命令
非常に珍しいものを32年間の教員生活で初めてもらったので、ちょっと興奮している。これは私だけではなく職場の全職員に校長名で発令されたものだ。これをすべて書き写すと公務員の守秘義務云々ということになるかも知れないので、以下はフィクション仕立てである。(これは杞憂だろう。正規の文書であり、これが一人一人に手渡された時の時間まで教頭は記録していたのだから。公明正大天に恥じぬ文書である。でも用心には用心を!)私の名前、倉津蕃殿が左上にあり、右に校長名と公印が押されている。平成某年某月某日に実施する第x回卒業式において、平成15年10月x日付けy教指企(これは何の略かよくわからないが、おそらく教育委員会指導部企画係―こんなものあるかどうか私は知らない。後日調べよう。まあこんなものの略だろう)z号「入学式、卒業式における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」及び地方公務員法第32条(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)に基づき、下記の通り命令します。上のような文言が記入され、下記として5点が書かれている。そのなかに「卒業式式場において、式場の指定された席で司会の進行に従い起立し、国旗に向って正対し国歌を斉唱すること。」とある。実に細かい命令である。笑うべき滑稽な事態なのだが、なぜそういうかというとこれが日常から逸脱したものだからである。ブッラクユーモアの発生源はそこにある。でも笑って済ませることのできない問題だから、頭にくるわけだ。つまり「起立し」なければ処分されるということ、このことを遠慮会釈なくやろうと待ち構えているのである。この命令書が発令されたということについては管理職側からしても、管理される側からしても、荒れ果てた、そしていじめ大好きな教育委員会に対抗するには万策尽きたということもあるのだろう。だから面倒くさいわ、もう、なんでも言うとおりにとにかく我慢してやるっきゃないというのが実情である。今朝の朝日新聞の「声」欄に、こういう締め付けの事情をよく知る退職した元女性教員の投書があった。それは先日亡くなった歴史家、網野善彦さんの逸話である。網野さんがもと勤めていた高校で講演会をお願いした。その後初対面だったが女性は網野さんに「こういう状況の中で網野さんならどうなさいますか?」と訊いた。網野さんはしばらく考えたあと、きっぱりした口調で「私は処分覚悟で立ちません、抵抗します」と語ったというのだ。この話は歴史家網野善彦という人の面目躍如としたものを伝えるし、勇気付けられもする。でもこの私はどうするだろうか?多分立つしかない。目をつぶり、その時間が早く経過してくれるのを祈るだけである。こんなに愛されない国歌もこの世界では珍しいだろうなどと考えながら。そしてやり過ごす。その滑稽な屈辱を胸に秘めたまま、卒業生たちの名前を読み上げるであろう。そのうち、屈辱を忘れ、卒業生たちとの思い出がよみがえり、泣くであろう。そこからが私と彼らの卒業式である。そのことだけを肝に銘じて私は自らの敗北と屈辱を私自身で引き受けるだけだ。誰のせいでもないと考えたい。組合も信ずるに足りない、なんの力もないのだから。一部の世論や反動メディアのせいにもしない。私自身の敗北である。少しパセッテイックになりすぎた。これは「茶番」以外の何物でもないということを確認しよう。秩序やルールの感覚は教委ではなく、こちらにあるのである。そこに法律を盾にして(しかし、強制するものではないという確認などは彼らはすっかり忘却しているのであるが)、いや「通達」などというものを盾にして、無法者(関係のない無根拠な法律を盾にして自らが作製した本当は自らのみに通用するルールを強制力のある法律と言い張るものたち)が内容の無い式典用の厳粛なマーチをむやみにが鳴りたているのに過ぎない。冷静に見ればなんと滑稽なことだろう。ベルクソンの笑いの定義になんとぴったり適合する図だろう。彼らの言う厳粛さから少しだけ距離をとれば、だれにも分かることである。その命令書のもう一つの項目に「服装は、厳粛かつ清新な雰囲気の中で行われる卒業式にふさわしいものとする」というような、これこそ笑うべき最大のものもある。恥ずかしくなるくらい滑稽である。こういう命令を、お上からの書式にのっとり書いた人を私は笑わっているのではない。このような命令を発せざるをえないほどに自らの品位を失っている教委のあり方を笑うのである。任命者としての教委の品位はここまで落ち、そしてその荒廃はここで極まる。きみたちの背広に付着している事大主義と現場を信頼できないという心の汚れをまず洗うべきではないのか。厳粛で清新であるべき卒業式に「立たないもの」を告発しに来る往時のソ連や東欧などのような監視のあり方を踏襲し実践するのはやめたまえ。厳粛で清新であるべき卒業式は主役の卒業生のためにあるのであって、君たち役人の監視のためにあるのではない。もちろん言うまでもないことだが、日の丸、君が代のためにあるのでは全くない。