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カテゴリ:人格統合取り組みみたいなもの
先日、某ブログで先日の人格統合交流会のレポートがアップされてました。
そして気付いた事が、昨日の記事なんだけど。 同時に思いだした事がある。 ちょっと吹き出して、思わず認められない悲しみとか抑圧されていた事に対して、 「私はそんなに誰かに抑圧されたり、蔑ろにされていい人間じゃないっ!」 と言う事をぶちまけました。 いや、私自身そんな風に思っていた事さえも、気付かなかったので、後でびっくりしたのですが。 そもそも自分がそこまで抑圧されていたり、蔑ろにされていたという意識が薄かったのも、その時気付いて。 「しつけ」とか「教育」とかの名義で、子供の人格や人権否定、コントロールはすごいされているのだな、ってつくづく思ったり。 躾とか、教育とか言えば親は何しても良い(許される)って思っている節があったな。 それがいかに自分のエゴやプライドで、相手を蔑ろにする行為だとしても、そう言えば何でも許されるし、自分が正しいって思ってそれを認めるように、強要する。 そしてその自分の都合の悪い部分はすぐに、闇に葬って、自分は常に正しいつもりでいる。 その一連の行為を目の当たりにすればするほど、恨みや憎しみや悲しみやらが、まだまだ私の中に、無意識領域に降り積もって、封印されているようです。 同時に親の行為は私のDNAカルマとしても、それは存在して苦しんでいたり。 それらの辛かったな、ってことや、その叫びを肯定されて受け入れてもらった事も、何故か分離した意識は、遠いあっちの方に追いやっていて、その事にも驚いた。 いや、その恨みつらみは、ある時期まではちゃんと表面に出ていたな。 常に持っていて、そう思っていたのが当たり前だった。 それが出なくなったのは、自分を変えたいと思って、風水やら何やらに没頭し始めた頃かな。 楽しい事に意識を向けていて、それが楽して、そして恨みつらみを四六時中持ってないという、その気楽さに感動していたな。 そしてそれを追い求めてしまったようで。 するとリリ子が分離したのは、大人になってからだな。 そうか、それが昇華でなくて、無意識下に封じ込めだったんだな。 向き合ってなんともしてないモノは、そうそう昇華して行かないんだな。 その蓄積したエネルギーは何処にあるのだろう。 チャイルド人格達にもあるけど、あの叫びは、ひょっとして怒り人格のきぃ、なのかな。 最近、きぃの感覚が薄れていたが、ただ単にそれは私の問題なんだな。 少しづつだけど、自分の精神構造が何となく見えて来たような気がする。 もちろんまだまだ見えてない、落とし穴は沢山あるけど。 とにかく思い出したところで、メモ。 今度は何処かの遠くにやってしまわないように。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.06.07 21:08:10
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