12/27 東京交響楽団 名曲全集 第52回
ミューザ川崎シンフォニーホール 14:00~ 4階正面 ヴィヴァルディ:協奏曲集「四季」~"春", "冬" op8-1,4 ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」 ヴァイオリン:南紫音 ソプラノ:佐々木典子 メゾソプラノ:清水華澄 テノール:大槻孝志 バリトン:青山貴 東響コーラス 東京交響楽団 指揮・チェンバロ:秋山和慶 この年末三度目の第九であります。 正直、このチケットを買ったつもりはあまりなくて。先月のイアン・ボストリッジを確保すべく、半期のシーズン券を買ったら、この公演がセットでついて来たのでした。まぁ、持ってる以上否やは無いのでありまして。 前半というか前座というか、まずは「四季」から春と冬。第九だけ聞けばいいんだ、というストイックなN響、第九だけではね、と言いつつ妙にマニアックなカップリングを持って来る新日フィルに対し、正直本音ベースで耳に気安いものを持って来ましたというところでしょうか。 そのコンセプトはいいと思うんですけど、なんだか演奏が… 妙に合わないような。難しいこと考えずにさらっとやればいいと思うんですけど。ま、そんなに簡単なもんじゃないんだ、というのもわかるんですけど。 独奏ヴァイオリンは、まぁ宜しいんじゃないかと。少なくとも、しっくり来ない主因は独奏ではなかったんだろうな、と。 休憩を挟んで、本編の第九。 正直言うと、もうひとつ何か足りない感じ。秋山和慶は少なくとも誠実な指揮者ではあると思っているのだけど、だから格別おかしいと思うところはない筈なんですが。 ホールのサイズを言えば、ミューザは確かにNHKホールより有利で、オーケストラの音もより臨場感溢れるものではあるんですが、でも、じゃあどちらが面白いかと言われると、マズアとN響の方が面白かったと思うんですよね。何がどうしてというと、音楽としてきちんと出来ているか、音符を追い掛けているかの違い、みたいな話になってしまうんですけど、ただ、それほどひどいわけではない。 でも、これを言い出すと大抵のオーケストラはそうなんで、N響だって例外ではないのだけど、結局どういう音楽を作るかという意識が弱いのだと思うんですね。だから、メリハリのないだらだらとしたスピーチを聞かされているような気分になってしまう。で、ちょっと今日思ったのは、ひょっとするとそれこそがいいんだ、と思われてる節があるような気がするのです、最近。 第九の第三楽章って、昔は、って、たかだか20年くらい前ですが、ひたすらに美しく、聞くものをしてその音楽に身を委ねて、もうこれでいいじゃないか、と思わせるようでなければ、と考えられていた気がするのです。実際、そういう方向性を目指した演奏は多かったし、それだからこそその音楽を打ち破るファンファーレが衝撃的であり、という、まぁ一種の筋書きですね、そうしたものがあったと思うのです。でも、最近はそういう風にあまり感じさせない演奏が多いような気がするのです。それが、明確な音楽的コンセプトに則って「こうなんだ」という意識の下に演奏されているなら、それはそれでいいのですが、どうもそういう気がしないんだよなぁ...... 何年か前にチェコ・フィルがNHK音楽祭で第九を持って来た時の演奏は、ひたすらに美しい第三楽章で、冒頭の木管から弦への受け渡しなど、何処で交代したのか分からないくらいに等質な音を出していて。それが、今回の東響なんかでは、もう本当にうっかりと "自分はここ吹くのが仕事" って感じで演奏していて.... 等質性を追い求めろ、と強制はしないし、第三楽章はひたすら美しくなければならない、と決め付けもしません。でも、それならそれでどういう音楽をやるのか考えがあるのか?と問いたくなってしまう。そんな感じなんですよね。 或いは、第九如きでオーケストラの良し悪しが決まるものか、という見方もあるかも知れないけれど、結局音楽は奏でられたもの、聞かれたものが全てですからね..... ちょっと辛過ぎるのかも知れませんが。