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カテゴリ:こころ・子育て
(1)結果がでない子供に魅力を感じさせること。
(2)結果が高い子供にレベルアップのための的確な指導ができること。 親や先生に必要なことはこの2つであると思う。 魅力を感じさせるためには、教える分野に対して 自分が魅力を感じていなければならないし、 レベルアップのためには、 教える分野の内容に精通して 自分が結果を出せるというのでは不十分で その分野の教え方を身につけている必要がある。 100メートル走を最初から11秒で走れてタイムがかわらない人と 最初は13秒だったのに12秒にタイムをあげた人と あなたはどちらを評価するだろうか? 学校の先生には 最初から11秒で走る子をよく思わず 13秒だったのに自分の助けをかりて12秒にあがった子を評価する というタイプの人が多い。 なぜなら 11秒の子は自分の存在意義を感じさせてくれないからである。 こういう先生についた11秒で走れる子は才能をのばされないばかりか なぜか自分より足の遅い子の方が評価されることで 才能を素直にのばすことに抵抗を感じてしまう。 結果より努力が問われるのが気に入らないため 努力そのものをしなくなる。 たいへん不幸なことだ。 この先生は ふつうの子にすることは指導できても 11秒で走る一流の素質をのばす指導はできない。 豊かな才能をのばせないのは 才能をのばす知識がないということもあるけれど この先生は自分が一流な分野がないから 才能がある子に嫉妬しているからなのではないだろうか。 一方13秒から12秒で走れるようになった子は 11秒で走る子より評価されて幸せだろうか? 11秒の子をさらに速くするには的確な指導が必要なのに対して 13秒の子を12秒にするために必要なのは魅力を感じさせることである。 先生に評価されたいから努力するのではなく 走ることそのものに魅力を感じることが大切だ。 13秒から12秒になったことを もともと11秒で走ることよりもほめてやれば 11秒になるかもしれないって思うかもしれないが 私はそうは思わない。 ここまで努力したことをほめてもらえたからいいかと やめてしまうような気がする。 評価されても自分を努力させるためにしていると考えてしまい 評価が誇りにつながるわけではない。 評価によって努力させると評価がなければ努力しなくなる。 努力は人のためにするものではない。 他人の評価のために努力を続けていくと もう評価なんてされなくていいや もういい子でいるのに疲れた と行き詰まり破綻してしまう。 走ることが好きになったら 自分はやっぱり走ることが好きと努力を続けることになり やがて11秒に届くかもしれない。 問題は13秒でしか走れないのに それでも走るのが好きになれるかどうかだ。 結果が出ないのに好きになるのはたいへんなことだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.09.30 09:30:32
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