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カテゴリ:陽だまりの彼女
真緒と一緒にいるときの浩介が自然と幸せそうな表情を浮かべるものだから、真緒の輝きが増す。
真緒を絶賛する人が発したその言葉の意味を、残念ながら発したご当人は全く理解していなかった。 この映画を支え空気を形作り、馥郁とした余韻を醸す土壌を作っているのがその幸せそうな浩介だということ。 いや、その人も実は浩介のその表情が鑑賞後の余韻につながるとは書いておられるのだが、この映画におけるその重要性を認識しておられないように見受けられた。 幸せそうな顔をしているから幸せだという空気が生まれるとは限らない。 「幸せ」感や「愛しさ」感を観客に空気として伝染させられる役者さんはそう多くない。と、個人的には思っている。 表情を浮かべられる役者さんはごまんといる。そもそも基本中の基本だ。できない人もいるけど。 でも、その幸せがこちらに伝わり、こちらまで包み込んでくれるような、そんなことは滅多にない。 松本潤は、それを感じさせてくれる稀有な役者の一人なのだ。 花より男子の時もそうだった。 あの映画の感想で、「嵐のコンサートに似ている」と書いたように記憶している。 いつまでもその幸福な空気感の中に浸っていたい。そう思わせてくれる。 陽だまりの彼女も同じだ。 観終わった後、余韻が続く。というより、観終わった後どんどんその余韻が強く、濃くなる。 ただ、「愛しさ」や「幸せ」には「相手」が必須で。 上野樹里と葵わかなという二人の女優さんが魅力的な真緒を作り上げてくれたからこそでもある。 私は中学時代の浩介が真緒を庇ったあと孤立してしまう登校シーンが大好きだ。 周り中から白い目で見られ、こそこそと陰口をたたかれる、あの状況で、全く空気を読むことなく、天真爛漫な笑顔としぐさで「浩介!」とじゃれつく真緒。 何の打算も不安も疑念もなく自分をまっすぐに「好き」でいてくれる存在は、人にとってかけがえのない支えであり、この上なく大切な宝物だ。 あの真緒の笑顔がどれだけ浩介にとって救いだっただろうと思うと、真緒が愛しくてたまらなくなる。 大人になっても真緒はひたすらまっすぐに「浩介が好き」であり、まっすぐにその思いをぶつけてくる。 邪念のない純粋な「好き」を上野さんとわかなちゃんが表現したからこそ、浩介の「幸せ」が生まれているし説得力を得ているのだ。 そして、浩介の「幸せ」が真緒をより輝かせる。 なんと幸福な好循環であることか。 その円環の重要な要素を過不足なく演じきった松本潤に拍手を送る。ということは円環のもう一つの重要な要素を過不足なく演じきった上野樹里さんにも拍手を送る、ということだ。 この二つが同義であることは明白だと私は思ってる。 さて、これで書きたいことの一つは書いたのだけど、実はもう一つ書きたいことがあって。 それは 真緒の思慕に「愛」を感じない ということ。 波風立つような言い回しで申し訳ないのだけど。 このエントリでも少し触れたけれど、真緒の想いは特殊なんだと思うのだ。 「愛」が相手を思いやり、相手の幸せを願う気持ちであると定義するならば、真緒の想いに私は愛を感じない。 彼女はただ「好き」を押し付け、貫いているだけだから。 浩介の立場や浩介の気持ちを慮る場面はことのほか少ない。最初は皆無だ。 ただ、自分勝手に押し付けているだけともいえるその「好き」が、特殊なのだ。 そこには打算が一切ない。人間の「好き」にたいてい紛れ込む「好かれたい」「よく思われたい」「自分の物にしたい」なんて邪念が微塵もない。純粋な「好き」。 相手の幸せを願いもしないが見返りを求めることもない。 ただただ、相手が好き。 だから見ていて、真緒って、いうなら我儘だったりするのに、ちっとも嫌な感じを受けないのだ。 それどころか純粋でキラキラしていて、好ましい。 人間ではない魂だからこそ持ち得る「愛」ではないマジりっけなしの「好き」を樹里さんとわかなちゃんは的確に表現していると思う。 でね。 だから浩介は嬉しくてたまらないんだと思うんだ。 人はそうやってとことん「好かれてる」って味わえることなんて滅多にないから。 無償の愛の形の一つである親の子を想う気持ちですら、そこまで純粋ではありえない。(もっともだからこそ深く人間らしいのではあるが) 不思議なことに人間であるはずの浩介も、真緒を好きな気持ちにまじりっけがないんだな。 多分それは「好かれてる」という盤石の前提があるからなんだろう。 一番ファンタジーなのは実はこの点かもしれないね。 そういえば、私は最後の公演の場面がわりと苦手なのだ。 真緒のセリフは表現を変えれば「生まれ変わってもあなたにつきまとって離れないから」っていうことだから。 けれどもそれがそういうニュアンスで聞こえないのは、私は松本潤の功績だと思っている。 だって浩介って真緒が好きなんだもん。 彼女が猫だろうと人間だろうと、真緒が好きなんだもん。 彼は 「お前、ブライアン食ったろ」 という一言に、その想いを込めた。見事に込めた。 そして、真緒の「ごめん」 ごめんね、浩介。と、彼女が謝罪を口にするのは映画では二度だと記憶している…けど間違いかもしれない。自信なし(^-^; 一度目は夜のバスケットコートで。 二度目は、ここだ。 「ごめん」ということばは相手を慮る言葉でもある。 上で真緒の浩介への想いに相手を思いやる気持ちは感じないと書いてるけど、実は真緒は徐々に変化を遂げている。(これ書いとかないといけなかったね) 純粋さはそのままに、少しずつ、人間らしさを纏い始める。 そして、この海辺の場面での「ごめん」は、完全に浩介の人生を思っての言葉なのだ。 私のわがままであなたを巻き込んでごめん。 でもどうしてもあなたに会いたかった。 あっちこっちに話が飛ぶが、映画の前半、真緒が会社の窓越しに浩介の姿を指で辿るシーン、大好きなんですよ。 どんだけ真緒が浩介を好きか、あれだけの動きでびしばしと伝わってくる。 演出の妙もあるんです三木監督素敵です。 だからどうしてもあなたに会いたかった、という一言がぐっとくる。 そうだよね、それほど真緒は浩介が好きなんだもんね。って。 樹里さんは映画全体を通してその台詞に説得力を持たせてる。 どうしてもあなたに会いたかった、その気持ちに正直に生きた結果あなたを悲しませることにもなった。ごめんね。 真緒の気持ちも浩介の気持ちも・・・・ああっ切ないっ! あたしゃこの真緒の変化がエピローグの人間への転生につながっているんじゃないかと勝手に解釈しとるんですがね。 とまれ、浩介の真緒への愛が確信できるからこそ、公園での真緒のセリフも二人の絆の強さを感じさせるものになってると思うのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013/11/16 10:50:49 PM
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