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カテゴリ:人格統合取り組みみたいなもの
私は最近まで、自分の感情を抑圧してない、と思っていた。
表現している、とも思っていた。 でも、色々見ていくとそんなことはまるっきりなかった。 怒りを表現しても内心で怯え、人が離れていくと寂しさを押し殺して強がって、自分の本当の気持ちを抑えている。 いつの間にかそうなって行った。 そして最近では怒りを覚えても、何事もないふりをする事を覚え、怒りを表現することを忌み嫌った。 でもそれが余計な歪みだと気付かなかった。 自分の内面を見ていくと、嫌でもそう言う歪みに気付き始める。 自分の感じたこと、特にネガティブと言われる怒りやら不快感やら、悲しみ、寂しさ、憎しみ、恨み、怯えをいつの間にかすり替えて、違うモノにしていた。 違うモノとして誤魔化して、見ないふりをした。 認めてこなかった。 なぜなら。 それらを否定されてきたから、認め方を分からずにいた。 拒否をしないといけないと刷り込まれていた。 同時にそうしないと、色々と齟齬が出てやって行けないと思い込んでいた。 でも、だからと言って押さえられるものではなく。 否定することに寄って、余計に苦しい、狂いそうな気持になっていた。 それの誤魔化し方をしり、その狂いそうな気持を感じなくなっていった。 だがそれは麻痺だった。 本当は自分で自分の気持ちを認めて、表現して、昇華させていかないといけないのだと、最近知った。 自分の気持ちを誤魔化すのではなく、すり替えるのでなく、ちゃんと認めるのが最初で。 認めてちゃんと受け入れて。 たとえそれが認められないというのが、自分の本当の気持ちなら、それを無理に「認めなきゃ」と思う事をせず、ただ「認められない」気持ちを受け入れて。 その気持ちに素直になって、そこから錬金術の如く、自分の糧にして行くのがまともなやり方なのだ。 思ったこと、感じことを表現しないのも、伝えないのも、また抑圧であることに気付いた。 自分の中に納めてぐつぐつと煮えたぎる感情を、表に出さないのはもちろんのこと、 「大人なんだから」 「常識だから」 「周りに迷惑をかけちゃだめだから」 「こんなことを言ったら嫌われてしまう」 等と言い訳して、無かったことにしたり、色々感じる自分を責めたりするもの抑圧で。 でも、無意識にそうやっていることに、気付かずに抑圧を重ねていっている。 そしてそれに気づかない。 気付かずに重ねた抑圧は、時に変な方向にエネルギーが吹き出し、余計なトラブルを招いたりする。 ただ気持ちに正直に伝えるだけで、かなり違うのだと思う。 もしそこでもめ事に発展したならば。 それこそカルマ解消の良い機会なのかもしれない。 自分をさらけ出すのが怖い。 そういう自分もいる。 でもさ。 そもそも底が浅いのは分かっていて、それを隠しても、嫌でも知られてしまうモノだ。 それなら初めから曝け出したからと言って、一体何の違いがあるのだろう。 物事は全て表裏一体、どちらの目に転ぶかは、その状況次第。 ならば。 自らを偽って隠して、変な目に転ぶよりは、最初っから曝け出したほうが、納得がいくのではないだろうか。 そう自分に言い聞かせながら、抑圧を一つづつ、少しづつ解いていきたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.12.24 20:00:36
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