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カテゴリ:言語

 解釈という名の虚構

 外国語を扱うときによく言われるのが文の解釈である。何も学校英語のように本来ありえない日本語を動員して、どこの国の言語かわからないような奇妙奇天烈な文をでっちあげることを言っているのではない。

 どのことばがどこにどうかかっているかをはっきりさせ、語尾変化などに表れる文法的な目印を逐一明確にしていく作業を、人は解釈と呼んでいる。

 翻訳の場合、まず解釈があって、そのうえでいわゆる置き換え、形式を変換する作業が始まると考えられている。
 いや、翻訳に限らず、会話でも文法的な説明はつきものである。
 言い換えれば、まず解釈があって、そのうえでこの表現を使いこなしましょうというように教えられる。

 ここで、重要な問題がひとつ浮かび上がる。人が母語を操るときに解釈などということはほとんど意識にのぼらないはずである。解釈という作業が必要になるのは、ある程度以上難解な文を、批判的に読んだり鑑賞したりしようとする場合である。文法の理解に問題があれば論理を読み違えることがあるというよりはむしろ、自らが追おうとしている論理に思考がついていけるかどうかが問題である。
 思考力がなければ、母語であろうと外国語であろうと、そこに展開されている論理を読み取ることはできない。外国語の場合には、自らの無能を語学力の所為にすることができるという隠れ蓑があるだけの話である。

 別の面から考えてみると、われわれ日本人が日本語を聞くとき、日本語を読むとき、文法のこと、解釈のことなどは意識にのぼらない。
 脳裡に浮かぶのはひたすら、その言語を媒体として相手が伝達しようとする情報である。もっとやさしく言えば、相手が何を言いたいか、何を伝えたいかということであって、どのような構造の文にどのような文法を駆使してそれを伝達しようとしているかではない。

 当然、解釈というものは、何らかの文を目にしたり、耳にしたときに母語話者の脳裡に映し出される情景とは別のものである。
 してみると、その別のものを手がかりに訳文を作り出そうとする行為とはいったいいかなる行為であろうか。

 本当に必要なものは、文の解釈ではなく、その文を読むことによって母語話者の脳裡に浮かぶものを知ることではなかろうか。

 原文は原文のまま理解することが重要であると説く人もいる。それはそれでけっしてまちがってはいない。しかし、その多くは、原文のひとつひとつの単語の由来、文法的な機能などを日本語を解さずに理解することが大切であると考えている。
 はっきり言って、そんなことをしている母語話者は一人もいない。
 知り合いのイギリス人が、「日本人のよくないところは英語をさらっと読めないことだ」と言っている。

 さらっと読むとはどういうことか。文法や解釈などは、ちらっと横目でみながら、情報だけを追うことである。


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最終更新日  2007年08月06日 13時50分42秒
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