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カテゴリ:人格統合取り組みみたいなもの
今回の震災にまつわって、ある思考癖があるのに気付いた。
「明るく、前向きに」 とか自分で思っている癖に、他人が震災とまるっきり関係ないのほほんとした話題を出すと、 「空気読めよ」 「何でそこまで切り離して考えてるんだよ、もっとちゃんとしろ」 とか思う人格が居る訳です。 で、これが誰かといったら、「律」な訳で…。 いや、明るい話題も大事でしょ?自分だってそういう話題でブログ書いたりするでしょ? って言ってもなにか許さない訳で。 ずーっと見て言ったら、一時期やたら厳格に「こうじゃなきゃ駄目」みたいな育て方をされたことがあり、どうやらその時の母親の言動が基準になっているようだった。 一般良識の刷り込み、とでも言うのだろうか。 こういうときはこういう反応をするべきだ。 ああいうときは、こういう行動をとるべきだ。 しかもこれが悲しみとか、強制とか、怒りとか恐怖とかの下向きベクトルの力で強要されていて。 それこそ自由が無くて、そうでないと罰が与えられて嫌な気持ちになる。 優秀でも愛してくれるかよく分からないのに、されに嫌な気持ちになるのは嫌だ。 いや、これじゃあ確かに律は、神経張りつめて必死になって、神経休まずに追い詰められる訳だ。 人間そういうPCみたいな決まり切った反応はしないからねぇ。 そしてそういう反応が出来ることが、「人として優れている」と刷り込まれてもいるな。 そこからそういうきまりきった反応が出来ないと、見下していいみたいな感じになっている。 取りあえず見下すのは置いておいて。 その刷り込からどうやって解放するかが先かな。 でもそうしないと「愛されない」と言う恐怖にも掴まっているし。 その根っ子はやっぱりひなからのモノで。 この辺りの恐怖心から解放しない限り、ひなも律も進まないのかもしれないな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.03.26 20:35:56
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