停滞ではなく、休息
祝日。父、出勤。娘と息子と3人で、ビデオを見たり、庭でひまわりを植え替えたり、砂場をしたり。まったりと過ごす。日祝日は保育園もないが、病院もない。以前は、そんな状況を『停滞』と感じていた。保育園に行けば発達が促される。病院に行けば、少しでも良化する。そう考えていたので、逆に家にいるときは、『何もなく、停滞している状態』なのだから、そうならないように、あれもさせなきゃ、これもさせなきゃ、と、気負っていた。今は、そう考えないようになった、というわけでもない。が、息子を授かってから考えは少し変わってきた。毎日、耳鼻科。+整形外科、リハビリ、2週間に1度の小児科の定期健診。身体が弱く、保育園に行けば何かをもらってくる。そんな彼と日祝日を迎えると、今週も無事であったことに喜びを感じる。身体が弱いのに無理に保育園に行かせてごめんね、と、抱きよせ、普段、ゆっくりできない分、目一杯抱きしめて彼を満喫したいと思う。彼もそれに応えるかのように、ぎゅっと私に寄ってくる。そう、きっと、これで良かったのだろう。娘のときも。こう、自然と気持ちがいくのだろうな、『普通』は。彼女の障碍、口唇口蓋裂にしても難聴にしても言語レッスンは母子通園である。つまり、母も学べ、週に少しのレッスンでは見につかない問題、ということである。それに加えて、口の中のケア。補聴器の管理。あぁ、摂食障害もあった。1歳半すぎまで、経管栄養のチューブも私が入れ替えして管理していたんだった。そんなこんなで『母親とは何かをするべきもの』と勝手にインプットしてしまったのだろう。自分が母親にしてもらったようにしてあげる、と、虐待になってしまうから、と必死に頑張ってきたのに、やってることは母親と一緒だったのだ。子どもの支配。管理。恐るべし虐待の連鎖。『普通』の子どもを授かっても、やってしまっていたのだろうか。それとも、こんな特殊な状況だから道を誤ってしまったのだろうか。もし、そうだとしたら、育てるのに困難な子どもを授かったことで『虐待』に悩んでいる人がどれだけいるのだろう。