「信用をなくした相手を信じるか」を、ガラスの器にたとえて考えてみる
私は以前つきあっていた彼女(直近とは別)にかなりたくさんのウソをつかれたことがあった。その相手はたくさんウソをついてウソを積み重ねていくちに壮大な架空の世界を作り出してしまい、そのウソがあまりに大きすぎてしっかり騙されていた。まあそういう場合、ついてる方もつきたくてついてるわけではなく、見せたくない現実を隠したくてやむなくというのが多いのだろうけれど。そのときに思ったのが今日の「ガラスの器」。で、今日はカテゴリーの「信じるということ」で結論できていない、「信用をなくした相手を信じるか」についてです。大好きな相手への信頼を「ガラスの器」にたとえてみる。心の中に持っている、脆いが高価できれいな器。そしてその相手への恋愛感情はそこに満たす「水」。水を入れて眺め、そのきれいな器を所有している幸福感を得ている、と。しかし、信頼すればするほど硬くなるが衝撃には脆くなる。一度小さなウソで傷をつけられるといくら拭いてもなかなか傷はとれなくなる。何とかしようと拭いてるうちにますます細かい傷がつく。また「疑う」ということは傷がついてないかと確認するようなもので、調べているうちに細かい傷をつけたりうっかり落としてしまうかもしれない。確認はしたいが壊しては何にもならない。そのうちに、ウソで傷ついた「ガラスの器」はだんだん最初の美しさはなくなって、曇ったサエない器になってしまう。また一旦ひびでも入れば、そのひびはその後小さな刺激でもどんどん大きくなり、最後には水を入れることはできなくなる。ひびの入った器をどうするか。こまめに水をつぎたすか、いっそのこと器を代えるかは、その持ち主の判断だろう。また、その器の材質は持ち主の気持ち次第。あまりきれいではなくても、プラスチックの容器なら丈夫だ。水も漏れないから実用にはなる。まあ、でも持っていてもさほどありがたみ(幸福感)はない。プラスチックの容器ならさがす手間を惜しまなければ似たような形で新しいものが安く手に入るだろうし。ガラスの器をなるべくきれいなままにしておきたければ、自分ができることとしては確認しようとしていじったりせずなるべくそのままにしておくことか。もし傷ついてしまったけれど器を捨てたくないなら、気持ちを変えて材質を丈夫なものにするしかない。それに魅力があるかどうかも持ち主の気の持ちようだろう。 ところで、そのウソをついていた彼女とはどうなったかというと、確認作業を繰り返して傷を増やしたり確認作業に疲れて、すっかり魅力のないものにしてしまい、結局1年もしないうちに別れたなぁ。(うーん、このたとえは少しムリだったか。)