「あゝ、荒野」覚書
11月19日。青山ソワレ。芳子の母親殺しの告白を聴いている時。鋭い眼差しがふっと翳って、ひどく哀しい目になり、虚空を見上げて。辛そうな光を浮かべ、それからギュッと目を閉じた。つらそうに。そして再び目を開けた時、また鋭い眼光に戻ってた。ちゃんと聴いている。ちゃんと心が芳子の話を受けとめている。そして、たぶん身につまされたのだ。窺い知れる表情、演技だった。それを経ての欠伸そして「俺は女の話は信用しないんだ」の言葉に新次の優しさを見る。結果的に優しくなったのではなく、優しさだったんだ。松本潤の作り上げた新次は、深くて優しい。チンピラなのに。なんでバリカンに惹かれないんだろう。ずっと考えてた。自分に自信が持てない、劣等感にさいなまれる弱い魂。惹かれないわけがないのに。でも、考えるうちになんとなく分かってきた。バリカンには武器がある。身体的な能力、ボクシングの才能。それがあるのに、彼はそれを見ようとしない。信じない。周囲から寄せられる好意もそうだ。根底に蔑視と軌を一にする同情が横たわっているにしても、それでもバリカンには好意を寄せてくれる仲間がいる。けれどもそれをバリカンは受けとめられない。気づけない、のかもしれない。だから彼は、育ててくれた片目の元を躊躇なく去れるのだ。新次と戦いたい、という己の欲望をためらうことなく最優先させることができる。そんな風なバリカンになってる。「なんか、世界の終わりみたいだな」という新次の呟きに顔を輝かせ、喜びに満ちた表情で「世界はもう全部まぼろしだ!」と叫ぶバリカン。「世界が全部まぼろしなら…ここにいるおれたちは何だろうな」という新次のつぶやきが切々と胸に沁みた。愛したい。だが愛するためには愛される必要がある。そう考えるバリカン。愛されなければ愛する力を得られないのだと。彼がリングで叫んでいるのはそういうことだ。愛されたい。自分の存在を認めてもらいたい。自分の存在の許しがほしい。だがそのために何をすればいいか、彼には分からない。すがるようにして新次と戦おうとするバリカン。リビドーがタナトスへ向かう。と表現していた人がいて、そうかと思った。新次とバリカンは同じなのだ。しかしバリカンはタナトス(死への欲動)へ、新次はエロス(生への欲動)へ。同じくらい彼らは貪欲なんだ。方向が正反対なだけで。小出君は決してバリカンを善なるもの、無垢なるものとは捉えていないんじゃないかと想像する。(あくまで想像です。全く違ってる可能性大。勝手な思い込みしてごめんなさい小出君)でなければ、全て滅ぶ全て幻と、あんなに輝く顔で嬉々として口にするわけがない。と思った。抑圧された自我がマグマのようにふつふつと滾っているイメージではないのか。その箍が外れる瞬間があって、それが「荒野」なんじゃないのか。そしてそれは破壊衝動となって、唐突に彼に降りてくる。強い相手に向かう時、娼婦を殺した(と思っている)時。最後に、自分を、殺す時。つかの間の抑圧からの解放。バリカンは、愛されたい。~されたい。でもままならぬ。どうすればいいか術が分からず途方に暮れる。独白で心情を吐露するしかない。自分の気持ちを上手く言葉にして人に伝えることができないから。だから愚痴と願望を語る。周囲への愚痴ではなく、矛先は自分自身だ。新次は、やられたら倍返しだが自分から手を振りあげることはない。現実から逃げるのではなく受け入れて、自分がイニシアチブを握ろうとする。それは見方を変えれば傲慢に他ならない。彼は独善的で自分勝手だけど他人に何も望まない。押し付けられることを拒む代わりに相手にも押し付けない。だから愛されたいとも思わない。~されたいなんて思ってない、それどころかそんなのは鬱陶しい。常に能動。常に主体。自分が~したい。そのために全てを受け入れる。だから彼は愚痴ることがない。モノローグで心情を吐露することもしない。だからある意味潔く、見ていて小気味よいのだ。どちらも何かを渇望していることに変わりはない。貪欲さも同じである。最終的に愛と存在意義を得るために、バリカンは自分の命を差し出す。贖罪羊のように。それはバリカンのエゴだ。彼は何に向かって自分を差し出したか。自分に向かってだ。新次はそれを分かっていて、それでもそれも受け入れるのだ。以上、メモノートに思いついた時に書きとめた覚書でしたん。ばらっばらなので、読みにくいしくどいしわけわからんよな。