パラダイムシフト前に感じるパラドックス
>以前の記事で、>>>正しく見た正しい考えを基とする。>すると正しい心、正しい姿勢となる。>そこから、>正しい言葉、正しい行い、正しい欲、正しい生き方が>おのずと生じてくる。>> それが悟るということだ。>>>とあり、その正しい見方になるための方法として、>>>「どうすれば正しい見方ができるか?」>それは、本当の自分の欲求を見つけることです。>(共依存からの回復が必要だと言えます)>>として、本当の欲求を見つける必要があり、それには共依存からの回復が必要である、とあって、>そして、共依存から回復する方法の解説として今回の記事にまでに至ったのですが、>>そこでまた、>>>生きる目的(本当にしたいこと)を自分で決めて、>その目的に添って生きることによって>価値を感じることができるのです。>>>と、上のようにありました。>>私の解釈の流れでは、>「自分の本当の欲求を見つけるためには、本当にしたいことを自分で決める」>というような、矛盾した内容になってしまっています。>少し混乱しています。>>もしかすると、大きく誤った解釈をしてしまっているのでしょうか? ブログの中に、観念の仮書き換え(解釈)と体験を繰り返すということを強調していることに気づきましたか? 実は、sachioさんが体験を通さずに論理的な解釈だけで悟りを理解しようとされているご様子なので、強調してみたしだいです。 論理的な解釈にも段階がありまして、殺人犯は裁かれなくてはならない。という論理は、一般には正しいといえます。 それは、検討なしに「殺人」は罪である、という社会通念を前提として用いているからです。 この場合、論理を、道理の意味で使っています。正確には論理と道理は違います。 これと同じように、体験を通していないsachioさんは、これまでの体験で得た自分の基本的な観念や概念で悟りを論理的に解釈しようとしています。 それは不可能なのです。なぜなら、判断に使っている基本的な観念や概念が間違っているからです。 この場合の間違いは、論理的に目的に適っていない、という意味です。■「悟るためには、悟ろうと求めてはいけない」という言葉があります。 実際には、悟ろうとしなければ、悟ることはできません。この場合の、「悟ろうとする」とは、具体的に、禅の道に進んでうんぬんというだけではなく、『こんな苦しみはもういやだ、なんとかしたい』という意志でも含む広い意味です。 さて、苦しみをなくとかしたいとき、私たちは、苦しみをなくとかしようと外に向かって働きかけます。貧乏だ → お金をもうけよう、節約しよう病気だ → 病気を治そう このとき、貧乏だから苦しい、病気だから苦しい、という論理を当然だ、論理的に正しいとして思考を進めています。 一般には、それで問題ありませんが、よく考えれば良寛さまのように、貧乏でも苦しくない人もいますし、病気でも苦しくない人もいます。 つまり、前提が間違っているのです。禅のお話でも、「苦しみをなんとかしてください」「苦しみを持ってきなさい、取り去ってやろう」「苦しみは持ってこれません」「そら、もう苦しみはなくなった」という話がありますよね。 逆に、和尚の「存在の詩」には、「猿のことを考えないようにしなさい」と言われた人が『へんなことをいうなあ、私は猿ことなんか考えたこともないのに』と思っていたのに猿のことを考えないようにしようと意識したとたんに猿のことを考えてしまって、翌朝には頭の中が猿だらけ、(笑)という笑い話のような話があります。 不眠症の人が『なんとか眠ろう』と思うほど眠れない、というのと似ていますね。■ さて、sachioさんは正しい見方になるための方法→ 本当の欲求を見つける必要がある→ それには共依存からの回復が必要 →→ 本当にしたいことを自分で決めるという一連のノウハウで時間的な流れで繋がっていると考えています。■ たとえば、私は「あるがままの自分でいい」と認めるということを言っていますが、これを読んで疑問を持った人が何人いるでしょうか? 私は以前に疑問を持ちました。 なぜなら、あるがままの自分でいいと認めようとしたからです。 実践しようとしたときに、矛盾を感じたのです。あるがままの自分って愛であると言われる元々のあるがままの自分なのか、今のダメな自分なのか、ということです。 別の人は、今のダメな自分が嫌で苦しいのに「あるがままの自分でいいと思え」なんて、そんな変な考えは嫌だ、と思って実践せずにやめてしまう人もいるでしょうし、そういう人が多いと思います。 でも実際に体験してみるとわかるのですが、今のダメな自分を受け入れて、ダメな自分でいいと本気で思ったときには、自分はダメだと思っていないのです。 似たような例では、罪を許すということがありますが、罪を本気で許すというのは、そこに罪を認めないということです。 イエスがあなたの罪は最初から許されている、というとしたら、それはイエスがそれを罪だとその人を責める気持ちがまったくないということ、イエスが愛の人だということです。 でも、これらのことを悟っていない人、愛に至っていない人に説明するときには、多少歪むとしても愛のパラダイムではなく、普通の人が使っているパラダイムを使って比喩的に語らなくては伝わりもしません。 このことを、悟りは言葉では伝えられない、というのです。 もし、愛のパラダイムでイエスが語ると「この女性が(姦淫の)罪などない」というでしょう。 それでは誰も納得しないから、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というような言い方をします。 イエスは、石を投げようとした人たちにさえ罪を見ていないのです。■ 親鸞聖人の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」も実は同じなんですね。 善人が罪を犯していないのは当然だが、実は、悪人さえ罪を犯していないと受け容れるのが仏だ、ということです。 これは、もちろん、社会的に罪を犯しているということを認めたうえで、あえてそう言うのです。■■ さて、結論です。正しい見方をする→ 本当の欲求を見つける必要がある→ それには共依存からの回復が必要 →→ 本当にしたいことを自分で決める これを実践するときには時間の流れがありますが、それによって徐々に改善され、悟っていくのではありません。 どこかができたら、一瞬ですべてできているのです。 ある瞬間に、『すべてを受け容れる』のです。 もっと具体的に言えば、「(それまで受け容れられなかったものを)理屈ぬきで、一瞬で受け容れる」のです。(メールレクチャーの説明でしたようにね)■ それをパラダイムシフト前の人に説明するときは、その考え方に合わせて説明しますし、解釈する人が、体験なしだとこれまでのパラダイムで解釈するので矛盾して感じるのです。 私が、迷宮とかパラドックスという言葉で伝えていることです。 ■ 「神との対話」という本には、こう書いてあります。 間違っているように思われても、神の言うことに耳を傾けるべきだというのですか? 間違っていると思う時には、特に耳を傾けるべきだ。何でも自分が正しいと思っていたら、どうして神と語る必要があるのか。自分が知っているすべてをもとに進み、行動すればよろしい。しかし、人間はずっとそうしてきた結果、世界がどうなったかを見てごらん。明らかに、あなた方には何かが欠けている。理解していないことがある。あなた方は自分が理解したことだけを正しいと思っている。なぜならば、あなた方にとって「正しい」というのは、自分が同意したことをさす言葉だからだ。従って自分が理解できないことは、初めのうちは「間違っている」と感じる。前進するには、「自分が『間違っている』と思ったすべてが本当は『正しい』としたら、どうだろう?」と自分に問うしかない。(P20)■ 大切なのは、実践です。神との対話ではこういう書き方をしています。最高の秘密は、人生とは発見ではなく創造のプロセスだということだ。(P36)だから、自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうではなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい。(P37)■ 悟りとは、どういうものか、神との対話ではこう書いています。世界に向かって、自分が何者か、何を信じているかを、ためらわず、はっきりと言い切れるなら、あなたは幸せものだ。この対話をこれ以上続ける理由はないだろう。なぜなら、あなたは自分を-自分のための人生を-創り出していて、改善の必要がないのだから。あなたは完璧に到達した。この本は閉じてよろしい。(P92)■ 正しい見方はどこに? 自分が正しい見方をしているかどうかを人に問うているとき、正しさは、自分の外側にあると信じています。 正しいとは、どういうことでしたか? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪