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カテゴリ:心をめぐる冒険
自分の心の中に沸き起こってくる哀しみや、切なさ、侘びしさといった、ひとまず名付けようのない様々な感情をどんな風に取り扱うかによって、その人の人生の意味合いは大きく違ってくる。
まず、心=感情、というものにどれだけの価値を置くかという生き方の構えが問題になる。「心」を自分の中心的な世界の軸にしてしまうか、それとも「心」とは単にコントロールできるものだ、と考えるかによって、毎日の生活はガラリと変わってしまう。 たとえば洋の東西を問わす、文学作品の性格は感傷的な風合いから、やがて写実的な傾向に発展していくという初期的な性質を持っている。もちろんそれから先にもどんどん変化していくわけだけれど、まず、自己表現の欲求の母体に感傷主義=センチメンタリズムがあることにここでは注目したい。 センチメンタリズムとは、簡単に言ってしまうと、あらゆることを自分の感情に結びつけて考えてしまうという心の傾向のことを指す。つまり、花が散ることが物悲しく、日が沈むことが物悲しく、人が過ぎ去っていくこと、物事が移り変わっていくことに悲哀を感じてしまうのだ。出来事に対する感情的な反応が、すべて悲哀であることが特徴的だけれど、外的な世界で起きる事象が、自分の心の範疇では制御しきれないというところから、この悲哀は生まれる。 ともあれ、センチメンタリズムは私たちをどんな場所へ連れて行ってくれるだろうか。日本古来の風土的な性格の中には、「もののあはれ」というものが色濃く影を落としているけれど、私は、センチメンタリズムから抑うつ的な感情的内容への発展経路には、この「もののあはれ」が重要な役割を占めていると思う。知ることよりも感じることの方が大切だ、センチメンタリズムは私たちをそういう場所へ連れて行く。 私たちの力で事物の移ろいを留めることはできない。私たち自身が刻一刻と流転していく川の流れのようなものだし、人生とはその千々に移り変わる意識=心の連続体に他ならないとも考えられるからだ。 でも同時に、私という永遠不変の実体はないんだ、と考えることは、結果的に心にも実体がないということ、だからこそ心など重要なものではない、と考えることを可能にする萌芽を孕んでいる。 心は、偶発的な出来事にむやみに反応する計測器でしかない、と考えることによって、そこから何が立ち現れてくるかといえば、端的には、行為こそ、唯一自己に属するものだ、という考え方だ。 ただ呼吸を数えること、「今ここ」にあることだけに意識を集中させることによって、感情の内容がどんなものであろうとも何の違いもないことに私たちは気がついてしまう。胸が破れそうな哀しみが心に詰まっていても、あるいは歓びに溢れていても、私たちは同じように呼吸をし、「今ここ」にある。 でも、この考え方が、私たちをどこに連れて行ってくれるのだろう? それは、日々の暮らしの行為を積み重ねることによって、ありふれた生活人になるということ、に他ならない。もちろん多くの答はそこにあるのだろうけれど、哀しみの取り扱い方は、やはり感じること、にあるんじゃないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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