントは、「みえない共有態」なのに、そこに享有を持ち込み見えるようにするのだが。
ネガチブ拒否の共有図式が働いて。
見えんままに、それらを、すり替え行為をも、ヤラセてしまうのだ。
能という、宙ぶらりんの、しかも見えんもので操って。
さらに共有論議となると・・・ホンマ、メタメタどころの騒ぎじゃなくなるわけだ
アホなオイラは、ここですでに頭痛い。
無数の命題が出てきたが、記憶にも満足に残らない。
やはりオルガノンの領域は手に余る。
誰か代わりに考えてください。