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カテゴリ:人格統合取り組みみたいなもの
本や人から聞いて、知識として知っているけど、どうしてもそれを止められない自分と言うのが居る。
今日は窓掃除をしながら、色々と思考が流れていくのを見ていたのだけど。 やっぱり自己正当化して、自分のやっている事を間違ってない、と思いたがっている自分は居る。 いや、それは自己正当化だろう、それはちょっと違うんじゃないか。 そう思っているそばから、それでも、って感じで懸命に壁を作るというか、何かを糊塗するというか、そう言う思考が出てきた。 懸命にその正当化しているその先に隠されているものは何だろう、とさえその時は思えなくて。 とりあえず今の自分がそう言う思考になっている、と捉えるのが精いっぱいだった。 結局私の中の誰かが、その知識を自分の中で実感したり、消化できてないのだと思うのだが、誰が、そうやって懸命に抵抗しているのかがイマイチ把握できない。 自分で自分の中に目をそらしているモノがある、と言うのは気付けてもそこに辿り着くことができない。 何か誰かが懸命にそれがばれたら自分と言うモノはおしまいだと思っている。 けど、今の自分、と言うモノ自体が周りからの刷り込みで出来ていて、本当のオリジナルの自分等殆どないのを考えると、例えどんなにみっともなくても惨めでも、それさえも刷り込まれたモノだから、お終いってことはないのではないかとも思うのだけど。 それでも嫌だという自分は何だろう。 自分は何も持ってない。 それは分かり切ったことで、今更プライドとか、見栄とか張るものじゃないが、それを良しとしない私が居るのも確か。 いや、それが許せなくて、自分を更に辛い方へと導いているのかもしれない。 辛いというか、これと言うモノを確立したくて仕方が無い自分が居る。 自分と言うモノを確立したくて仕方無くて、その為にはどんな辛いことを厭わない私もいるけど、同時に辛いと思うとすぐに逃げたがる自分もいる。 些細なことに自分を追い詰めて、耐えられずにハートブレイクしてしまい、逃避して中途半端に投げ出す自分。 そんな有様を許せずにさらに追い詰める自分。 そうして自己卑下と自己嫌悪の下降スパイラルに陥っていく。 そこから抜け出すために、そこにハマらないように最初っから逃げる自分もいる。 アレコレ理由をつけて、もっともらしく言って、やらずに逃避する自分。 そしてそれらをありのままに受け入れることが出来ない。 自分の都合のよいものだけ受け入れて、それ以外を切り捨てたがっている。 その在り方を何故いけないのか、理解出来ずに自己正当化を繰り返す。 他人がそうやって自分を切り捨てるのに、それを逆の立場ではダメだという人たちも許せない。 自分に都合の悪いモノを全部押しつけながら、自分が押し付けられると怒る人を許せない。 自分を顧みない奴を許せない。 そうやって全てを許さず、拒否して怒り続ける自分もいる。 そして、それらをどうすればいいか分からずに、落とし所も見つけれずに、放心して固まっている自分もいる。 そんな自分が出来るのは、それらにふたをして見ないふりをすることだけだ。 見なければ、知らなければ、何もしなくていい。 そう言う感じで逃げ続けている。 知識では色々としっても、結局それを消化できずに停まっている。 しかし、一つ一つ向き合って行くしかない。 それと知りながらも、更に辛いことにしり込みをして、逃げたがる。 納得しきれない。 一体これは何だろう? それが更に深く潜れない原因ならば、まずこれを見ていくしかないのだろうか? これさえも深く潜らせないための、トラップの可能性もあるのだけど。 でもそのトラップさえも一つ一つ外していかないと、辿り着けないのなら。 ならば見ていくのが早いのかもしれない。 本当の理解をするためにも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.02.17 20:48:31
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