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カテゴリ:人格統合取り組みみたいなもの
嫌悪に正しいも何もあったもんじゃない、という人もいるのだろうけど。
でもやっぱり道理にかなったものとそうじゃないものがあるな、と実感したので、書きます。 何でもかんでも嫌っちゃいけません、拒否しちゃいけません。 というのはよくないと思うのです。 それにそう言うのはハッキリ言って、無理、だと思います。 またそうやって嫌う事に対して、罪悪感を抱く必要もないと思うのです。 もちろん、表面的な物事や周りがそうやっているからとか、常識だからとか、そう言う理由で短絡的に嫌悪するのはどうかと思います。 直感的なのは仕方ないけど。 心から嫌悪する事がないと、人はそこから出る事はおろか、やっている事も惰性で何時までもおかしなことをやっていたりする。 「もう絶対に嫌だ」 「こんなところこれ以上ごめんだ」 「あんな奴と同じレベルに居たくない」 心の底からそう思わないと、人は抜け出すための努力の底力が出難い気もする。 もしくは努力の途中で、流されてしまう。 好きな事のためにする努力が一番いい、と言われるが、嫌悪から出発してする努力も悪くない。 スピだと前者しか認めていないが、そうじゃないと思う。 同じように誰かを嫌悪する事も侮蔑する事も時には必要だ。 プライドじゃない、真っ直ぐな怒りを含んだそれは、人の生きざまを変える力になる。 ただ気をつけなければいけないのは、あくまで自分の見栄のためのものでは、意味がないという事。 誰かを攻撃して傷つけるための嫌悪は、自分のプライドしか守らない。 プライドから発生した嫌悪は、自分の優越感を感じるための見下しにしかならない。 それだと何も自分は変わらないし、やっているつもりになっているだけ、かもしれん。 嫌悪して自分が変わるための行動に出る事が、正しい嫌悪の仕方だと思う。 表だっての行動じゃなくても、静かな決意も、一種の行動。 そこからすべてが変わるなら、やはり嫌悪するのも大事だと思う。 ただ何でもかんでも嫌悪して良いって話では無い。 嫌悪したら、何故そこまで嫌なのかを潜るのも大事なプロセス。 毛嫌いして、封印したり、無かった事にしたりする必要はない。 嫌悪するのも大事な事。 と、最近実感したのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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