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カテゴリ:いじめ
(あい~んシュタインは、記事とは、関係ありましぇ~ん!) 引き続き、今日も更新です! 戦後72年の「終戦の日」の特集として、 作家で作詞家のなかにし礼さんの、インタビューが、東京新聞に、載っていました~! なかにしさんは、昭和13年にm満州で、生まれたそうです。 8月11日、ソ連軍の爆撃を受け、 父の不在の中、母と7歳年上の姉と3人で、軍人とその家族を乗せる電車に、 潜り込んだそうです。 途中、大きな川の鉄橋が、今にも崩れそうなので、全員下車して、川を渡り、 貨車だけを通したそうです。 ぬれた体で向こう岸に着き、列車に乗ろうとすると、 長野県からの開拓民たちが押し寄せて、列車にしがみついたそうです。 将校は「離れないと、指を切り落とすぞ」と、軍刀をかざし、 「その手を振り払え」と、列車に乗っている人たちに命令したそうです。 最後尾に乗っている、なかにし少年達は、 彼らの手の指一本一本を、もぎとるようにはがしたそうです。 その時のことを、 「その指を離せば彼らはそこで餓死するか、歩いて疲れ死ぬか、 中国人の暴動で死ぬかです。指をはがしたのは僕たちの意思というより、 兵隊の意思でです。逆らえば、僕たちも殺される。 見殺しという言葉がありますが、見殺しに加担したことが 僕の幼年期の第一の罪の意識です。はがされる人の指の感触も、 顔も覚えています。」と、語られています。 満州で敗戦を迎えたなかにしさんらは、三度に渡り、国家から、見捨てられたと、 思ったそうです。 一度目は、関東軍によって棄民。 二度目は、「居留民はできるかぎり現地に定着せしめる」という、外務省からの訓電。 三度目は、引き揚げ政策の、GHQ(連合国軍総司令部)への丸投げ ・・・だったって。 翌年、引き上げ船に乗ったそうですが・・・ 大人たちに幻滅し、姉と一緒に死のうとしたそうです。 でも、「君たち、死んではいけない」と、船員さんに止められて、 「今、日本では皆この歌を聞きながら、焼け跡から立ち上がろうとしているんだ」と、 『リンゴの唄』を、聞かされたそうです。 でも、自分達は、 玄界灘の真っ暗な海の上をさまよい、まだ戦争は終わっていない・・・ そんな、なかにし少年らには、とても、悲しく、残酷な、歌だったそうです。 日本人はもう、新しい出発をしている・・・って。 なかにしさんは、自分の体験を踏まえて、おっしゃいます。 「中国残留孤児が日本人の生活を見たらどう思うでしょうか。 自分たちの戦争はまだ終わっていない。国にも帰れない。 やっと訪れたら、自分たちのことなんて忘れて、裕福に生活している。 ものすごい悲しい状況でしょう。」 また、 「日本人の得意技ですが、過去を忘れるのが早すぎないでしょうか。 私たちはいまだにそうした『リンゴの唄』を歌い続けているわけですよ。」・・・とも。 私も常々、思うのですが・・・忘れるの早すぎ! 今年の7月、なかにしさんが、生まれ育った旧満州を訪れた時、 帰国の拠点だった葫蘆(ころ)島には、 いまだ、当時の駅舎や鉄道のレールが、保存されていたそうです。 そして・・・ アジア全体で、二千万人以上が亡くなった、大変な犠牲を払い、 ついに手に入れたモノが、日本国憲法だと、おっしゃっています。 「米国の押しつけだとか言いますね。けれど、 これは戦後日本の再出発の宣言書なんです。世界に向けた宣言書。 各国が認めて、反対しませんでした。世界が希望する国の形を与えてくれたとも、 われわれが選んだとも言えます。大きな歴史のうねりの中で生まれた。 本当に奇跡的な、最高の芸術作品だと思います。」・・・って。 「その憲法のもとでとにかく戦争しないで七十数年やってきました。 一体これの何が不都合なのでしょうか。 国民は誰ひとり戦争が起きて幸福にはならないのに、なぜ政治家のまねをして 改憲に賛成しなきゃならないのか。」 「『美しい日本』『取り戻す』。そうした抽象的な言葉で何に回帰したいのでしょうか。 日本の理想はまだ実現されていません。 この憲法の名の下にこれから実現するべきなのです。なのにその努力を怠り、 反省すべきを反省せず、戦前の軍国主義を勘違いして、そこに「美」を求めるのは とんでもない反動です。」 「自民党の改憲草案は、発想が国家ありき。 憲法は国民ありき、個人ありきなのに、逆転の発想がしたくてしょうがないようです。 棄民思想をずっと日本はやってきたわけですが、少しも進歩していません。」 また・・・ 「福島の原発事故が起きて、当時は民主党政権でしたが、 あのときの情報を開示しない状況から思い付いたのは「棄民」でした。 今も事故によって故郷を追われ、避難民生活を余儀なくされている。」
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最終更新日
2017年08月24日 12時01分08秒
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