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カテゴリ:人格統合取り組みみたいなもの
そういえば、勉強会で
「辛い時とか誰かに吐き出したり、弱音を吐いたりしないの?」 と聞かれて、何も答えれなかったのが、ずっと引っかかっていました。 で、それって何だろう? と思っていたら、結局それも人間不信なんですよね。 軽いちょっとした愚痴とか弱音は結構吐きます。 でも本当にショックでどうしようもないことは、自分の中だけでやり過ごしてしまいます。 どうしようもなくて、周りに救いを求めても、突き放されるか、逆にそれをネタに更に追い込まれるだけだから。 それが友人だけでなく、両親も同じだから。 両親は本当によく突き放された。 鬱陶しいとか、そんなもん何時までショックを受けているなとか、何時までもウジウジして嫌な子だ、とか。 つらいとか、どうしていいか分からないとか、そういうことは全部「知らない」と放り出された。 「それくらい自分で考えなさい」 と言って放り出されて、挙句の果てに 「何でそれくらい分からないの」 と言われることは多々あった。 それはもう小学校入ったばっかり位の頃、いや、幼稚園の時もあったかな。 だからやっぱり自分で少ない知識の中で考えて、耐えて行くしかなかった。 その癖がまだ抜けない、と言うか抜けようがない。 友人達も同じだった。 「重い」「鬱陶しい」そう言って聞いてくれないか、逆に「それくらい当たり前だ、もっと苦しめ」みたいなことを言われたこともある。 だから本当に辛いことを行ってはいけない。 そんな感じになって行った。 それとはちょっと方向性の違う感じで、 「これは私がちゃんと向き合って絶えなくちゃいけない。 弱音を吐いていい場面じゃない」 と言うのもある。 真っ直ぐに捉えて痛みから目を離さない自分が居る。 静かに座ってまなざしが真っすぐな感じで。 逃げるんじゃなくて、立ち向かって、目を見据えている感じ。 頼らないじゃなくて、頼っていい所といけない所をちゃんと弁えている感じがする。 自ら踏ん張るところと助けを求めるところが分かっているというか。 ただ行きすぎるとやっぱり人間不信みたいな感じになり、自力過多になるので、やっぱりバランスが大事なんだと。 頼らない私は傷ついている私と、そうでなく弁えている私の両方が居るんだと思う。 そしてその二人が思いっきり前面にコラボして出ると、誰にも頼らない私になるんだな。 最期の方はプライド・完璧主義人格として、最初の人間不信なのは誰だろう? ひなか律かどちらかのはずなのだけど。 やっぱり律かな? だとしたら、本当に辛い部分を押し付けていたな。 で、それが分かったとして。 これを何処をどうやって行けばいいんだろう? そうしてまた思わず呆然と立ち尽くすのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.02.19 20:33:42
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