新しいメディアの在り方を探る ~「一方通行」から「対話型」へ~
メディアで仕事をしていると、メディア側の意図、無意識に当社の「論調」になっていたり、本当に出したいものを出せなかったり・・・枠という時間の関係上、こちらの都合上のことで意図されて伝わっているようになったり・・・「このネタを出せば視聴率があがる」という思考なのでお願いだからくだらないものはもう視聴者もみないでほしい。先日、あるサロンで話題に上ったのが、ニュースを見て、1日嫌な気持ちになる、恐怖感を心に飢えつけられるということだった。共感する人がとても多く、考える良い機会となった。正直、視聴者も辛いならば、創るほうはその何十倍も辛い。大きな金曜のような事件(11歳の男の子の事件)などが起こると、正直、「死」へと追い詰められるほどうつ状態になりながら仕事をしている。結局、事件の真相というか、背景には。加害者側は、父・母を子供時代なくし、心のすさんだ自分の「弱さ」が事件を起こした。しかし、いつも考えるのはそのひきがねとなるもの。事件は防ぎたいものだ。あの可愛い男の子の赤ちゃんが亡くなったおどけない顔をみてはほんとうに2度と起こらないようにと考える。しかも今回の加害者も再犯。出所後の厚生保護施設なる施設で保護観察下におかれていたという。奈良の少女誘拐事件といい。犯罪者の再発がいかに多いことか。刑務所で「愛と永遠性」「哲学」。いきる意味についての教育を施してみたら一体どうなるんだろうかなんてかんがえてみた。法務省の矯正局の役人は結構何人も知り合いがいるので、短絡的ながらも言ってみるだけ言ってみようか。さて。事件のことは別として。本題のメディアの在り方について。今のメディアは、ひとつひとつの事象をあるところまで報道したら終わらせてしまう。野次馬というか、イベントであるというか・・・。やる人がいないというか、そういった観点が全く抜けおちてしまっていると考える。そして「恐怖」をうえつけられて、1日いやぁな基分にさせるもの。かといって、見なければいいものの、社会と接点を持つ人、経営者のみなさんでも世の中で何が起こっているのか、分かることは必須である。避けて通れぬ「ニュース視聴」。では何が大切か。それは「真実を見極める力」である。そう。自分が撮影したり、編集をしたり、実際に制作してみることで分かることである。「メディア・リテラシー」という。撮影する人が、主体性を持つ人の映像と、他人事として「こういうもの」をつくるとして撮影したり編集したりする映像とは全く違う。前者の映像は主体性がある、哲学でいえば、「存在」がある、というべきか。心の投影が映像に表れる。美しい心を持つ人は美しい映像、こまやかな映像を。こういう人の映像を見るとどうか、想像的になるのである。先を創る力が生まれるのである。実は、こういったメディアを創ろうかとアイデアが生まれる。美しいものをみれば、心清く生きられる。こういうのを刑務所の中で再犯防止に役立てて欲しい。一方で後者。「見世物」になり、見る意識を視聴者につくらせる。見る意識とは、「他人事」。世間体・世間の目もこういった類にはいるのだろうか。社会学でいうとこの言葉は「ラベリング」。人に『この人はこいう人』というシールを貼って、自分の中で認識する、しかしこれではそれ以上の関係は生まれないのではないだろうか。その枠を超えて、新しいものが生まれるのに。こういった状態が、自分を見失う。しりごみする後退感覚になる。新しいメディアというか、伝え方を研究したら、.良い国づくりが出来ると考えられる。もう日本だけではない、ASIAから発信するメディア。メディアが一方通行にならず、ひとつの官僚化した組織だけではなくまぁこのブログもそういったものなんだけれおも。そういった「対話型」の場があると、速く人を助けることも出来る。実は私は金曜、正直、11歳の男の子刺殺ニュースを見て死にたくなる感覚に襲われた。けれども自分の内からの感覚ではない、外から入ってくるものだ。胸のうちは違う。「2度と起こさないように動く!!」ということだ。さて、こういった新しいメディアの形は子供達の教育にも役立つと考える。洗脳をほどく、真実を分かる,眼、心。こういった視点を持ちながら、現在の職場で何をつくってゆこうか誠に考える所存である。