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カテゴリ:教育
毎日さまざまな事件や不祥事が報道されるなかで、ぼくは次の3つのものには案外寛大である。 ひとつは脱税、もうひとつは昔のココム違反などの政治犯罪、最後のひとつが学歴詐称である。といっても、ココム違反を除いては積極的に推奨しているわけではない。 脱税にしても、人間の法に反する脱税には寛大だというだけで、イスラム社会で言う神を欺く脱税をよしとしているわけではない。 最後の学歴詐称。寛大というか何というか、要するにばかばかしい。 大阪市では965人の学歴詐称が発覚したというが、これまで大阪市に宣戦布告をつきつけてきたさしものぼくも、こんなことをネタに大阪市をゆするところまで堕落してはいない。 そもそも、豚と牛との間には歴然としたちがいがあるからこそ、豚を牛と偽ってはならないのであって、本質的に同じものを東北では豚と呼び、九州では牛と呼ぶのであれば、何ら問題など起きないはずである。 翻訳をさせてみて、たとえば東大出や京大出と、数ある短大出との間に決定的な差を感じたことは未だかつてない。いやむしろ、人によっては京大出より短大出の方がよくできる。 だから、ぼくの講座の申込書には学歴を記入する欄がない。 ぼくの知りたいのは、どんな翻訳をするかであって、どこの大学を出たかではないからだ。 A大学とB大学との間に本質的な差がないのであれば、学歴詐称など社会的に何ら意味をもたないことになる。 それよりも大きな問題となるのは、ある大学を出ていれば当然身についていてしかるべきであると世間が考えるに足る能力を、その大学を出た学生が身に着けていないことだ。 たとえば、このぼく、歴史を専攻したことになっているが、それにしては歴史に関してあまりにも常識を知らなさすぎる。それでもぼくが大学に卒業証明書を請求すれば、人目をはばからず史学科西洋史専攻と書いた立派な「公文書」を発行してくれる。それ自体、詐欺もいいところで、ぼく自身がそれを悪用しようなどと考えたりすれば、世間にとってこれほど迷惑なことはない。 某外大のドイツ語学科を卒業したというので、かなりの信頼を置いていた人が実に初歩的な単語の意味をまちがって覚えていたことがあって、あやうくとんでもない訳文を納品してしまいそうになったことがある。 ぼくをはじめ、学歴と実態との間には実に大きな落差がある。A大学とB大学との差など、有効数字の考え方を適用すれば、ゼロに等しいといえる。 学歴詐称に目くじらを立てる前に、たとえば某外大のドイツ語学科を出たのであれば、ドイツ語に関するかぎり全幅の信頼を置くことができるような世の中を作ってもらいたい。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年06月29日 01時05分01秒
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