「目的を持つ」ということ ~家族との会話の葛藤の原因を探る~
~9年も離れて家族と暮らしていると、目的が食い違い、自分も家族の中にも 「葛藤」が生まれる。ずっとそのことに苦しんできたけれども今日ここに そのひとつの答えを記します ~■家族と話して感じた生きる「目的」の違い ~住宅・教育ローンの為に生きる時代背景が見えてきた~ 今日、家族が東京に出てきた。私は家族といることがとても苦痛である。会話の内容も苦痛。話していると、その思考回路の違いからこちらの頭が融けてしまいそうになり、自分を保つのに凄いエネルギーをつかってしまう。感じるに脳の一部分しかつかっていない気がして、こっちが疲れる。会話にあわせても疲れるのでこっちのペースに持っていこうとしても疲れる。ひどい人間だと思われるかもしれないけれども。離れているせいもあってか、意見や感覚の違いが出てくるのが否めないというのは、親子離れて暮らす人ならもしかしてあることなのかもしれない。 なぜかと考えると、会話にロジックがない。そして、一番は「人生の目的を持って生きていないから」ということである。ただ、なんとなく、食べるために子供を養うために生きている、目的が住宅・教育ローンの返済の為に生きている。だから暗い、面白くない人生、世の中だと思いこんでしまっているのである。ちなみにローンを抱えた「負け組」とされる方々が自殺に追い込まれる現実をつくっている。蔓延してしまい、あしなが育英会の自殺遺児方たちが時々テレビで訴えている。日本のそういった構造が見えてきた時、自分はどうあるべきかどうかを考えた。■目的を持てば人に左右されない、メディアにも左右されない話を家族に戻して。家族と話して辛いので、「罠にハマってしまった」なんて言葉をつかってしまう。人の思惑にハマったり、自分とは意図していない方向へ進んでしまった状態のことである。「ひっかかっる」とも言う。そういう状態は不快である。で。一瞬、一瞬のこの時の歩みが大切だとしたら、自分が不快な思いをしないためにも、何者にも邪魔されないためにも自分自身の「目的」を明確にしておくこと大切と考える。テレビから流れる情報もそうだと感じる。あれは対したコンテンツでもある。だから、目的を持って情報収集の手段として利用する、それが道具とし、自らの存在、生命を中心とした動きが出来れば、表現者になって動きつづけることが可能なのだ。いかに人生の目標をもって生きていられるか。自分がどうあるべきか。そういうところで人と触れ合って生きていきたい。人生にとって大きなテーマであり、子供達が求めているテーマではないだろうか。何の為に自分は生まれ、何の為に働くのか。■自らが楽しい・好きと感じるお仕事を実現することが日本の未来を明るくする 家族の生き方にのるよりも 自らが立ち上げることで身近な人が助かっていくだろう人の心の明るさ、「楽しい」「面白い」「素敵」は経済情勢に反映するのは事実なので、やはり新しい事業をおこしたり、会社に勤めながらも起業するというライフスタイルをひとりひとりが確立させていけば日本の経済は更に活性化するかもしれない。 関係の豊かさからは文化さえ育まれる。来るべき構造改革による増税、これに間に合うように準備をしなければ。心が明るくなるように、楽しく嬉しい会社を,仕事を作る、そのことが子供達の未来にとって役立てたら幸福である。PS: 家族については、本当のところ、心や気持ちが通じ合えないことが一番辛い。だから、いつも一緒に住んで話してケンカになって無駄な時間を過ごすよりもはなれていても家族を想う気持ちはありながら人生の目的について考えることを望んでいる。それが出来た時。家族とゆっくり話しを持つ機会をもちたい。