Sunday Morning
Wallace Stevens(1879-1955)というアメリカの詩人の”Sunday Morning”という長詩を読む。岩波の「アメリカ名詩選」によると以下のような略歴の詩人である。―ペンシルバニア州Reading生まれ。ハーヴァード大学に研究生として3年間学んだ後、ニューヨーク・ロースクールで法律を修め、1908年にコネチカット州のハートフォード損害保険会社に入社。1934年副社長となり、死ぬまで同社に勤めた。ニューヨーク時代にフランス近代詩に親しみ、モダニズムの詩人や画家と交わって一目置かれたが、詩集Harmonium(1923)が出たのは40歳を過ぎてから。華麗な措辞と深い瞑想によって、現代アメリカを代表する詩人の一人に数えられている。―単なる偶然だろうが、Readingという町の名前は昨日読んだPaul Bowlesの”you are not i”にも出てきた町の名前である。そこでは主人公のEthlの嫌う町として出てくる。この短い略歴からもわかるように、Wallace Stevens(ウォレス・スティーブンズ)はPaul BowlesやWilliam S. Burroughsのようにドラッグなどに溺れてモロッコなどに流離する系統の文学者とは歴然と異なるようだ。彼の代表作であるこの百行を超える詩について岩波の「アメリカ名詩選」の翻訳者の一人(川本皓嗣)は後書きで次のように述べている。―(この選集を編むにあたってというようなことが書かれた後…ban註)長詩を敬遠しながら、ウォレス・スティーブンズの『日曜の朝』に限って百行を超える長編をまるごと入れたのは、評判の高い割に読まれることの少ないこの傑作、「英語で書かれた偉大な不可知論の詩」(ディヴィッド・デイシズ)の魅力の一端をぜひ伝えたかったからである。―どういう詩だろうかと気になっていたのだが、その長さに「敬遠」してきた。日曜の朝、思い切って「日曜の朝」を読んだ。グールドの「images」というタイトルの、バッハと他の作曲家の曲を二分して編集しているCDを久しぶりに聴きながら。これはいつもの手段。わけのわからないものを読むとき、そして読んだあとに失望するときもあるから、その予防装置になにか音楽を鳴らしておくことにしている。つまらなかったら、音楽が救ってくれるからだ。8つの章に分かたれているこの詩は次のように始まる、1Complacencies of the peignoir, and lateCoffee and oranges in a sunny chair, And the green freedom of a cockatooUpon a rug mingle to dissipateThe holy hush of ancient sacrifice.(バス・ローブのぬくぬくとした満足感と、陽当たりのいい椅子で味わう遅いコーヒーとオレンジ、そして絨毯に遊ぶインコの緑ゆたかな自由が融け合って、そのかみの犠牲にまつわる尊い静けさを追い払う)川本訳以下同じ。一人の女性。日曜の朝にバス・ローブをまとい、遅い朝のコーヒーを味わっているどこかスノビッシュなところもないではない女性。その女性を遠くから見ているような語り手の「語り」が混ざってこの詩は進行する。ときどき、この女性の直接的な声が入る。たとえば、She says, “Iam content when wakened birds ,Before they fly, test the realityOf misty fields, by their sweet questionings;.But when the birds are gone, and their warm fieldsReturn no more, where, then, is paradise?”(目を覚ました鳥たちが、飛び立つ前に、甘い声であたりに問いかけながら、霧たちこめる野原の現実を試すとき、それでわたしは満足だ。でも鳥たちが飛び去って、鳥たちの暖かい野原がもう戻ってこないとき、楽園は一体どこにあるのだろう)このような女性のキリスト教的な楽園喪失の思いと、それゆえの楽園追求に対して語り手は、そんなものはない、そんな楽園などは「四月の緑ほど長続きしたためしはなく、また目を覚ました鳥たちをめぐる女の思い出ほど、また羽を交わす燕のまぐわいに揺れる六月と夕方への女の欲望ほど長続きすることは、今後もないだろう」と否定する。原文を引きたいが、やめておこう。それにしても「まぐわい」という訳には驚く。最終節(8章)は神の顕現とパラダイスを否定した後に、…We live in an old chaos of the sun,Or old dependency of day and night,Or island solitude, unsponsored, free,Of that wide water, inescapable, Deer walk upon our mountain, and the quailWhistle about us their spontaneous cries;Sweet berries ripen in the wilderness;And, in the isolation of the sky,At evening, casual flocks of pigeons makeAmbiguous undulations as they sink,Downward to darkness, on extended wings.(我々は太陽の古い混沌の中に生きているそれとも昼と夜の古い依存関係のなかにそれともあの広い水面に浮かぶ島の孤独の中に後ろ盾もなく、自由に、逃れがたく生きている。鹿は地上の山々を歩き、ウズラはわれわれのまわりで、おのずからなる鳴き声をあげる。甘いベリーは荒野で熟する。そして大空の孤独のなかで、夕暮れには、何気ない鳩の群れが、あいまいな波形を描きながら、翼をひろげて、下の闇のほうに沈んで行く。)これがこの詩の末尾の詩行だが、ここにおいて肯定されているものに、私は陶淵明的なものをふと感じてしまうのだが、おかしいだろうか?岩波文庫の翻訳者たちはもちろん、東洋思想との関連などについては何も言及していない。「日曜日」はここでは勿論のことだがきわめてキリスト教的な連想を帯びているからだ。この日に女性は主の受難を想起することからこの詩が始まるのでもある。いずれにせよグールドの力を借りることなく読み終えることができた。詩はなかに自分がどうしようもなくひかれる魅惑的な一行がありさえすればいい。それだけで十分だとも思う。island solitude, unsponsored, free,Of that wide water, inescapable,という詩句は当分忘れることができないだろう。 Wallace Stevens(1879-1955)