周の射手のうた
SONG OF THE BOWMEN OF SHUHere we are, picking the first fern-shootsAnd saying: When shall we get back to our country?Here we are because we have the Ken-nin for our foemen,We have no comfort because of these Mongols.We grub the soft fern-shoots,When anyone says ”Return,” the others are full of sorrow.Sorrowful minds, sorrow is strong, we are hungry and thirsty.Our defence is not yet made sure, no one can let his friend return.We grub the old fern-stalks.We say: Will be let to go back in October?There is no ease in royal affairs, we have no comfort.Our sorrow is bitter, but we would not return to our country.What flower has come into blossom?Whose chariot? The General’s.Horses, his horses even, are tired. They were strong.We have no rest, three battles a month.By heaven, his horses are tired.The generals are on them, the soldiers are by them.The horses are well trained, the generals have ivory arrows and quivers ornamented with fish-skin.The enemy is swift, we must be careful.When we set out, the willows were drooping with spring,We come back in the snow,We go slowly, we are hungry and thirsty,Our mind is full of sorrow, who will know of our grief? By Bunno, reputedly 1100 B.C. 上記の詩はエズラ・パウンドの「訳詩集」“Cathey”全18編中の巻頭の一編である。原詩は「詩経・小雅」の「采薇」である。アーネスト・フェノロサの漢詩ノートを未亡人メアリーから贈られたパウンドがそれをもとに英訳して出版したのが1915年。パウンドは中国語をほぼ知らなかったと言われる。しかし原詩と付き合わせながら読んでいくと、このとき28歳の青年の感受性はヨーロッパを覆い始めた最初の世界大戦に対する「厭な気分」の感受と中国の周王朝代、北方民族との戦いに駆り出された兵士たちの「厭な気分」のそれを即座に同致させる鋭さを持っていた。かたや礼楽の鏡と孔子が賛嘆した周王朝の滅びの予兆が刻まれた詩篇、パウンドのヨーロッパでは未曾有の規模でそれまでの世界秩序を破壊していく政治・文化などのドラスティックな変動の波が動き始めていた。中国に対するヨーロッパのそれまでのイメージと画期的な違いを見せたこれらの訳詩の根本にあったのは、パウンドの同時代を生きる真摯さと崩壊と変化を見定める詩人としての鋭敏な感受性だった。白川静によれば、原詩は「征役の詩。玁狁(けんいん・フェノロサは森槐南に漢詩をならったからノートにはKen-ninと日本風の読みで書いてある。それをパウンドはそのまま使っているわけだ。けんいんは北方民族で後の匈奴にあたると白川先生は注釈している。ban註)の来寇に際して、出征した征夫の労苦を歌う。いまいう軍歌にあたり、雄々しさと、悲傷の情を歌う」(白川静「詩経雅頌1」東洋文庫)ものである。パウンドの訳詩には「雄々しさ」の情というものはほとんどない。あえてそういうところをパウンドは切り捨てたのだとも言える。原詩は古代歌謡に特徴的な畳詠が多用され、祭事詩的な側面もあると思うのだが、そのような古代性は訳詩では一掃されている。したがってこれはアカデミーの学者の直訳ではない。むしろパウンドという詩人に痛切なモダニティの感覚が結果として当時の知識人に一般的であった古代中国・「シナ」一般に対するエキゾティシズムを粉砕して、20世紀の初頭に、その時代と変わらない「悲傷」意識を持った古代中国の「征夫」の像を拉致しきったのである。しかし、それは古代と現代をみだりに同化させるものではない。むしろ古代の兵士にパウンド自身が変貌すること。ここでいえば「周の射手」に変貌することで、そのことが達成されている。ここが、東洋学者などと異なる最大の点である。The enemy is swift, we must be careful.When we set out, the willows were drooping with spring,We come back in the snow,We go slowly, we are hungry and thirsty,Our mind is full of sorrow, who will know of our grief?敵は俊敏、われらは油断ができない。出かけたときは、柳は春にしなだれていたもどるわれらは雪のなか。歩みはおそく、飢え、渇くわれら。こころは悲しみにしずむ、われらの深き悲しみを誰が知るであろう? (原 成吉 訳)この部分の原詩を引いてみよう。玁狁孔棘 玁狁 孔(はなは)だ棘(すみや)かなり昔我往矣 昔我が往きしとき楊柳依依 楊柳依依たり今我來思 今我れ来たれば雨雪霏霏 雨雪霏霏たり行道遅遅 道を行くこと遅遅たり載渇載飢 すなはち渇し すなはち飢う我心傷悲 我が心傷悲す莫知我哀 我が哀しみを知るなし実に深切な訳だと私は思う。付加する余分なもので目に障るものはない。兵士の気持になりきって訳しているということがよく分かる。閑話休題、When we set out, the willows were drooping with spring,We come back in the snow,We go slowly, we are hungry and thirsty,Our mind is full of sorrow, who will know of our grief?というようなことが紀元前千年余前から体験しつくされているにもかかわらず、こういう状況をすすんで再現しようとする「政治家」たちがなおも恥じ入ることもなく存在している。常に「詩経」を諷詠しながら弟子たちに教えたという孔子の言葉を彼らに贈ろう。「子曰く、詩三百を誦し、これに授くるに政を以てして達せず、四方に使いして専対すること能はずんば、多しと言えどもまた何を以てなさんや」(詩経三百編を暗誦していて、これに政治の要務を任してもうまく果たすことができず、外国に使節として派遣されても、全権をもって談判できないというのでは、全くしかたがないではないか。)「詩経」という「教養」は踏みにじられ、ただゴーマンなものたちだけが一人で勝手に勝ちを称している風景があちこちに拡がっている。