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カテゴリ:言語
戦う相手をまちがえてはいないか。 外国語の学習に挫折した人は、必ずといっていいほど、まず自分の能力に目を向ける。自分の才能なるものを全否定したくないと思う者は、その次に教材や先生の教え方などに責任を負わせる。 挫折してもなお、あきらめきれない者はだから、専ら教材や学習法をめぐって無間地獄を彷徨うことになる。 もちろん、そのこと自体、これっぽっちもまちがってはいない。 しかし、どれほど事細かく教材や学習法、教室、教え方、先生の教え方などを検討してみても、真に問題となるものを突き詰めていけば、ごくごく単純な一点に行き着くほかないはずである。 それこそがほかならぬ「時間」という問題、いかに時間を確保するかという問題である。 もちろん、時間がすべてではない。(「すべて」というのは本来、このようなときに限って使うもので、昨今やたらと「すべて」を使う人が増え、本来の使い方すら控えがちになってしまった。コンビニで「すべていっしょでいいですか」と言う輩がいるが、すべては本体、もっと抽象的なものに使うもの。) 学習法が根本的にまちがっておれば、単に時間だけの問題ではすまない。 ところが、外国語というものは、スポーツやゲームと同じで、ルールと定石と戦術がある。どんなスポーツやゲームでも、ルールを覚えただけではお話にならない。そのうえに定石を覚えて戦術を覚えなければならない。 だからこそ、高校大学の運動クラブは毎日ある。それだけの時間が必要だということだ。ルールや定石を覚えるだけなら、そんなに時間はいらない。戦術を覚え、そこから自身の戦略を確立してはじめて戦えるようになる。そのために厖大な時間が必要なのだ。 外国語だって同じことで、学校ではルールは教えてくれても、定石すら満足に教えてくれない。戦術に至ってはほとんど皆無。 具体的には、学習しようとする言語の母語話者が、自身が思ったことや考えたことをその言語の文法を駆使していかなるかたちで伝達しようとしているかを知ることである。そのためには、相当な量の原文にふれなければ何も始まらない。 その時間を確保できないことには、外国語を身につけることは絶対にできない。 高校生が何らかのスポーツで強くなることができるのは、クラブ活動というものがあって、それが市民権を得ているからである。クラブ活動としてスポーツをしている間は、「お前、そんなことをしている暇があったら、勉強しなさい」と言われなくてすむ。 いかにして外国語をモノにしようかと考えるうちに、その学習法を模索しているように自分でも錯覚してしまう。本当はいかにして時間を捻出するかを模索しているにすぎないのに、少し習いに行ってはモノにならないといって自分の能力の問題だと考えてします。 そんなことはない。20人のうち19人までは、時間さえ確保できれば必ず外国語をモノにできる能力をもっている。 だから、「学習法」なんてのはほとんど無意味である。時間を確保する方法を教えるのでなければ、何の意味もない。ただし、人それぞれ生活時間がまるでちがう。事情がちがう。だから、「こうやれば時間が確保できます」なんてことは、他人に教えることができない。 近藤誠が「病気と戦うな。医者と戦え」と言っている。 外国語の学習では、「能力と戦うな。時間と戦え」と言いたい。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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