母は、人間としての正しい生き方をひたすら求めていたから、
ふらふらと恋愛遊戯に傾くことは、あまりなかったようだ。
その頃の女学生たちは、着物の半襟だけには、お洒落の限りを尽くす。
絞りだったり、刺繍だったり、縮緬だったり、染めだったり。
(半襟というのは、着物の中に着る長襦袢の飾り衿のこと)
ところが、母は、呉服商のむすめだったにもかかわらず、
いつも、無味乾燥な黒の半襟をしていたそうだ。
クラスは、軟派と、硬派に別れていて、彼女は硬派のボスだった。
登校すると、「薫子さん~、ほらぁ~恋文よ~」などと
見せびらかしにくる軟派の娘もいたが、
「ふん」 と思っていたそうだ。
結婚してから、今で言う、ボランティアの奉仕活動に
明け暮れていたが、
町の有力者夫人が、ひらひらと現れて
「あら~ご苦労様~~薫子さん大変ね~」と、言うだけなのを、
苦々しく思った母。
いきなり、
「ご苦労様とおっしゃるなら、少し、活動なさったらどうですか?」と
どなりつけてしまったそうだ。
それが、とんでもない大騒ぎに発展して、責任者がすっ飛んできて、
ひどくひどく叱られた。
昭和7年頃の世の中は、まだまだ封建思想が強い時代だった。
若い女が、町の有力者夫人を負かしてはいけなかった。
さすが強気の母も、しょんぼりしていると、お爺さんが近づいてきて、
「薫子さん、あのな、
世の中は、正しいから良い、正しくないから悪いと
いうものではないんだよ、人は、特に女性は、
周りから愛される人間じゃなくちゃ協力者が得られないんだよ」
と言われたと。
母は、目からうろこが落ちた。
ああ、今まで、真実の生き方、正しい生き方が、一番すばらしいと
思いこんで生きてきたが、
人から愛されることが、正しさより上だなんてことは、
知らなかった、と。
そう気が付いた母は、その日から、
お化粧をし始め、お洒落をしたり、女性らしいやさしい表現を
試みたりするようになったそうだ。
私の知る母は、いつもいつもお洒落だった。
身だしなみを整えて死に向かった。