カテゴリ:映画・演劇(とりわけミュージカル)評
昨年秋から楽しみに待っていた鹿賀丈史+マルシアのミュージカル「ジキル&ハイド」。
この主役は鹿賀丈史(かが・たけし)さんの当たり役なのだが、この役を鹿賀さんが演じるのは今回の公演限りということだから、何としても見なければと。 相当高い期待感をもって日生劇場へ行ったのだけど、ストライクゾーンに「ばしっ」ときまった満足に包まれて戻ってきた。 (↓ 関連サイト) http://www.toho.co.jp/stage/jh07/welcome-j.html 善なるジキル博士だけならそこそこの役者さんなら誰でも務まるだろうが、邪悪なハイドに変化(へんげ)するところから、鹿賀丈史さんだけの凄みがあった。 次の「ジキル&ハイド」は、いったい誰がやれるのだろう。 鹿賀丈史さんがごく自然体で朗々と話し歌うときは、意外なほど快活、軽やか。実年齢と飛び越えたところに浮遊する若々しさでしょうか。 ひょっとひとっ飛びでおちゃらけにいけそうな、ちょっと危ない不安定感までたたえて。 (昨年の市村正親さんと競演の「ペテン師と詐欺師」は、鹿賀丈史さんのそういう側面を生かしていた。 軽やかさを失わぬ「ペテン師」役。 それが見せてくれるのは、鹿賀さんの魅力のほんの一部にすぎなかったから、ちょっと物足りなさがあったけど。) この軽やかな「地」があるからこそでしょうか、そこに一滴、また一滴と毒を落としてゆくと、 色あざやかに変化(へんげ)してくれる。 その変化(へんげ)が、劇場空間を鷲づかみにしてくれました。 ばさりと長髪を振り乱しオオカミさながらのうなりを発するとき、鹿賀丈史が理性界を離れてしまう。 毒の絵の具を豊富に持っている人だ、鹿賀さんは。 そのパレットはよりどりみどりで、ごくごく軽めの毒を盛ったのが、あの料理の鉄人の主宰役だったのだな。 毒がこれほどおいしいなんて。 毒のうま味を識ってしまった客を、一幕と半分ほども率い続けるパワー。 娼婦、ルーシー・ハリス。 彼女にやさしくするジキル博士そのものです、ぼくは。 彼女にやさしくすることで、ぼくの心も満たされてゆくから。 今や押しも押されもせぬ女優マルシア のミュージカル初舞台が、平成13年の「ジキル&ハイド」初演のとき。 そしてそのとき芸術祭賞演劇部門新人賞を受賞したというのも、納得です。 娼婦ルーシーの歌声が響くたびに、ちいさな電撃が走りました。 ルーシーとエマ(鈴木蘭々)の唱和、 ルーシーとハイドの「罪な遊戯 (Dangerous Game)」、 そしてジキル博士のこの上ないやさしさを受けてよろこびと希望に満ちて歌う「新たな生活 (A New Life)」がとても切ない。 マルシアさんは、舞台でほんとに輝いていました。 美しい。ガールフレンドのように。 舞台装置もうまい。 ジキル博士の実験室は、書斎とも見えつつ後ろに巨大な歯車が大時代的に回る赤茶けた背景を伴っているのですが、 その実験室でジキル博士がハイドに変化(げ)するとき、 背景がスルスルとさらに後ろへ動かされ、 そうすると相対的に目の錯覚でハイドとなった鹿賀丈史が大きくなって見える。 ハイドがむきむきと盛り上がるように育つのを、 もはや押し止められないという切迫感が舞台から伝わってくる。 この舞台効果はみごとです。 エドワード・ハイドは人間の「獣性」を体現している、と書こうとしてはっとした。 ハイドは連続殺人を犯すのだけど、じつは無差別殺人ではなくて、 復讐心と独占欲という極めて人間の人間たる部分を増幅させた結果の犯罪だ。 だから、「理性界」を離れているとしても、けっして「人間界」を離れているわけではないのがハイド。 愛をさえ性急に荒々しく独占しようとして、愛する者を殺してしまう。 だから、ハイドの行動もまたハイドなりの条理があって、それが理性界では不条理になってしまうのだ。 原作“The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde”は、高校生のころ研究社の英文注釈つきの叢書で読みました。 無駄をそぎ落とした淡々とした文体なのに、ぐいぐいと引き込む魔性(ましょう)をもった作品でした。 英文の原作文学としては、はじめて通読した本だったように記憶します。 相前後して George Orwell の Animal Farm を読んだ覚えがあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Apr 8, 2007 12:54:31 PM
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