【講話】『信じる』と『疑う』と『愛』
『人を信じて生きる人生』と『人を疑って生きる人生』と、あなたはどちらがいいかな? 今日は、『信じる』ということについて話そう。 あなた方は、『疑う』の反対は『信じる』だと思っている。どうかな? では、カンバスを黒く塗るの反対は何かな?ん?カンバスを白く塗る?うん、それは正しい。ある意味では正しい。あなた方の今の意識、二極化意識においては正しい。 だが、もうひとつ別な正解がある。それがわかるかな? それは、「何も塗らない」このアナロジー(類似性からの比較)は理解できるだろう。 『信じる』と『疑う』にも、同じなのだ。『信じる』とは、 「自分が肯定できる結果になると決める態度」 のことだ。『疑う』とは、 「自分が否定している結果になると決める態度」 のことだ。 確かに「肯定的な結果」か「否定的な結果」かということにおいて、反対の概念だ。 決して間違ってはいない。正しい。だが、この『信じる』は、結果しだいで『疑い』に変わる。 一度裏切られると、次からは信用しない、ということが在り得る。 二極化次元にいるという意味で、この二つは同じことなのだ。 本当に信じるということ、たとえば、神があなたを信じていると言うのは、そんな二極化を超えた次元なのだよ。 それが愛だ。 無条件の愛だ。 それは、『無条件に受容する態度』のことだ。 神はあなたが何をしようと受け容れる。否定はしない。 だからこそ、この神が創造した世界にあなた方が悪と呼ぶものが存在している。 神はあなた方が悪と呼ぶものでさえも受け容れている。 悪魔、地獄? そんなものは、あなた方が二極化した意識で創り出した妄想に過ぎないのだよ。 地獄とは、意識の一状態にすぎない。『無条件に受容する態度』こそ、 『信じる』と『疑う』の対極にあるものだ。 そして、信じると疑うことさえ、内包している。 愛は、期待なしに あるがままに受け容れる。 相対世界に生きる愛は、その受け容れた中から好みで選ぶだけだ。 けっして、選ばなかったものを否定しているわけではない。 それが何であれ、すべてを受け容れる態度、 その基盤となる意識こそ、神意識だ。愛なのだよ。あなたは『人を信じて生きる人生』と『人を疑って生きる人生』と『すべてを愛して生きる人生』とどれがいいかな?enough for today? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪