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カテゴリ:心をめぐる冒険
自分が自分じゃないように感じられてしまう、自己不全感について今日は考えてみたい。
日々の暮らしの中では、たとえば、自分自身に還ることのできる拠り所をどこかに持っている人と、そうではなくて、自分という存在が目まぐるしく変転する意識の連続でしかない、と感じられてしまうような、そういう二通りの人がいるんじゃないだろうか。 ひとまず「自分自身に還ることのできる拠り所」というものを「中心感覚」と呼んでおきたい。 そして、「中心」という言葉を考えてみると、最近ではまず『世界の中心で愛をさけぶ』という、小説なり、映画なりをいささかなりとも連想してしまうことがどうしても、ある種免れないことなのだけれど、この作品に見られる「中心」という言葉の果たす意味合いは、はっきり言って私にとっては疑わしいと言わざるをえないような気がする。 端的に言って、そこには正直なところ「ひがみ」という感情が大きく関わっているのだけれど、あの作品を手に取り、そして味わおうという動機の中には、この「ひがみ」というものと、それと同じくらいの「癒されたい」という願望が共存している。 とはいえ、「癒されたい」という願望は一般的に言って、何らかの作品に触れる時にはどうしても心の中に抱いてしまうものだと思う。だから、ここでは「ひがみ」という感情に注目したいし、その心理が引き起こす、疎外感と、自己不全感について考えてみたい。 若くして愛する人を喪うことは、時として起こりうる。もちろんここでは死別という観点で話しているのだけれど、そのように夭逝の恋人を持つということは、その人の心の中に、ある種の特権的な意識を産み付ける。そして、その事件自体を生涯の中心的なモチーフと感じざるを得ないところから、「中心感覚」というものが育まれる。でも、人は気が付かないうちに平凡な変容をしていくもので、生き延びていくという時間の中で、次第にかつての「中心」という軸は私たち自身から逸れてしまう。しかも現実の物語というのは、往々にして冷淡で酷薄なものなので、いわゆる「ロミオとジュリエット」のようには登場して去っていくことができない。現実的には愛する人を喪う瞬間にも、その人から自分が思われているという事実を獲得することは、まずない。そんなことは言い出せばきりのないことだけれど、結果として私たちの感じる「中心感覚」は無理に捏造されたものでしかあり得ないし、持続する時間も短い、ということになる。 もちろん精神的に安定していれば、新しい「中心感覚」を持つことが可能かもしれないけれど、私たちはやがて、自分の人生があまりにドラマ的ではないこと、劇的ではないこと、カタルシスや、大団円のないことに「ひがみ」をもつようになる。自分は常に周縁にいる傍観者でしかなく、しだいに疎外された感覚を持つようになるのだ。 大切なことは、更にここでもう一度「中心感覚」を自分なりに創り出す、ということになるのだけれど、そのことについてこれから考えてみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Mar 7, 2005 12:43:54 AM
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