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カテゴリ:母
1993年に、私達は引っ越しをした。
82才の母をひとり残して、他県へ赴任するけれど、所詮、 私達はそれまでもずっとそういう人生だった。 母は、ひとりで、私のすぐ上の姉、植物人間の夏子姉さんを看病をしながら、 自分も度々入院をくりかえしていたので、私はしょっちゅう5時間かけて、 母の見舞いに帰っていた。 その頃、 「母の年令なら、いつ亡くなってもしかたがない。そうだ、ビデオを撮っておこう」 と思いついて、帰る度に撮った。 そのテープが20本くらいあるので、それをDVDに移すことにした。 ビデオカメラがないとダビングはできない。 でも、すでにあのビデオカメラは処分したし、ダビングを業者にお願いすると、 数万円もかかるそうだ。古いビデオカメラは日々進歩してしまって、どこにも 売ってはいないし、いろいろな人に聞いても、だれも持っていない。 出入りの電気屋のお兄ちゃんに聞いても、どこにもありませんだと~涙 そこで、10年前の知り合いのカメラ好きの人に、 電話で聞いたところ、大掃除して、もう、捨てようかと思っていたから 送ってあげると言ってくれた。よかった~~!間に合った。 それから毎日毎日DVDにダビングをしている。 疲れました。 母の88才の誕生会を盛大にした日から、 ずっと元気でいてくれたから、うれしかったが、 亡くなる一ヶ月前に お見舞いとお世話をしに家に行った時に撮ったビデオが、最後になった。 急に、兄嫁からの電話で、 「もう、助からないから、早く来て」と言うのだ。びっくり仰天した。 汽車の中に、何度も電話があって、 「もう、だめかもしれないから、早く!」と言われる度に 気が気じゃなかったが、母は、 「明日は、貴女の誕生日だから、ハッピィーバスデイの歌をうたってあげる」 と言って、歌ってくれた。 その夜、母のベッドの脇に一人で、一晩中一緒にいることができた。 次の日、母は、一日中目をつぶって、ベッドの枠を ぎゅっとにぎりしめて寝ていた。夕方、6時半ごろ、母は、力尽きた。 前の月にビデオを撮った時、3時間も自分と夫の人生を語りつづけた母。 すさまじい気力だ。 もっともっとしゃべりたかっただろうに、私のほうが疲れてしまって 「お母さん、もう、これくらいにしましょうよ」と言って終わった。 あんなに強い強い母が逝ってしまった。 ビデオを整理していると、 こころから、母の尊いまっしぐらの生き方に感嘆する。 こんな母を持って生まれた私、感謝の念でいっぱいだ。 私は長く、ビデオを見ることができなかった。 何故なら、あまりにも母が恋しくて、つらすぎて、 泣いてしまい、もとに戻れないような気がしたからだ。 あれから、10年経ったし、早くDVDにダビングしないと、 テープが劣化して、再生できなくなっちゃうし、もう、 再生のビデオカメラも手にはいらないと思い、やっと始めた。 ダビングしながらおそるおそる見たら、泣かずに見れてよかった。 お母さん ありがとうございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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