|
カテゴリ:ファッションビジネス
2013年、繊研新聞社繊研賞で三越銀座と松屋の合同イベントGINZA RUNWAY(歩行者天国初の屋外ファッションショー)が表彰された懇親パーティーで友人のアパレルメーカー会長からH2Oリテイリング(阪急阪神百貨店)椙岡俊一CEOを紹介されました。「二人はきっとウマが合うと思うよ」と耳打ちされて。
それから数日後椙岡さんから電話があり、早速二人だけで会食することに。そのことを友人に報告したら、「椙岡さんは我々取引先とはほとんど会食しない、接待ご飯には乗らない珍しい経営者だよ」と教えてくれました。そんな人からサシご飯に誘われたのでちょっと緊張して新橋の料理店に出かけました。 故・椙岡俊一さん 会食の冒頭、私はニューヨーク時代に一番印象に残っている百貨店マンは当時阪急百貨店紳士服部長に就任したばかりの松田英三郎さん(のちの阪急百貨店社長)だったと切り出しました。 繊研新聞社特約ニューヨーク通信員をしていた関係で私はたくさん出張業界人と会いましたが、最も真面目な業界人は松田さんでした。「見ておくべき百貨店紳士服売り場を教えて欲しい」と言う松田さんに、「いま見るべき百貨店紳士服売り場はありません。それより小さなブティック視察を勧めます」と9つのショップをあげたら「明日もお時間いただけませんか。9店舗回ってなぜあなたが推薦したのか自分なりの考察を聞いてください」。翌日も会食することになりました。 ところが、約束の時間が40分過ぎても松田さんはレストランに現れません。携帯電話のない時代ですから連絡は取れません、そのまま待ちました。小1時間経過、汗だくで現れた松田さんは「8店回ったところで時間がなくなり、タクシーが渋滞に巻き込まれて遅くなり申し訳ありません」と。電話もできずきっと大慌てだったでしょう。そして松田さんは自分なりの8店舗の感想を述べ、なかなか楽しい意見交換の会食となりました。 そんなことを椙岡さんに話したところ「明日大阪で久しぶりに松田とランチするんですよ。私を社長に推薦したのは松田なんです」としばらく松田エピソードに花が咲きました。友人が言ったように、私たちはなぜかウマが合いました。 それから数日後の朝、再び椙岡さんから「今日の午後は松屋にいますか。こっちはまだ大阪ですが、獺祭のいいやつ(あの頃なかなか入手できませんでした)が手に入ったのでもって行きます」と電話がありました。そして数時間後、椙岡さんは獺祭をぶら下げて松屋に。私は4階イッセイミヤケの4ブランド集合ショップを案内し、「国内ブランドでもやり方次第で外資ビッグブランドに負けない売上を上げられます。梅田阪急でやってみては」と説明しました。 その年の11月政府から話があって松屋は私を新設の官民投資会社クールジャパン機構社長に出すことに合意、私は松屋を離れることになったのです。そして、H2Oリテイリングと中国資本が共同で建設する寧波阪急プロジェクトで椙岡さんと一緒に仕事をすることになりました。最初に椙岡さんとサシご飯したときも獺祭をくださったときも私は同業百貨店の幹部であり、まさか政府主導の投資ファンド社長に就任するなんて想像したこともありませんでした。椙岡さんも驚いたでしょうね。 2021年春オープンした寧波阪急 正面インフォメーションデスク 1階にはエルメス、LVなどラグジュアリー勢揃い 日本の百貨店が海外出店でなかなか成功しないのは、現地消費者にも人気の海外ラグジュアリーブランドが欠けているからです。いまの時代まず人気ある海外ブランドをズラリ揃えないことには集客は望めません。集客できてこそ日本の優れもの、美味しいもの、カッコいいものを販売するクールジャパン事業は実現します。投資開始の前、椙岡会長にはそんな話をしました。 しかしながらラグジュアリーブランドを誘致したくても先方は簡単にいい返事はくれませんし、短時間で出店合意にサインするのは非常に難しい。ここはじっくりラグジュアリーブランドを攻めて、その上でクールジャパン拡散を図るべきと進言しました。1階にラグジュアリーブランドを1つ、2つ入れる程度ではダメです。そこで阪急百貨店でパリ、ミラノコレを視察してきた担当常務の武田肇さんが寧波阪急準備責任者に任命され、武田さんは現地開店準備室に駐在してラグジュアリーブランド側との交渉が始まりました。 パリ、ミラノブランドの幹部は毎シーズン出張してくる武田さんのことはしっかり認知していますが、寧波は人口1千万人を超える上海、北京、広州、重慶、成都のような一級都市ではないので出店には慎重姿勢、簡単に正式契約にサインしません。建物は新築完了してもラグジュアリーブランドと合意できず、寧波阪急はなかなかオープンできません。日本の国会では野党議員から「オープンが遅すぎる」と批判の声が上がったようです。 交渉に時間がかかって当初予定より3年ほど遅れ、2021年春にやっと寧波阪急はオープンしました。開店からビジネスは順調に推移、全館で年間予算の2倍、ラグジュアリーブランドが揃ったメインフロアはなんと予算比3倍の売上を計上、好調なスタートを切ることができました。が、ラグジュアリーブランド予算比3倍の報にまたも野党の一部が反発、「海外ブランドを集めてどこがクールジャパンなんだ!」と国会で攻撃されたと聞いております。 中国をはじめアジア各国における商業施設の実態を知らない政治家ですから仕方ない。日本の百貨店がヨーロッパのラグジュアリーブランドを一斉導入できず海外店でこれまでどれだけ苦戦してきたかを知らない人たちに文句言われたくない、と私は申し上げたいですね。 日本の生活文化を広めるためにはまず第一に館そのものに集客すること。日本の美味しい、優れものをいくら集めても、お客様が館に足を運ばなかったらなんの意味もありません。まずは集客、そのための必須条件は現地消費者にも人気絶大なラグジュアリーブランドを揃えること。集客さえあれば日本の生活文化を広めることはなんとかな流でしょう。上海や北京のような大都市でもない寧波には集客のためのラグジュアリーブランド導入がMUSTでした。 デパ地下には系列のスーパー デパ地下の獺祭コーナー 2015年椙岡さんは代表取締役会長を退任、2017年には相談役も退いて引退、いかなる団体や会社の役職に就くことなく2021年誤嚥性肺炎で亡くなりました。おそらく寧波阪急開店のことはご存知でも現地に足を運ばなかったと思います。 私も2018年にクールジャパン機構社長を退任、寧波阪急のオープニングには参加していません。私は昨年末杭州セミナーの帰りに立ち寄って自分たちが投資した物件を見ることができました。いつまで年間予算以上の売上を寧波阪急が続けられるかは分かりませんが、ズラリ並んだラグジュアリーブランドショップにも、日本のキャラクターグッズや化粧品、食料品の展開にも安心しました。 友人に勧められて親交が始まった同業百貨店経営者と、次に投資ファンド社長として共同出資して大型店を中国の地方都市に建てるなんて全く想像していませんでした。ウマが合ったので遠慮せずに中国進出の方向性を話すことがができて良かった、不思議なご縁です。 wikipediaの椙岡俊一さんの項目にこんな表記があります。 2000年3月初め、売上高の減少が3年続く厳しい局面で、松田英三郎社長から次期社長を指名された。松田によると、「変化に気がつく感性があり、百貨店の将来に対して夢を持っている人」という。前年6月に取締役から常務に昇格し、10月にうめだ本店長になったばかりだったが、5人抜きで椙岡の社長就任が決定した。百貨店は高質なニーズに対応する専門業態に移り、お客様全員に満足はあり得ないという持論を展開し、客層を絞り込んだ本店の売場改装も準備していた。経営改革を進めて、業界の勝ち組に名を連ねることを目指した。最初の2年間は抜本的な構造改革に着手し、2002年からは、いよいよ「今後のマーケットにどう向き合うか」という難題に取り込んだ。 松田英三郎さんも椙岡俊一さんも同業大先輩ですが、ほんとにウマが合いました。武田肇さんも時々近況報告をLINEで送ってくれます。阪急百貨店の人々はグループ創業者の小林一三イズムの話になると妙に熱く語りますが、彼らの中に創業者の血が脈々と流れているんでしょう。いい会社です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.09.07 14:54:30
[ファッションビジネス] カテゴリの最新記事
|