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テーマ:心のかたち、人のかたち(951)
カテゴリ:ホメオパシー・整体
土日のからだほぐしのレッスンを終えて、次の日からカラダが何ともおかしな感じ。
いつもぎゅっと内側に内側に行っていたモノがみんな外の世界へ広がってしまったような。からだほぐしをした後に下の畳と一体になり、ブラインドウォークの後に大地と一体になった感覚が抜けきれないような。 火曜日は曇り空だったので、つれあいが午後から娘を海に連れて行こうと言ってくれた。(娘は私のからだほぐしのレッスンのために土日保育園だったので)。 海に入っていくとからだが海と一体化していく感覚を目を閉じて味わった。 砂浜へも大の字に寝ころんでからだを弛めると、からだが砂浜になっていくのを感じる。 「はーいつまでも砂浜になっていたいなー」と寝ころんでいたら、つれあいと娘が「はよ起きろ!行くぞ!」と呼びに来た^^; そうして海からの帰り道、発熱。 相当高熱だったように思う(翌日にラクになったと思って計ったらまだ39度以上あったので) きっと弛んだから熱を出せたのだな。からだは正直。ありがとう。 からだを弛めていくということは、こだわりをひとつひとつなくしていくということなのかも知れないなーと思う。 野口先生の「愉気法1」という本に「べき・べからずを増やしていく養生は本当は養生ではなくてからだを弱くすることをしているのだ。健康はべき・べからずを増やして守るモノではない。自然の欲求に従って病気にかかるのを防ごうとするのではなく、かかったらしめたと思って丈夫になっていく。」(本が手元にないので正確な引用ではありません。ごめんなさい)というようなことが書かれています。 私はべき・べからずを自分に課していくことで、自分を立たせていたのかな。 このこだわりをひとつひとつ脱ぎ捨てていけるだろうか。 食べ物へのこだわり、生活へのこだわり、きっとキリスト教も今の私にとってはこだわりになってしまっているんだろうな。 以前、以前suchadaさんが書かれていた日記で、「シーク教徒の方の話から神様のことにはっと気づかされた」とあり、すごいなと思った。suchadaさんはキリスト教の牧師。でも他の宗教から神について教えられるしなやかさを持っている。 また、あるMLにあったのだが、ダライ・ラマ法王は講演の中で「私は世界にどんな宗教があってもいいし、どんな宗教を信じてもいいと思います。ただ、それを通じて思いやりのある善き人間になっている事が大切だと思います。」と語られたそう。 私も口ではそう言っているしそう思っているつもりだけれども、本当にそうなんだろうか? 他の宗教を信じている義母やちっとも関心を示さないつれあいに対して、本心ではどんな思いを抱いているのだろうか、、考えさせられた。 こだわりなく自然裡に生きること、まずはカラダを弛めて深い呼吸ができるようになることからかな。 *人気ブログの最新更新情報はこちらからどうぞ。* お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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