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カテゴリ:これぞ名作!
やっと第20話。「魚の眼をした男」の物語、この本の中で私がいちばん好きなお話です。
なぜって、私自身の感覚にすごくぴったりで、短編映画を観るように鮮やかに場面が浮かぶのです。男が乗る通勤電車の音や、満員の人いきれが感じられ、それから、気づくと車内はガラすきになって、冬から春、街から大自然へと変わる車窓の風景が見え、あけたドアから吹きこむ生命の息吹のような熱風が、本当に頬に当たるような気になります。 主人公につけられた「魚の眼をした」という形容が、まず印象的です。魚にはまぶたはなく、眼や顔に人間と共通する表情もあまりありません。だから魚の眼というと、なんとなく釣り上げられた、または魚屋さんに横たえられた、うつろな眼を思い起こします。 いっぽう、フィッシュアイ(魚眼レンズ)という言葉も連想されます。これは周囲をぐるりと広角に(というより全周)映すレンズですが、映されたものは独特にゆがんで見えます。なるほど物語が進むにつれ、主人公の眼が世界を普通とは違う屈折率で眺めているような気がしてきます。 関係無いんですが、私には、川又千秋『幻詩狩り』に出てくる「異界」という詩の書き出しが思い出されます--「魚だ。ドゥバド。その目玉を直角に切り裂け。断面の震え。破裂する水晶体は血にまみれて映し出す。ドゥバド。茜色に染まった鏡人たちの都…」ほら、ここにも鏡が出てきました。 さて、ストーリーは分かりやすく、一言で言うと、あくせくとした日常からの脱出行です。日常から異世界やワクワクドキドキ体験に突入するにはいろんな方法がありますが、電車に乗って移動するというのは、私には身近でよく慣れ親しんだ手段です。 ドアを開けたらいきなり異世界、というのはステキだけど実現可能性が少ないし、びっくりしずぎて心臓に悪そう。それに比べて、列車の旅は地続きの場所へだんだんに移動するという点で安心だしホンモノ感が出ます。船や飛行機もいいけど、水や空をはさむとそれなりの隔絶感があります。やはり歩いても行ける所=現実の延長にある非日常に、まずは行くのが安心です。 この本の短編について書き始めてから、くりかえし異世界との断絶=絆が切れていること、に注目してきましたが、この物語ではまだ地続きなんです。まずは、とか、まだ、と書いたのは、主人公がついに海に至るところで物語が終わりますが、書かれていない続きこそが異世界トリップだと思えるからです:「魚」の眼をした男は「海」でこそ、自由になって生き返るでしょう・・・ 少し先走りしてしまいました。 自動車やバスは自分で運転したり運転手に話しかけたりして、行き先や速度、止まる所などを自分で決められるけど、列車ではふつう運転手に接触できず、停まる所は決まっていて変えられない。どの駅で下りるのかは決められるけど。これぐらいの制限があるのが、私にちょうどいいワク・ドキ感です。 「国境の長いトンネルを抜けると」という有名な書き出し(川端康成『雪国』)や、宮沢賢治そして松本零士の銀河鉄道の物語を思い出すと、列車に乗って行く非日常体験のテンポや特性がつかめると思います。 ところで、主人公の男はふだんから通勤に列車を使っています。不快な通勤時間であるのに、男にとっては帰宅して一日が終わってしまうより、 …市街電車にすわっているかぎり、いろいろな可能性がまだあるように思えた。 --ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』丘沢静也訳 というのですが、このささやかな期待感がいいです。常識と日常に慣れきっているけれど、誰もが心の底に持っている、一かけのファンタジー気分。これがなかったら、誰もが日々のルーティーンに押しつぶされ生命力を失ってしまうでしょう。 一かけのファンタジーは、最初、男が読む新聞の活字の誤植として現れます。これも私好み。なぜなら、読むことによって異世界体験をするのが、私のいちばんの楽しみですから! 誤植、と彼は思っていますが、実はそれは日常的文章にまぎれこんだ、異世界のしるし、暗号、招待状なのです。 そうこうするうち、非日常のかけらはどんどん増え、みるみる日常を浸食します。定期券は見あたらず、車窓の太陽は沈まず、時計は止まり、電車は見知らぬ景色の中をぐんぐんスピードを上げて走ります(このあたり、『銀河鉄道の夜』の車窓のさまざまな異国情緒あふれる風景や、長野まゆみ『夜間飛行』に出てくる列車の旅なんかも私の感覚の中でダブります)。 おもしろいのは、明らかに非日常の出来事が起こり景色が変わっても、男が日常に固執することです。野放図なファンタジー気分の象徴というべき白馬が現れても、彼は馬と車両が接触事故でも起こしたら警察の現場検証などで帰宅が遅れる、と心配します。突然出現した非日常に対して、素直に驚くこともできず、目の前の景色を信じまい認めまいとして、日常にすがっているのですね。 けれど、異世界へ向かい出したら、もう引き返すことはできません。車窓の非日常にたえかねて男はいったん列車から飛び降りますが、むろん下りた所はすでに非日常世界(この時は無限の荒野)で、歩いて自力で家(日常)へ帰るのは無理、と気づきます。早く気づいてほんとに良かった、というのも、彼は走って列車になんとかまた乗りこむことができたからです。 もし乗れなかったら、彼は途中の世界に取り残され、家にも帰れず目的地にも着けなかったでしょう(またもや第4話の「途中駅」を思い出します。それから、『銀河鉄道の夜』でも『999』の方でも、途中下車した主人公たちが出発に間に合うように必死に走る場面があります)。そして、ようやく自分がほんとうに別の世界を目指していると認めます: 彼にはわかった。自分はすべてを了解したと表明したことが。なにが起ころうと、それは、彼がみずから望んだことなのだ。 --『鏡の中の鏡』 この後展開する景色は、壮大で美しく、感動的です。そしてさながら天国に到達するような、めくるめく透明な荘厳さの中、彼は目的地を知るのです:「海だ。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 21, 2016 12:17:46 AM
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