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カテゴリ:情報量理論
 さて、このように用語で表してしまうと、とてもむずかしいことを言っているような印象を与えてしまいます。かといって、用語らしきものを使わないと、そのときは易しく感じられても、その場かぎりのものになってしまい、のちのちまで頭のなかに残りません。

 そこで、とりあえず「形式」と「情報」ということばを使わせてもらいます。本当はけっしてむずかしいことではありません。

身近なものを例にとって考えてみましょう。「いやよいやよも好きのうち」というのがありますね。みなさん、ご承知の通り、口では「いやよ」と言っていても、本心はまんざらでもないということです。

 ここで「いやよいやよ」が形式に相当し、「好きのうち」が情報に相当すると考えてください。

 また、これなどはどうでしょう。物を探していて見つかったとき、「あった」と言いますね。形の上では過去になっています。もう少し正確に言うと、過去の意味を表すときと同じ形になっています。でも、実際には探していたものがそこに現在、あるわけです。

 形は過去ですから、「むかしそこにあった」と同じ形式をとっていますが、そこから得られる情報は「探していたものが見つかって、そこにある」ということです。

 

 学校はどうでしょう。「今日は学校がない」と言います。「今、学校にいる」と言うときの「学校」とまったく同じものでしょうか。ことばでことばを説明すると、堂々巡りになってしまいますが、「今日は学校がない」というときの学校は授業という意味ですね。「この村には学校がない」と言うときの「学校」とは明らかにちがうものです。形式は同じ「学校」でも、そこから得られる情報はそれぞれ「授業」、「施設としての学校」であるわけです。

 会社についても同じようなことが言えます。「私は会社を経営しています」と言うときの「会社」と「今、会社から電話しています」の「会社」とは同じものではありません。

 ここでわかっていただけるでしょうか。私たちはまったく同じものを耳にし、目にしていながら、その形式が伝えようとする情報を無意識のうちに引き出しているわけです。


 このように形式と情報の問題は、日本語のなかで、日本語を使いながら、いくらでも考えることができます。やさしいことばを使い、教え方さえ工夫すれば、小学生にでも教えることができます。外国語を学習する前に、この形式と情報に対する理解が深まり、ふだん無意識に使っていることを意識的に考えることができるようになります。

 たとえば、英語で「まで」= untilと教えると、とたんに混乱を招いて、by とのちがいを説明するのに苦労することになります。

 どうして、たかが外国語にすぎないものを教える前に、母語のなかで「まで」と「までに」のちがいをしっかり意識させるようにしないのでしょうか。

 日本語の隅から隅まで、しっかりと意識させるようにしておけば、その時点でどんな言語を学習するにしても、面白いように頭に入るはずです。


 ここで、今一度原点に戻りましょう。「いやよいやよも好きのうち」のような具体例は、形式と情報という問題を意識するきっかけをつくるために出してきたもので、やや厳密さを欠くものとなっています。

 形式とは何かと言えば、何らかの情報をデータに定着させるときの音、文字、語順、文法上の規則、文の構成など、あらゆるものが形式になります。


 たとえば、同じ犬でも言語によって次のようにさまざまに異なります。


 日本語     犬
 フィンランド語 koira
 エストニア語  koera
スペイン語   perro
 フランス語   chien
 イタリア語   cane
 ドイツ語    Hund
 ポーランド語  pies
 英語      dog
 シンハラ語   ばっら
 韓国語     け 


 シンハラ語と韓国語だけは文字表記ができないので、便宜的にかなで書いています。ご覧の通り、それぞれ音もちがえば、文字もちがいます。それがすなわち言語による形式のちがいであるわけですが、では何もかも形式のちがいだけで、どの情報子(単語と言ってしまうと、場合によって単語とは言えない場合があるので、情報子ということばを使うことにします。おおまかには単語とそう変わらないものと考えてください。これについてはいずれ説明します)もまったく同じ情報を担っているかというと、そうでもありません。

 形式と情報には完全に切り離せない面があります。それが言語のやっかいなところでもあります。

 どの情報子もほぼ生物学上の犬を表していますが、スペイン語やフランス語のように、それぞれperra、chienneとなって雌犬を表すことができるものもあります。日本語では「雌」という別の情報子をつけて、雌の犬であるという情報を表すことになります。もちろん、どのようにして雌の犬であるかことを表すかということも、それぞれの言語の形式であるわけです。

 このなかには、そのまま語尾を変化させて複数形を作ることができる情報子がいくつもありますが、複数形そのものはあくまで形式であって、それぞれの複数形から得られる情報は微妙に異なります。

 日本語では犬そのものを複数形にするよりはむしろ、「犬が二匹いる」、「犬が何匹もいる」、「犬が群れている」のように、別の形で複数であるという情報を伝えることになります。犬ら、犬たち、犬どもにように形式だけにこだわって複数にすると、単に複数であることを表す以外に、どうも妙な情報が加わってしまうことがわかるはずです。


 また、日本語で「幕府の犬」、「政府の犬」と言うと、そこで使われている犬はもはや生物学上の犬ではなくなってしまいます。日本語では、「この」形式で「この」情報を伝えるという約束事が成立しているわけです。もちろん、これなどは、その約束事を知ったうえで、相当意識的に情報を処理しているとも考えられます。


 ここに書いたことは、改めて私が説明しなければならない類のものではありません。ことばに接するとき、単に形の上だけのものなのだろうか、それとも何か特別な情報を担っているのだろうか。そう考える習慣をつけることが大切です。そうすれば、外国語を学ぶのにも、翻訳するときに原文の情報を過不足なく伝えるのにも、必ず役に立つはずです。


 次回は語順にかかわる形式と情報の問題を取り上げます。



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最終更新日  2006年10月31日 19時25分08秒
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