他の娘さんのように、平凡に嫁にいくのをためらった母の、
新しい友人とは、冒険をたくさんしたという。
地方の田舎町に、ひとりの洋画家が住んでいた。
外国の絵に大きな興味を抱き、アトリエにおじゃましたそうだ。
絵の具の匂いの満ちた広い部屋に、暗い絵のキャンバスが、
置いてあった。
そこに、いろんな絵描きさんや、小説家などが集まって、わいわいと、
絵のこと、文学のこと芸術の話しに花が咲くのだった。
母と友人は、珍しくて、楽しくて、面白くて、わくわくし、
でも、こわごわいっしょにいたそうだ。
モデルをしているという女性の経営する喫茶店に行って、
コーヒーを飲んだりもしたと。
仲間たちがお酒をのみながら、芸術の話しをしだすと、終わりが来ず、
とうとう夜になってしまうこともあり、
時々、そのアトリエに置いてあったベッドに、
友人と泊まらせてもらったりしていたそうだ。
その母が77才のころ、その友人が、はるばるたずねて来た。
私は、ふたりを静かな喫茶店にいざなった。
二人は時を越えて少女に還ったようだった。
手をしっかり握りあって、声をそろえて、ちいさな声で、
ドイツ語の歌を歌い始めた。映画の挿入歌だったのか?
私はただただ驚いて、二人に見入った。
いつも明るい母は、鼻歌をよく歌ってはいたが、
ドイツ語の歌を披露したのは、それが最初だった。
ひょっとして、デートリッヒの歌だったかもしれない。
ああ、あの歌を、もう一度聞きたいと思う。
そして、誰の何の歌だったのかを、知りたい。
そうすれば、もう一度、母に逢えるかもしれない。