キジモナカズバウタレマイニ… (その1)
今日、仕事のあと、師匠の奥さんと話しをした。そして、洗いざらい話してしまった、この1年半の言葉にならなかったことを。こんな話になったのも、師匠のところの仕事が近年、先細りし始めていることが発端だった。実は、おいらの仕事も、師匠が一代で築きあげてきた技術あってのものだ。おいらが言うのもなんだが、本当に手間暇のかかる仕事だ。しかも、これを手にとって使ってくれるひとも、ある程度この道を極めたひとでないと、このものの良さはわからない。だから、結局お客さんとして残ってくれるのは、『プロ』の方ばかりなのだ。同じような業種は、あまたあるけれども、これほど丁寧な仕事をしている工房は、おそらく日本でもそんなに多くない。大手の業者もあるけれど、どこも『粗悪なもの』を平気で表にだしている。しかも、それをありがたがる消費者がいるんだ、それも、いっぱい。だって、そういう方々あってのこの業種であり、このブーム、だから。うちの工房だって、口当たりの良い入門編のものを作って売る方法もないわけじゃない。その方が、濡れ手に粟かもしれない。だけど、そんなもんは実りがない。物は物にすぎないけど、物だってひとを育てるし、物だって文化も育てるんだ。だから、師匠は今のやり方にこだわる。どこにも負けない実りのある物作りだから。実に地味で無骨で、泥臭い見かけではあるけれど。だけど…。師匠はしょせん職人だ。技術にこだわる。そして使い手さえ結果的に選ぶ。ビジネスにならないのだ。もう師匠も若くない。麦太やおいらの力が必要になってる。なのに自分がやってきたようには、十分に動かない後身がもどかしいのだ。奥さんは、それを心配していた。工房の体制を立て直して、弟子と集まって相談してやっていく時期に、さしかかっているんじゃないかと。そして、こうも言った。技術を極めるまでは、兄弟子である麦太をないがしろにする態度を改められないかと。ビジネスとして割り切れないかと。だから、話した。あまりに馬鹿馬鹿しいこととわかっていても。稚拙な話だと思われても。(つづく)