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カテゴリ:心をめぐる冒険
去年の夏は、『空(くう)』のことばかり考えていた。
体調が悪かったからか、はたまた精神的に鬱々としていたからか、 多分その両方だったんだろう。 一夏、『空』のことが頭から離れなかった。 盆がやって来て、実家に帰省したとき、 雨の中、車を走らせていた。 ハンドルを握りながら、父親が『般若心経』の話をした。 倒れては起きあがるワイパーを眺めながら聴いた。 東京へ戻る新幹線の中で、『瞑想の心理学』という本を読んだ。 仕事が再開してからも、通勤電車の中でのろのろと頁をめくっていた。 横から覗き込んだ同僚が、 「仏教に興味があるならヘーゲルの『小論理学』を読んでみたら?」と言った。 ヘーゲルはキリスト教だけど、考え方が似ていると思う、 とその同僚は言った。 結局ヘーゲルはまだ読んでいないけれど、その男とは友達になった。 彼は「精神的に本当にしんどい時しか仏教に興味はないな」と言った。 私という存在に実体があると誤解すること、 あるいは、何かが永続的に存在すると信じ込むこと、 そういうことを『無明』と呼ぶのだそうだ。 そこから我々の五感といったような感覚や生存欲である『五蘊(ごうん)』 が生じるのだという。そして、その欲の連鎖がこの世界自体を作り出している。 「すべては空である」と試しに口に出してみるけれど、 それはどういうことなのか? 「仏教超入門」の中にはこうある。 空とは、そこに見えているものには「実体がない」ということを 意味している。その存在はたんに現象に過ぎないのだ、と見る。 存在の「無」を意味する言葉ではなく、実体の無を意味する、と同時に 現象の「有」を意味している。 実体がないのにどうして現象が生じているか? 現象が相互に限定したり、依存することによってである。 「現象が相互に限定したり、依存すること」、これを縁起と呼ぶ。 「縁起」とは原因や条件に依存して、事物が生じること、ということに なるのだけれど、だから「空」だということになるのか。 「タントラの道」のなかには「色即是空、空即是色」について、こうある。 色(この世界にある事象すべてのことだろう。祝祭男)とは、 私たちが自分の概念を投影する以前にあるものだ。 これらは〈あるがまま〉のものだ。 すべてが色であり、すべてが対象であり、すべてがただ在るものだ。 それらに付け加えられる評価は、跡から私たちの心の中で 創出されるものに過ぎない。 しかし、何の空なのだろう? 色は、私たちの先入観の空であり、判断の空だ。 しかし、その後で「空もまた色なり」と言う。 空であることもまた色なのだ。 これらのものを空として見ようとする試みも、またそれに概念の 衣を着せることになる。 物事はただあるがままにある。 何ものにも自己をとどめないこと、〈これ〉と〈あれ〉を 区別しないこと。 余すところなく、徹底的にただやることをやるだけだ。 夏が過ぎて、秋がやってくると、次第に「空」のことを考えなくなって いったような気がする。 毎日「空」ということを想いながら過ごしていた間、 確かに気が紛れた。 けれども「空」について、積み木みたいに言葉を重ねても、 それからどうなるのだろう?と思った。考えても判らなかった。 判らないと思っているうちに忘れた。 「本当にしんどいときにしか仏教には興味がない」という友人の言葉を 思い出す。確かにそうだったよ。 彼が東京に戻ってきたら、また一緒にビールを飲もうと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Mar 31, 2005 01:52:26 AM
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