カテゴリ:国際政治
ウクライナ問題あれこれ (4)続き
< 歴史の続き > さてこうして、誕生したブルジョワ自由主義者中心の政府は、穏健派ソヴィエトの協力の下、直ちに平和をと、軍務を離れようとする兵士を、革命の祖国を守るためだから戦地に留まれと説得して、世界戦争を継続します。 いやいや説得に応じた兵士たちは、せっかく革命が勝利したのに、なお長く戦地に留まり、なおかつドイツ軍への攻撃にすら駆り出されることに不満を募らせます。首都やモスクワ(当時のロシアの首都は、ペテルブルグにありました)などの大都市の民衆は、平和とパンを求めて穏健派ソヴィエトの指導に従わなくなります。 こうして、兵士や都市民衆の支持は、次第にソヴィエト権力の樹立を主張し、即時和平の主張を掲げる、急進派ソヴィエト(その中心がレーニンらのボルシェヴィキでした)に移っていったのです。その到達点が、急進派ソヴィエトによる権力の奪取、ロシア歴の十月革命(西暦では十一月革命)になったのです。 ソヴィエト政府は、直ちに全国各地に、夫々の州や県の単位でソヴィエトの政府を建てることを命じ、実行してゆきます。ウクライナでもそれは同じでした。ところがウクライナは、自治権を利用して、中央ラーダという組織が権力を奪取していたのです。ラーダとはウクライナ語でロシア語に訳すとソヴィエトになるのです。ただし、ボルシェヴィキではなく、穏健派ソヴィエトに近い存在だったのです。 当然、ボルシェヴィキ中心の政府は、中央ラーダ権力が気に入りません。こうしてウクライナ在住のロシア人中心に(彼らはウクライナでは少数派でした)、強引にボルシェヴィキ派のソヴィエトを組織させ、ソヴィエト赤軍を投入して中央ラーダを攻撃し、少数派ソヴィエトの政府を建てたのです。追いつめられた中央ラーダ派は、遂には反革命派に加担するに至り、ソヴィエト権力が確立するにつれ、戦い敗れ諸滅に至ります。 結局力で押し切られたウクライナは、ソヴィエトの権力に対して面従腹背の姿勢をとり続けたのですが、第2次大戦時にヒトラーのドイツに占領され、ソ連軍の巻き返しで、ドイツ軍が追い出される過程では、完全にソ連軍を一体化して戦うに至り、反ドイツ、反ナチの姿勢を貫いたのです。 この大戦中の新ソ連の姿勢が、スターリン死後のソ連指導部のお気に召し、ソ連政府と一心同体であり続けるならと、19世紀からロシア、ソ連領であり続けたクリミア半島を、1954年にソ連から譲ってmらえたのです。 ですから、ロシアを袖にして西欧につくのなら、お前に預けておいたクリミア半島は返してもらうよ。 ここは反ロシアの国に撮られては困る、ロシアにとってとっても大事な地なんだからねと、2014年に軍を派遣して取り返したのです。これがロシアとウクライナ、そしてクリミア半島のまつわるいきさつです。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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