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カテゴリ:言語
国旗掲揚と国歌斉唱の強制に違憲判決が下された。その是非については、今さらぼくがしゃしゃり出て見解を述べることもないだろう。
だから、ここでは強制の是非はもちろん、国旗掲揚、国歌斉唱の是非についてもいっさい何も言わない。 ただ、不思議に思うのは、なぜ国旗、国歌とあって、国語がないのかということだ。 国を追われ散り散りになった民族、さらには国そのものを滅ぼされた民族が、再びひとつに結集する原動力になるものは、旗でもなければ歌でもない。それはまさに言語にほかならない。あのポーランドが東西の強国に挟まれ、歴史に蹂躙されながらも今日あるのは、ポーランド語という言語があったからである。 複雑な様相をきわめたバルカンも言語単位で再編成されつつある。ベルギーはフラマン語とフランス語というふたつの言語があるがゆえに、今かつてない試練の時を迎えている。 ヨーロッパの言語はみな、隣接する地域の言語とよく似ている。お互いに自分たちの言語を使っても意思の疎通をはかることができるほどである。だけど、けっして交じることはない。もちろん、外国語があまりできない者たちはまちがいだらけの言語をしゃべっているが、よくできる連中が少しでも妙な語法を使うと、「それはイタリア語じゃなく、スペイン語だ」とか、「フランス語じゃなく、イタリア語だ」とか言われる。 自己と他者とを区別する免疫機構が実によく機能している。もちろん、どの言語にも外来語はある。あっても本当に必要なものだけにかぎられ、むやみに増殖することはない。いわば良性である。 それにひきかえ、日本語のなかで使われる外国語由来のことばは止まるところを知らない。これを悪性と言わずして何と言えばいいのだろうか。 国旗や国歌をあれほど大事にする者たちが、「シビアな」や「ゲットする」などというおぞましいカタカナを放置する理由が理解できない。 ある意味でそういうカタカナは、いわば義歯や人工関節、眼鏡のようなものであるとみなすこともできようが、「これらの」、「より~」、「さらなる」、「すべての」、「すべてで」、「○○すべて」などを使用することは、言語の骨格そのものを英語の論理に置き換えてしまうものであり、日本語のなかを流れる全身の血液を一滴残らず入れ替えてしまうようなものである。 そういうものにはいっさい関知せず、国旗、国歌だけに執着する文部科学省、教育委員会はいったい右なのか、左なのか、まるでわからない。 「ゲットする」や「これらの」、「より~」、「さらなる」、「すべての」、「すべてで」、「○○すべて」を使う生徒を退学にし、教師を免職にしてこそ、国歌斉唱、国旗掲揚に従わない者を処罰する行為と釣り合いが取れるというものである。 語彙の一割近くを「ゲットする」や「これらの」、「より~」、「さらなる」、「すべての」、「すべてで」、「○○すべて」のたぐいの西ハワイ語で埋め尽くすアナウンサー。さらには、政治家自らが「マニフェスト」、「アカンタビリティー」や「カントリー・アイデンティティー」を使うのは、国旗で言えば引き裂いたり汚物を投げつけたりするのに等しい行為である。こういうことに対して抗議すらしない文科省や教育委員会には、国家、国旗を強制することはもちろん、国歌斉唱や国旗掲揚をする資格すらないと言っても過言ではない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年10月26日 09時00分45秒
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